2:Dive-≪1≫
2:Dive
≪1≫
「しかし広えなー、成田も広いなーって思ってたけど、そんなレベルじゃねーな!これは迷子になったらヤバいやつだ、お前ら、オレから離れんなよ」
そう言いながらイェンスは辺りをキョロキョロし、建物の広さに驚嘆していた。
放っておくとイェンスの方が迷子になりそうなので、ミツクニは注意してイェンスの行動を見ておくことにする。
エーリクは隣で笑いながら「確かにな」と頷く。
「このロサンゼルス国際空港って日本の山手線の内側より広いんだろ?こんなに沢山の建物が融合してるってのも凄えよな。国が変わるとこうも景色が違えのかと思うぜ」
現地時間朝五時。三人は十時間ものフライトを経て、何とかロサンゼルス国際空港へと辿り着いた。
一応三人とも世界ツアーを何回も経験している者達である。故に時差には耐性が多少はあるが、やはり長時間飛行機に乗っているというのは、何度経験しても疲れるものである。
キャリーケースをガラガラと引きずりながら、三人はガブリエルの寄越した迎えの車が待機しているというセントラル・ターミナル・エリアの駐車場へと向かう。
「しかし駐車場って言ったって、確か二万台くらい停められんだろ?その中から迎えの車を探すって、だいぶ至難の業だぜ」
エーリクは眉間に皺を寄せながら言った。
「確かに…。でもガブリエルさんの事だから、きっとまた俺達が会えば分かる様な人物を寄越してくれてるかも。それか物凄く派手な車とか?」
イタ車的なモノだったりして…ミツクニがそう言って笑ったその時だった。
「あっ!!おい見ろよ二人とも!」
イェンスが前方に向かって指を差している。
二人がイェンスの指の先を辿っていくと―――。
「あ、あの人は…!」
ミツクニは驚きのあまり、思わず口を押さえた。
『我が強い』という印象である。
年は三十台後半から四十台前半と言ったところだろうか。黒いストレートヘアは胸下まであり、化粧はかなり濃いめである。ややエラの張った顔はステージで見るよりも大きく、インパクトに溢れていた。
駐車場へ続くルートで待っていたのは、フィンランドのシンフォニックメタルバンド≪フレイア≫の紅一点ボーカル、バーバラ・クレメラであった。
バーバラは三人に気が付くと、嫌々と言わんばかりの表情を隠そうともせずこちらへ寄ってきた。
「あんたたち、この私を運転手として使うなんていい御身分じゃない」
そう言ってバーバラは高笑いした。
その笑い一つでさえもオペラの如く、空間を震わせる。
「す、凄い…これがバーバラ・クレメラ。フィンランドの誇る”女神の歌声”か…!」
ミツクニは思わず驚嘆のため息を吐いた。
北欧を中心として発展したシンフォニックメタルバンド。その多くが女性ボーカルを起用しており、また彼女らの多くがオペラを基とした歌唱法で歌っている事が多い。
バーバラはその中でも、その歌唱力、表現力の高さから”女神の歌声”と評されており、メタル界の女性ボーカルの中では彼女の右に出る者はいないと言われているほど優れたボーカリストであった。
バーバラはミツクニの方を見、オホホと笑う。
「あら貴方、『新世の炎』ミツクニ・カルヴァートじゃない。やだ、雑誌で載ってる写真よりも更にイケメンね。エキゾチックな顔立ちが堪らないわ」
そう言ってバーバラはミツクニの頬に触れる。
「あっ!こらババーラ、汚ねー手でミツクニに触ってんじゃねー!」
そう言ってバーバラの腕に噛み付こうとするイェンス。バーバラは咄嗟に腕を引っ込めた。
そうしてバーバラは、穴が空きそうなほどイェンスを凝視する。
「な、何だよ…」
イェンスは自分よりも大きな相手に威嚇する犬さながら、ややへっぴり腰になりつつバーバラを睨み付けている。
「…ああ、貴方もしかしてイェンス・カルマなの?…何か、実物は思ったよりもそうでもないわね」
っていうか私はババーラじゃなくてバーバラよと付け加え、彼女はイェンスから目を反らした。
「ああ!?てめえ、よくもオレが二番目に言われて嫌な事を抜け抜けと…!」
イェンスはそう叫びながらバーバラに掴みかかろうとする。ミツクニはイェンスを抱え抑えながら、
―――じゃあ、一番言われたくない事ってなんだろう?
と考えていた。
だが、ミツクニの疑問はすぐに解決する事となる。
「そうそう、イェンスはよく見ると可愛い顔してんだぜ!まあ、イェンスは仕事の時はメイクもしてるし、ヴィジュアル系ぽいから写真もちょっと麗しく修整され過ぎちゃうんだよな!あっはっは!!」
エーリクはそう言って高笑いした。
イェンスは顔を青白くしながら、わなわなと震え、エーリクを睨み付けている。
「…てめえ……エエエエェリクゥウウウウ!!!」
イェンスの猛獣の叫びが響き渡る。早朝と言えどもここはロサンゼルス、人は多い。
皆、遠巻きにこちらを見ていた。
「ちょ…っ、イェンス止せって」
もはやミツクニの言葉はイェンスには届かない。
「オレはなあ…ヴィジュアル系って言われんのがいっっちばん嫌いなんだよ!!許せねえ…絶対に許せねえぇええ!!!」
イェンスの眼に雷光が走っている。
―――あ、これはマジで怒ってるやつだ。
ミツクニは気が遠くなりながらも必死でイェンスを止めつつ、心の中でそう確信した。
確かにイェンスは普段ステージや雑誌の写真撮影ではメイクをしているため、ともするとヴィジュアル系に見えなくはない。そしてそのせいなのか、写真の中のイェンスは実物とかけ離れた、人間離れした麗しすぎるルックスと変貌してしまっている事が多い。
ミツクニ個人としては実物の、ありのままのイェンスのほうが親しみやすく好きだが、ファンの女の子の中には、「うわー、写真と全然違うじゃん」などと心無い言葉を掛けてくる者もいるのだと、そういえば以前言っていた。
―――って事は、イェンスの中ではヴィジュアル系=写真の中の修正後の自分っていう式が成り立ってるんだな。で、嫌だと。
エーリクは両手を顔の高さまで上げながら、イェンスに「おいおい」と宥める。
「”可愛い顔してる”ってちゃーんと言っただろ?写真が盛りすぎてるだけだって。あそこまで綺麗だったらかえって気持ち悪いぜ?なあ、バーバラ」
そう言ってエーリクは助けを求めるかの如くバーバラの方を向いた。
バーバラもイェンスの変貌ぶりに若干焦りながらも「そうね」と続く。
「うん、こうして見ると実物の方がいい感じよ。普通にちゃんとイケメンだから安心しなさいな」
荒かったイェンスの鼻息が徐々に静かになっていく。
エーリクとバーバラはミツクニの方を縋る様な眼で見た。
―――えっ!?お、俺も!?
何も言ってないのに…そう思いながらもミツクニは仕方なしに口を開く。
「…う、うん、俺はそのままのイェンスが一番好きだよ」
イェンスのややつり目がちの、切れ長の目がぱっと見開かれ、まるで向日葵が太陽に向かって花開くように、青白かった顔がぱっと華やいだ。
少し間違った事を言ってしまったかもしれない―――ミツクニはやや照れた態度のイェンスを見ながらそう思った。
***
空港を出て、ダウンタウンにあるというガブリエルのスタジオへと車を走らせながら、四人は取り止めの無い話をぽつり、ぽつりと交わしていた。
市内は早朝である為人通りはそう多くは無かったが、雑多でありながらもお洒落な街並みはやはり日本とは全然違う。
オレゴン州の、ミツクニの実家周辺はかなり田舎であるため、同じアメリカでもこうして全く別次元の街並みを眺めるというのは、それだけで心が躍った。
ツアーの際などは実に様々な国を巡るが、やはり仕事であるという頭がどこかにあるため、こうしてリラックスして景色を眺めるなどということは余り出来ない。
この三週間ほどで、ミツクニは良い意味で背俗離れした、晴れ晴れとした心持になっているのが自分でも分かった。
「いやしかし、ガブリエルくらいの金持ちならもっとセレブな場所にスタジオを作る事も出来たんじゃねえのかな。ダウンタウンも悪くはないが、治安は大丈夫なのかね」
エーリクは助手席で窓越しに景色を眺めながらそう言った。
「そこは大丈夫、ガブリエルのスタジオは少し入り組んだ場所にあるんだけど、セキュリティがかなりしっかりしているの。普通の人間はそこに入口があることすら気付かないはずよ」
サングラスを掛けながら、颯爽と運転するバーバラがそう言った。
からりとした心地良い風が吹き抜け、伸ばした前髪がミツクニの顔に掛かる。それを手でかき分け、耳に掛けながら、ミツクニは風が流れてきた方を見た。
横に座るイェンスの右横に位置する窓が少し開けられている。彼はじっと窓から目を逸らさぬまま、いつもよりも少し高めの声で言った。
「なあバーバラ、ロスっていうと遊園地とか、海とか、ハリウッドもあるだろ。デスバレー国立公園もいいよなー!オレが好きなあの映画の撮影場所なんだってな、あそこ!」
バーバラはそれを聞きため息交じりに返す。
「そうね。でもきっと、あなたたち観光は出来ないと思うわよ」
バーバラの運転する車はそうこうしている間にも、左折したり右折したり、どんどん複雑な狭い道路を進んでいく。
左右に迫る建物は工場跡のように見える。人の気配は無く、排他的な印象を受けた。
「ちぇっ。せっかくこんな絶好の観光地に来たっていうのに、見るのはただの廃墟だけか」
イェンスはそう不貞腐れながら窓の枠に肘を掛け、頭を寄り掛ける。
「そう?でもきっと入ったら驚くわよ」
そう言ってバーバラは車を左折させた。
車は少し開けた場所に出る。先は行き止まりになっていた。
だが、バーバラはスピードも落とすことなく、構わず車を走らせる。
「ちょ…えっ!バーバラさん、前!」
ミツクニは思わず後部座席から、運転席と助手席の間から顔を出し叫ぶ。
「さあ、行くわよ!」
バーバラがそう叫んだと同時に目の前の壁が左右に開いた。
車はそのまま開かれた壁の中へと吸い込まれるように入っていく。
「ワーオ!!たまんねーな!テンション上がるぜ!!あーっはっは!!!」
助手席でエーリクが何時にも増して大声で笑いながら一人で盛り上がっている。
一瞬、暗闇で何も見えなくなり、それと同時に車体が斜めになる。どうやらかなり急勾配な坂を下っているらしい。ミツクニは思わずシートベルトを掴んだ。
そうこうしているうちに辺りはうっすらと青い光に包まれ、その全容が見えてくる。
「うわっ!何だこれ!!」
イェンスが凭れかけていた頭を上げ、再び窓にへばり付く。
金属張りの壁は金属パイプが幾重にも渡り張り巡らされている。それは良く見ると振動しており、使用用途は想像もつかないが、ひっきりなしに稼動しているのだという事だけは分かる。地面はコンクリートのようだが、青白い光のラインが電子回路の如く複雑な線を描いており、まるでSF映画の世界にいるかのような錯覚を起こさせた。
暫く坂を下りていくと、やがて車はひらけた空間に辿り着いた。
先程とは変わり、そこはただのコンクリート張りの空間となっており、他の車も何台か停まっている。どうやらここは駐車場のようだった。
バーバラは空いているスペースへ車を停めると、三人に降りるよう促した。
「ったく。宇宙旅行にでも連れていかれるのかと思ったぜ」
イェンスはミツクニの隣につつ、と来ると、ぽそりとそう呟いた。
三人はバーバラに続き駐車場の先にある重金属の扉を開け、中へ入り薄暗い廊下を進んでいく。先程の近未来調の内装とは打って変わり、廊下はどこかのオフィスの様な雰囲気を醸し出していた。
四人の足音が響き渡る。
「ガブリエルはこの先よ」
バーバラはそう言って、廊下の突き当たりに位置する扉を開けた。
「うっ…」
薄暗い空間に長くいたせいか、中から溢れる光が眩しく、ミツクニは思わず腕で目を隠した。
だがすぐに光に慣れ、視界が開けてくる。
「………!これは…」
中は綺麗なオフィスのようだった。
幾つかのワークデスクが並び、それらはどれもキチンと整理されている。
そして部屋の奥に位置する、ひと際大きなデスクに座っていたのは―――。
「ガブリエルさん!」
ミツクニが彼の姿を見、そう叫ぶ。
ガブリエル・フェルナンデスはそのさらりとした髪を耳に掛けながら、「やあ、来たね」と、電話よりも更に低い声で言った。
年は五十台頃だろう。バーバラほどではないが、エラの張った顔に、ややたれ目で黒目がちの瞳は知的な光を湛えている。髪こそ長髪だが、スーツをきちんと着こなし堂々としたその姿は、同じメタラーだとはとても思えなかった。
「バーバラとはすんなり合流できたかな?」
ガブリエルは微笑みを絶やさぬままそう口を開く。
「あー…えっと、ええ、まあ」
ミツクニは先程空港で起こった猛獣の暴走を思い出しながら、やや歯切れ悪くそう言った。
ガブリエルはそんなミツクニの様子を見、ははと笑いながら立ち上がる。
「イェンスにエーリクもよく来てくれた。君たちが来てくれたからには、もうメタル界は安心と言っていいかな。幸先は良さそうだ」
「ガブリエルさん、分かってるじゃねーか!このオレがいるからにはもう安心だぜ!!」
イェンスがそう言って髪を後ろに払うのをそっと押しのけ、エーリクはガブリエルの前に立ち言った。
「ガブリエル、早速で悪いが…。オレ達の”旋律”がコマっていうオンラインゲームの中に封印されてるってのは確かなのか?」
それを聞いたガブリエルの眼に鋭い光が宿った。
ガブリエルは一度ため息を吐くと、額に手を当てながら言う。
「エーリク、よく聞いてくれた。電話でも話したが、僕はその線が一番有力だと踏んでいる。……こちらへ来てくれないか。詳細を話そう」
そうしてガブリエルは、彼のデスクの隣に位置する扉を開け、奥へと入っていく。三人もそれに続いた。
ミツクニは一度だけ振り返り後ろを見る。バーバラは腕を組んで、複雑な面持ちで立っていた。
「バーバラは来ないの?」
ミツクニがそう問うと、バーバラは我に返ったようにはっと目を見開くと、ミツクニの方を向き、ひらひらと手を振りながら口を開く。
「私は別の仕事があるの。ここでお別れよ」
―――別れ。ミツクニの心にその言葉がやけに引っかかった。
バーバラは一瞬の間を置き、今まで見せた事のない優しい笑顔で、ミツクニに微笑む。
「…ああ、そういえば貴方、家族はオレゴン州にいるんでしょ?連絡は取ってるの?」
突然の質問にミツクニはやや驚きながらも、「あ、はい」と答える。
両親には飛行機を降りた時点で連絡を入れている。両親はミツクニの事を心配していたが、ミツクニが友達二人が出来た事、彼らと楽しく過ごしていると伝えると、とても喜んだ様子であった。
「ちゃんと定期的に連絡してあげるのよ?大変な時でも、心配かけないように、元気にしてると伝えるの。いいわね?」
その言葉はなぜか、ミツクニの耳に鋭く突き刺さった。
***
ミツクニがガブリエルたちを追い扉の向こう側へと入ると、そこはまたもや、全く別次元の世界だった。
そこは一言で表すのならば、よく映画などで見かける軍の指令室のようであった。
後方に向かうにつれ高くなる構造の部屋は広く、前方には壁全体を覆う巨大なスクリーンが、何か地図の様な物を映し出している。
薄暗い部屋はスクリーンの煌々とした光により照らされている。スクリーンの前方には巨大なコンピューターが置いてあり、その前には何人かの男女が忙しなくそれらを操作していた。
これだけでも十分圧倒されるが、更に驚くべきなのはここからだった。
コンピューターの後方から数列に渡り置かれた、何台もの機械。
丁度成人男性が一人は余裕で入れるほどの大きさである。コックピットの様な、卵のような形状をしたそれは前方が遮光ガラスの様なもので覆われている。ガラスからは、内部壁の赤や緑、青などの光の線が忙しなく走るのが見えた。そうして内部空間の大部分を占める、やや大ぶりの、操縦席ともいえる様な形状の座席。そこには誰も座っていなかったが、これが何かとんでもない装置である事だけは一目で分かった。
「こいつは凄えな……。何かのアニメに出てきそうだぜ」
隣でエーリクがそう呟いた。
「うん、こんな機械、こんなに並べて、一体―――」
ミツクニがそう言いかけた時だった。
「おい見ろよ二人とも!こっち!中に人がいる!!」
少し離れたところからイェンスの叫び声が聞こえた。
ミツクニとエーリクはイェンスの声がした方へと向かう。
「ほら、中に居るだろ?」
機械の一つの中を覗き、指を差すイェンス。その先を二人は追って見た。
ミツクニはその姿を見、思わず息を飲んだ。
確かに、内部に人が座っているのが見える。
男性だろうか。やや大きめの体型の印象を受ける。
だがその人物は、一向に動く気配がなかった。
手足を機械に繋がれ、身体からは何本ものチューブやコードが伸びている。目はVRゴーグルのようなもので覆われ、口元には人工呼吸器のフルフェイスマスクのような機器を装着していた。
足と手は機械で繋がれている。
生きているのだろうが、それが生きている、同じ人間だとはどうしてもミツクニには思えなかった。
言いようのない恐怖がミツクニを襲う。ミツクニは隣に立つ二人を見た。
二人の顔にも緊張と不安が浮かんでいるのが、一目で分かった。
ミツクニは機械に目線を戻す。そうしてふと、ガラスの上部に何か文字が記されている事に気付いた。
「『Code:2960012 Helmut Bech』…ヘルム…ト・ベ…シュ…?…あ!」
そこまで読みミツクニは弾かれた様にもう一度、内部の人物を見る。ガラスに記された文字と内部の人物を見比べ、ミツクニは口を押さえながら言った。
「ヘルムート・ベッシュ…!ドイツのメタル王者『ベッシュ』のギタリストだ!!」
それを聞いたイェンスがガラスに顔をくっつけ、食い入るように内部を見た。
「嘘だろ!?あの大御所バンドの創設者がここにいるこいつだってのかよ!?」
確かに、良く見ればすこしボサボサな長髪や服の雰囲気、体型が何となくヘルムートらしいと感じなくはない。
エーリクもじっと内部に目を凝らしながら言った。
「…いや、あれは間違いなくヘルムート・ベッシュだぜ。俺、エクスカリバーに入ってから初めて参加したフェスで彼を間近で見ているが、こんな感じだった」
「その通り。彼はベッシュのギタリスト、ヘルムート・ベッシュだ」
背後から突然低い声が忍び寄り、ミツクニは思わず身を縮める。
普段の通りの笑みを浮かべたガブリエルは手を広げ「ここにいるのは」と話を続けた。
「みな協力者のメタラー達だ。彼らは君たちよりも先に、『コマ』の世界に入っている」
三人はガブリエルの広げた手を伝い部屋全体を見た。部屋にある卵型の機械は五十台はあるだろう。もの言わぬそれらの機械はただ時折唸る様な機械音を出すのみで、その光景はとても異様に見えた。
「…じゃあ、これが『コマ』をプレイするための…?」
ミツクニは恐る恐るガブリエルに問う。ガブリエルは「そう」と頷いた。
「僕たちはこの機械を『コクーン(繭)』」と呼んでいる。見た目そのままだがね。いや、確かに機械自体はかなり仰々しいし、内部の人間の様子は少しホラーだが、大丈夫。安全は保障するよ。命の危険はない。と言っても不安だろうから、少し話してみると良い。―――ほら」
そう言ってガブリエルは手に持っていたリモコンを操作した。地図の様なものが映し出されていた画面は一瞬で変わり、コンクリート張りの、武骨な部屋が映し出された。
中央にはこちらに背を向けて、クローゼットをがさがさと漁っている、派手な柄のシャツを着た男の姿がある。
「今日、君たちを呼ぶにあたって、彼に話をしてもらうよう前もって言ってあったんだ。―――おーい、ヘルムート」
リモコンに向かって呼びかけるガブリエル。どうやらリモコンがマイク機能も搭載しているらしい。
ガブリエルの声が聞こえたのか、男は漁る手をぴたりと止めると、面倒くさそうにのそりとこちらを振り返った。
顔が険しい。顔の皺と相まってギョロリとした目がなお一層彼の顔を怖くさせているとミツクニは思った。
『―――おい、そいつらがお前の言う”期待の新人”か?ったく、どいつもこいつも拭抜けたツラしやがって。特にそこの刺青坊主』
そう言って画面の向こうの男―――ヘルムートはミツクニを指差した。
「……え!?俺!?」
―――おかしいな。俺、わりといつも真摯な心が顔に出てるって言われるのに。よし、ちょっとキリッとしてみよう。
ミツクニはそう決めると口と目に力を入れる。
『こら、ふざけた顔してんじゃねえ。ったく、これは扱き甲斐がありそうだ。早くそいつらをこっちに送りやがれ、ガブリエル。いいかお前ら、覚悟しておけ』
真面目な顔をしたはずがふざけていると勘違いされたミツクニは意気消沈しながらも、画面のヘルムートを観察した。よく見れば、彼の傍には巨大なライフル銃が立てかけてある。
「ヘルムートさんの隣に銃が…」
ミツクニが口を開く。ガブリエルの持つマイクは機能が良いらしく、少し離れたミツクニの声も拾ったようだった。
ヘルムートは『ああ?』と言うと隣の銃を見る。そうしてニヤッと笑った。
『こいつが俺の”鋼鉄の魂”だ。どうだ、カッコいいだろう。お前らは何だろうな?爪楊枝か何かじゃないといいが…ま、ガブリエルが期待してるやつらなんだったら大丈夫だろう』
―――”鋼鉄の魂”?
ミツクニは首を傾げる。
ガブリエルは再び画面のヘルムートに向かい話しかけた。
『ヘルムート、身体は変わりないか?そっちの世界は問題ないね?』
ヘルムートは『ああ』と答えると、再びこちらに背を向け、クローゼットを漁りながら言った。
『変わりない。こっちは楽しいぞ。だから早く来やがれ、莫迦ども。……くそっ、俺の気に入りのアロハシャツはどこに行った?』
そう言ってヘルムートが作業に戻ったのを見、ガブリエルは画面を消す。
「どうだい?安心してくれたかな?」
「ええ…っと」
ミツクニはどもる。確かにヘルムートが元気なのは分かったが、それはゲーム内での話だ。
この様子だと、このゲームはVRよりも更に優れた、本当に自分がゲームの世界に居るかのような感覚でプレイ出来るものなのだろう。
しかも今の画面は、現実の映像そのもののように見えた。普通ゲームと言うと、いかに綺麗でもグラフィックであることに変わりはないし、人物もいかにリアルに作られていたとしても現実の人間と紛うことはない。
だが、今の映像は、現実世界そのものだった。こんな最先端の技術があるなんて―――。
ミツクニは言葉を失った。
「…ここまでリアルな世界に飛び込んで、無事にこっちに帰ってこれんのか?身体は大丈夫なんだろうな?こいつら、まるで植物人間みたいだぜ。生きてるっていうか、生かされてるみてえだ」
エーリクが顎鬚に触れながら言う。
ガブリエルは「ふふ」と笑うと、機械の一つに向かい歩き始めた。三人もそれに続く。
「安心していい。この機械、徹底的に調べさせてもらったが、ゲームをよりリアルにプレイする為にこんなに仰々しい造りになっているだけだったよ。プレイヤーもちゃんと、こっちの世界に戻って来たかったらいつでも戻ってこれる。…丁度一人帰って来たよ」
そう言ってガブリエルは機械の一つをこんこんとノックした。
中からガタガタと動く音が聞こえたかと思うと、コクーン前方のガラスが上部にスライドする形で開く。
緑の髪色をした、ポニーテールの女がマスクとゴーグルを外し、こちらに向かい微笑んでいた。
「彼女はスウェーデンの駆け出しバンドのボーカルだよ。今回、この調査に加わって貰っている協力者の内の一人だね。―――身体に異常はないかい?」
女は立ち上がりコクーンの外へ出ると「ええ」と言って首を縦に振った。
「いつもどおり、何も問題ありません」
「そうか、なら行っていい。お疲れさま」
ガブリエルがそう言って女の肩を叩くと、女は出口に向かって去っていった。
女が一度こちらを振り向き、ミツクニの方を見る。女はミツクニと目が合うと、一度ぱちりとウインクをして去っていった。
エーリクが肘でミツクニの脇を突っつく。
「良かったじゃねーかミツクニ。だから言っただろ?お前の日本人寄りのエキゾチックな顔は女をそそらせるんだって」
「今の女はきっとミツクニのアシュラにウインクしたんだぜ。勘違いするなよ、ミツクニ」
イェンスはそう言ってミツクニの腕に彫られたアシュラを指で突っついた。
ガブリエルは微笑んだまま、その件には触れることなく話を続ける。
「……という訳で、コマは単なるゲームなんだよ。ただ、製作者の意図は分からないが、恐らくそこに旋律が封印されている。…そうそう、気になる世界観だが、こんな感じだよ。見るかい?」
そう言ってガブリエルは再びリモコンを操作した。スクリーンに近未来都市の映像が大きく映しだされる。
「舞台は高度文明崩壊後の、荒廃した近未来都市だ。ここは円形の陸地になっていて、時計の時針の区切りと同様にして十二の区に分かれている。そしてそこには―――」
そう言ってガブリエルは画面を指差す。都市の中を、機械と生物が融合したような、禍々しい怪物が徘徊している。
「”機鬼”と呼ばれる、こういった魑魅魍魎が蔓延っているんだ。プレイヤーはこの”機鬼”を狩りながら、この世界を生き抜いていくという訳だね」
画面では”機鬼”と武装した人間が戦っている様子が映し出されている。服は皆軽装で、思い思いの格好をしている。持っている武器もそれぞれ違った。
「この武器とかって自分で買ったりするんですか?」
ミツクニが画面上で戦う者達を見ながらそう言った。ガブリエルは意味深な笑みを浮かべると、首を横に振り言う。
「いいや。―――それは向こうに行ってからのお楽しみさ」
画面にはコマ世界の様々な景色が映し出されている。人が多く集まる近未来型の都市もあれば、森の奥深くに建つ遺跡、火山まで存在するようだ。
「どうだい?コマ世界に行ってもいいと思ってくれたかな?」
映像が終わり、画面を消すと、ガブリエルは三人に向き直りそう問う。
「うーん…正直、凄え行きたい。格好良すぎる」
イェンスが消えた画面を見つめながらそう言った。
「まあ、正直格好良いよな。…どっちにしても、まだ誰もこのゲームの中の旋律を見つけられてねえんだろ?」
エーリクはそう言ってガブリエルの方を見た。
「そう。まだ誰も旋律を見つけられていない。だから君たちに頼みたいんだ。
このコマ世界上の伝説では、簡単に言うと、『勇者たる者達がいずれ世界を救う』とある。僕は、君たちこそがその”勇者”たる人物なんじゃないかと思っている」
そう言ってガブリエルは三人の眼を見て微笑んだ。
ミツクニは何も言わず、思考を巡らせる。
確かに格好良い。これこそ求めていた形の、超リアル型のゲームだ。
―――『勇者』か。
大好きなRPG『ネオジェネ』のようだとミツクニは思った。ネオジェネも勇者が世界を救うという王道の展開を繰り広げている。
―――いずれにせよ、旋律の手掛かりは今現在、ここにしかないんだ。
ミツクニは後ろに並ぶ卵型の機械『コクーン』を見てそう思った。
―――ん?
ふと、ミツクニの眼に、機械の一つに記された文字が入ってくる。
それは先程、内部に誰もいない事を三人が確認した機械の一つであった。
『Code:2961209 Dean Mitsukuni Kalvert』
―――ディーン・ミツクニ・カルヴァート。
ミツクニは、自分の名が初めて遠い存在の様に感じられた気がした。
***
ガブリエルが市内のホテルの一室を取ってくれた為、三人はバーバラに運転してもらい、明日までそこで寛ぐことにした。
ホテルからほど近いメキシコ料理店でたらふくメキシコ料理を食べた三人は、ホテルでゆっくりと過ごしながら、途中のコンビニで買った缶ビールで乾杯する。
「明日に差し障りがあるといけねーとはいえ、ひと缶だけってのは寂しいぜ。終わったら浴びる様に飲もう」
そう言ってイェンスは缶ビールを口に流し込んだ。
ミツクニも缶の口に口付けようとしたところで、エーリクが缶を持って固まっている事に気付き、缶ビールを一旦テーブルに置く。
「エーリク?飲まないのか?」
エーリクはミツクニの呼びかけにはっと我に返り「ああ」と言うと、ふと笑い左右に首をゆっくりと振った。
「いや、すまない。少しぼうっとしてた」
そう言って笑うエーリクだが、若干覇気がない。
ミツクニが何も言えずにじっとエーリクを見ていると、彼は一度ため息を吐き、缶ビールをテーブルに置いた。
「…ごまかせねえか。だよなあ……まあ、隠してたって仕方ねえか」
そう言ってエーリクはテーブルの上で左右の手を組むと、いつになく真剣な面持ちでミツクニとイェンスを見た。
「…なあ、手を退くなら今だぜ」
ミツクニはエーリクの発言に驚き思わず目を見開く。
イェンスもビールを吹き出しそうになりながら、慌てて飲み込み、既に中身を空けたと思しき缶をテーブルに置いた。
「な、何言ってんだよエーリク。…ああ、さてはあれだな。ゲームの腕前に今更ながら自信が無くなったか」
「そうじゃねえ。一応言っておくが、俺はこう見えてもアクション系のゲームには相当自信があるんだ。子供の頃から誰にも負けた事はねえ。…でもな」
エーリクはそこまで言うと組んでいた手を解き、身体を後ろに反らせ、両手を後頭部へと回す。
「いいか。俺達、頭の中の”旋律”を奪われたんだぜ。
そもそも音楽って言っても、それは色んなもので構成されてるだろ?ピッチ、音量、リズム、音色、持続時間、和音……。で、それらは脳内の一つの部位で全て賄っている訳じゃねえ。例えばピッチは内耳で高さの情報を把握し、最終的に側頭葉の聴覚野に伝達され処理される。一方リズムは左半球で処理されている。他にも細かい分類分けがあって、色んな部位がそれぞれに役割を担う事で、俺達人間は音楽を『理解して』いるんだ。
それから音楽の『記憶』。これには海馬が関与している。これに歌唱、演奏がプラスされると、運動野にまで至るだろ。で、今現在、俺達はそれらの機能全てを奪われちまった訳だ」
そこまで言ってエーリクは一度息を大きく吐いた。
「”旋律”っていう名の脳内物質があって、それが奪われちまったから音楽を失った―――ってな風に、簡単な事みてえにガブリエルは言ってるけどな。実際にはそんな簡単な事じゃねえ筈だ。何らかの技術で、脳内の音楽に関連する全ての機能を奪う―――
そしてそれをモノみてえに保管して、ゲーム内に隠した…なんて、いくら何でもファンタジーすぎやしねえかな。っていうかそんな事現実で出来る奴がいたら、そりゃもうノーベル賞モノだぜ」
「うーん…確かにそれはそうなんだよね」
ミツクニはそう言い腕を組む。
「そして何で”旋律”を奪っておきながら、犯人はわざわざゲーム内にそれを隠し、見つけさせるように仕向けているのか―――。何で奪った旋律が奪い返される危険を冒して、奪われた者達に奪還するチャンスを与えてるんだろう?」
いくら考えても分からない事である。
しかもゲームをプレイする為の装置『コクーン』。あれほどのものが無料配布される事も、どう考えてもおかしい。
暫く沈黙が続いた後、イェンスがぽつり、と呟くように言った。
「あとさ…あの卵みたいな機械。ガブリエルさんのスタジオだと分からなかったけど、あれってあの卵単体で動いてたよな。ってことはあれ一台あれば、パソコンなんて必要ねーって事だろ。
コマのホームページで見た『エル・レゾナンス』だっけ。あれが作ったのかな。
っていうか今更だけどガブリエルさんのスタジオ、マジで凄かったな」
そもそもあれスタジオなのか?と付け加え、イェンスはテーブルに肘をつき、その上に自分の顎を乗せた。
そうだ。その『エル・レゾナンス』の情報が何もないのもおかしい。
ここまでのモノを作る企業だとすると、とんでもない技術を持った企業だということになる。そんな企業が、なぜ何処を調べても出てこないのか。
「そうだったぜ…その…『エル・レゾナンス』……うおー!絶対どっかでその名前聞いてんだけどなー!全く思い出せねえ…」
そう言ってエーリクは頭を抱えた。
ミツクニは窓の外を見た。行き交う無数の車の光、建物の煌々とした煌めき。それらが宵闇を掻き消そうとしているかの如く、眩しい程に輝いている。
けれど、頭は無音のまま、真っ白な闇が脳内を支配している。
それは残酷な程に綺麗に、全ての音を消し去ってしまった。
―――音楽が無くても、生きていけるかもしれない。生活に支障がないかと言えば嘘になるけど、普通にこうして会話している分には何の支障もない。
―――けれど。
メタルがあったから、音楽があったから、ここまで生きてこれた。
音楽に何度も救われた。そうして、音楽で生きてきた。
―――メタルこそが、音楽こそが俺の『核』なんだ。それを失ったままにしておくことは出来ない。
「確かに、このまま突き進んでいいのか、不安は尽きない」
ミツクニは囁くように、けれどはっきりと思いを言葉にしていく。
「けど俺は、自分の人生そのものであるメタルを、音楽を取り戻したい。そのための鍵が『コマ』にあるなら、プレイしなきゃいけないと思ってる。そうこうしているうちに、現実での調査が進んで、またどこかに飛ばされて調査する事になるかも…。でも、その時はその時だろ?とにかく今は『コマ』をプレイして、その中で調査をしてみよう」
エーリクは黙って聞いていたが、やがて大きく笑うと、ミツクニの頭をガシガシと掴んだ。
「そうだよなミツクニ!まあ、『コマ』はゲームだ。疲れればいつでも戻って来れる。その時は三人で遊園地でも行こうぜ!なあ、イェンス!」
そう言ってエーリクはイェンスの方を見た。
「…あ、寝てる」
テーブルに伏せて寝ているイェンスは微動だにせず、返ってくるのはすやすやという規則正しい寝息だけである。
二人は協力してイェンスをベッドへと運ぶと、靴と靴下を脱がせ、布団を掛けてやった。
「むにゃ…遊園地……」
先程の会話が聞こえていたのか、それとも夢の世界での事なのか。イェンスは寝言でそう呟くと、ごろりと寝返りを打った。心なしか顔が笑っているように見える。
「よっし!明日は『コマ』入りだ!ゲーマーとしての腕がなるぞー!ミツクニ、頑張ろうぜ!」
そう言ってエーリクはミツクニの背中を叩く。
若干ヒリヒリする背中を擦りながら、ミツクニは笑顔で「ああ!」と答えた。
***
翌日。
三人がガブリエルのスタジオに行くと、彼は例の指令室のような部屋で既に待っており、「やあ」と挨拶した。
「昨日はよく眠れたかな?」
「もうばっちりだぜー!朝目が覚めたらベッドに居たんだけど、オレ無意識のうちにベッドに入ってたってことだよな!はあー、さすがオレ」
やけにテンションの高いイェンスはそう言ってあっはっはと大きく笑った。
ミツクニはやや離れた場所にある、自分の名が記してある『コクーン』を見る。
不気味さは変わらないが、遊園地のアトラクションなのだと考えれば、少しワクワクしている自分もいた。
「どうする?早速コマをプレイするかい?」
飄々とそう問うガブリエルに、三人は一斉に頷いた。
ガブリエルは「よし」と一言言うと、横並びに並んだ三台のコクーンの側部にあるスイッチを押すよう、三人に促した。
三人がスイッチを押すと、それが指紋認証され、『OK』という文字が出現したと同時に、ガラスが上部にスライドし、内部が露わになった。
ミツクニは座席に座り、まずは様々なコードやチューブを身体に取り付けた。てっきり穿刺するのかと思っていたので、テープで取り付けるタイプで良かったとミツクニは心で思う。
それからガブリエルの指示通り、座席後ろの壁に固定されていたマスクを手に取り、口に装着した。思っていたよりも全く苦しくない。
次に上部にセッティングしてあるゴーグルを下げ、頭部に固定する。ゴーグルの画面には『Setting』の文字が浮かんでいた。
耳に音声が流れてくる。その指示通り、座席の所定の位置に手足を持って行くと、両手首と両足が座席に固定される。
ガブリエルは三人の準備を丹念にチェックすると、一度大きく頷いて見せる。
「これで、準備完了だ」
ミツクニは左右を見る。コクーンの壁に阻まれ、二人の姿は見えない。
けれど、そこに確実に居るのは確かだ。
ミツクニは一度息をふうと吐いた。
画面には、カウントダウンを表す数字が表示されている。
10…9…8…
「じゃあ三人とも、コマにこれから入るよ。」
ガブリエルがそう言ったのと同時に、コクーンの扉が下がる。
ミツクニは卵の中、一人になった。
6…5…4…
ふいに耳鳴りが響く。それは次第に大きくなっていき、ミツクニは鼓膜が少し痛むのを感じた。
3…2…
ミツクニの脳裏に、記憶がフラッシュバックのように蘇る。
―――熱く燃え滾る炎のように、もしくは絶対零度の氷のように。
鳴り響く轟音。
群青と茜のコントラスト。
「青とオレンジのコントラストが油絵みたいで綺麗だ」
「美しい旋律、今日みたいな夕空が混じりあって、一つの物語のようだった」
空間自体が一つのオペラであるかのような、完成された美しさ。
1…
嗚呼、母さんの作るスパゲティが食べたい。
…0!
全身を串刺しにされる感覚と共に、想像を絶する激痛が体中を駆け巡る。
叫んでいるのだろうが、その叫びは己の耳には聞こえぬ。
視界が白い光に浸蝕されていく。
それは残酷にも、旋律を喪失した脳内の、白き無音によく似ていた。
―――ただ一つ言える事は―――という事だ――――
薄れゆく意識の中、誰かの声だけがミツクニの脳内で静かにこだましていた。