1:Lost-≪3≫
≪3≫
―――『武術 勇敢さ 美しさ 騎士としての振る舞い
全てに於いて その者の右に出る者はいなかったという』
Excalibur/Lancelot du lac
***
出会ってからの二日間、ミツクニ・カルヴァートとイェンス・カルマは様々な事を共有し、楽しみながら過ごした。
勿論怪奇事件の調査に対するやる気は十二分にあった二人だが、何と新宿での喧嘩騒動がネットに流出してしまっていたらしい。ガブリエルからその件を言及され、厳しいお咎めを受けた二人はシンフォニックバンド≪エクスカリバー≫のライブまでは大人しくしているよう言われてしまった。
『―――まあ、想像通り仲良く打ち解けたみたいだから良いけどね』
電話越しにそう話すガブリエルの声は最後、相変わらず妙に楽しそうであった。
二人はライブまでの二日間、祖母タケの家に週四日ほど来るお手伝いさんと共に家じゅうの掃除を行ったり、祖母タケと共に野菜の収穫を行ってみたり、夜には近所のコンビニで買ってきた花火を二人で楽しんだりした。
変わらず脳内は無音のまま、不安は心に影を落としているが、イェンスとこうして楽しく過ごすことで、ミツクニは休暇に入って初めてバカンスらしさを感じ始めていた。
―――旋律を無くした時は、一生笑えないかもなんて思ってたけど…。うん、やっぱり日本に来て良かったな。
隣で規則正しい寝息を立てているイェンスを見ながら、ミツクニはそう思った。
そうして楽しい二日間があっという間に過ぎていき、遂に待ちに待ったエクスカリバーのライブの日が訪れた。
「エクスカリバーってアメリカのバンドだっけ?」
ライブに着ていくTシャツを厳選しながら、イェンスはミツクニにそう問う。
「そうそう、確かペンシルベニア州出身だったかな。アメリカのシンフォニックメタルバンドの代表格、メタル界で言ったら中堅クラスってところじゃないかな。」
ミツクニはごそごそとTシャツの山を漁りながら言った。
イェンスは散々悩んだ末、メタル五騎士の一つ≪サクリファイス≫のTシャツを手に取る。
「でもさあ、アメリカでシンフォニックって何だか珍しいよな。ヨーロッパとか北欧とかがメインってイメージだけど。アメリカはデスとかスラッシュってイメージだ」
ミツクニはTシャツの山から同じくメタル五騎士である≪バーニング・デス≫のTシャツを発掘する。
「そうなんだよな。まあ、二年前の”第二次メタルブーム”が起こってから、メタル界はかなり活気づいたからね。今まで実力はあるのに不遇の扱いを受けてきたメタルバンド達が突然勢いを取り戻し始めて、バンド同士の競争が激しくなった。メタルはデスやスラッシュがウケるアメリカ市場だと厳しい印象があったエクスカリバーだけど、このアメリカらしからぬ音楽性が返って別のバンドとの差別化を図れたようだ。元々、常に高いクオリティを保ち続ける優等生バンドって事でヨーロッパでは相当人気だったのが、メタルブームを上手く利用してアメリカでも漸く成功したってとこだな」
ミツクニはそう言うとTシャツに袖を通した。
“第二次メタルブーム”。
新歴二〇一六年に起こったメタル界の一大ムーブメントの事である。
何が火付け役となったのかは未だに謎ではあるが、その年、世界中で突如メタルCDの売り上げが爆発的に伸び始めるという驚くべき事象が起こった。
それまでのメタル界は長きにわたる不遇不毛の時を過ごしていた。
それがメタルブームが起こった事により、今まで実力はあるにも関わらず売り上げが伸び悩み、暗闇でジメジメとした生活を送っていたバンド達がかつての勢いを取り戻す事となる。また、その勢いに乗じて、新しいメタルバンドも世界中で大量に誕生した。それによりメタル界には未だかつてない程多くのバンドが存在する事となり、メタルバンドとして生き残っていくためには、バンド同士の激しい抗争に打ち勝たなくてはいけなくなった。
ミツクニ達プロメテウスやイェンス達インフェルノも、そんな渦中にいるバンドの一つという事になる。
「へー、成程ねぇ。ミツクニがそこまでいう程の実力者なら、相当なクオリティのパフォーマンスなんだろうな。ライブが楽しみだぜ。他のバンドのライブを観に行くって、デビューしてからは全く無くなっちまったし。あーあ、絶好調の状態に観に行けたらもっと良かったのに」
イェンスはスマートフォンをポケットに入れながらそう言った。
「まあ確かにね。今の俺達がライブを観ても、正直何を演奏してるか分からないだろうな。けどイェンスの言う通り、自分たちが出るついでに他のバンドを見る事はあるかも知れないけど、単純に誰かの演奏を観に行く為だけにライブハウスに行くって中々機会がないから、雰囲気だけでも楽しめたらそれで良いのかも知れない。俺も久々だから楽しみだな」
エクスカリバーは好きなバンドだし、とミツクニは付け加える。
そうして、すっかり身支度を整えた二人は祖母タケに見送られながら、エクスカリバーのライブが行われるお台場へと向かったのであった。
***
「っていうか、オレ実はエクスカリバーって全く聴いたこと無くて良く知らないんだけどさ。確か数年前にボーカルが変わったんだっけ?」
開演前。ミツクニとイェンスは二階席の椅子に腰掛け、ステージを見下ろしながら話していた。
ガブリエルの計らいで、顔パスで裏口から会場に入る事に成功した二人は、エクスカリバーのライブを観に来た他のファンに見られることなく、安心して開演前の時間を過ごすことが出来た。
一応二人はメタル界ではそこそこ名の知れた存在であり、エクスカリバーのライブに参戦するオーディエンス達にとってみれば彼らは『有名人』である。混乱を避ける為にも、二人の正体が露呈してしまうのは良い事だとは言えなかった。
見上げれば一階のスタンディング席からも二階が見えてしまう為、開演前の、まだ会場内が明るい状態の今、二人は念の為サングラスとキャップを着用し変装している。
見るからに怪しい二人組だが、幸い正体はばれていないようであった。
「そうそう、丁度”第二次メタルブーム”が起こった直後だったかな。ボーカルのユリウス・アレクサンダーが突然脱退したんだよ。特にバンド内で問題が起こったわけでもなく、何で辞めていったのかは誰も知らない」
ミツクニは開演前の、緊張感と高揚感に若干頬を紅潮させながら言った。
開場の騒めき、独特の匂い。他の客のTシャツを眺めるのも楽しい。その日のメインアクターのTシャツを着ている者が殆どだが、他にも様々なバンドTシャツを着ている者が居る。それらのTシャツを見、彼らが他にどんなバンドが好きなのか想像するのもワクワクする。そして、今のミツクニ達には解らないが、開演前のバックに掛かっているBGM。これはその日ショーを行うバンドが厳選してチョイスしたものであることも多く、これから観るバンドがどのような曲を好んでいるのか知る事も出来る。自分のお気に入りの曲が掛かった時の高揚感と言ったら!
まるでハイスクール時代の、只の一メタルキッズだったあの頃に戻ったかのような感覚に、ミツクニは心が躍った。
「ふうん。バンドから誰か脱退するときって、大体”そりが合わなくなった”とか”音楽性の違い”とかってよく雑誌のインタビューとかには書いてあったりするけど。誰も脱退した理由を知らないって何だかミステリアスだな。…まあ兎に角それで、新しいボーカルが加入したわけだ」
そう話すイェンスの足はリズムに乗る様にとんとん、と動いている。彼もまた、開演前のこの空気を楽しんでいるようにミツクニには見えた。
「新しく加入したのはエーリク・アレニウス。二年前に公開オーディションで数千人の頂点に立ち、見事エクスカリバーのボーカルの座を勝ち取った男だよ。何と前職は電気機器メーカーのエンジニア。勿論、バンド活動もしていたみたいだけど」
イェンスはそれを聞き驚いた様子でミツクニの方を見た。
「へえー!って事は、相当な実力者って事だよな、その”エーリクなんちゃら”っていう新任ボーカルは」
「”エーリク・アレニウス”な。…そうだな、彼はその表現力、歌唱力、洗練されたパフォーマンスで、デビュー当初からかなり評判だったと思ったよ。その完ぺきさから、”湖の騎士ランスロット”に因んで、雑誌・楽市楽座で『水明の騎士』という肩書を付けられた事があるくらいだ」
“湖の騎士ランスロット”。
アーサー王伝説に登場する円卓の騎士の一人で、主にアーサー王の妃グウィネヴィアとの不義の恋で有名であるが、武術、騎士としての振る舞いや美しい容姿など『完ぺきな騎士』としてもまた有名な伝説上の人物である。
ミツクニは話を続ける。
「エクスカリバーはアーサーの剣”エクスカリバー”からその名を取ったバンドだ。作る曲もSFやファンタジーをコンセプトとしたものが多い。それに因んで『水明の騎士』っていう肩書をつけたんじゃないかな」
「楽市楽座って変な肩書付けるのほんと好きだよな。まあとにかく、それだけ完ぺきと噂の男がどれほどのものか……あっ」
イェンスの驚く声と同時に、会場の照明がゆっくりと落とされ、暗くなっていった。
一階のスタンディング席から一斉に歓声が沸き上がる。
「おお、遂に始まるな!」
イェンスは身を乗り出しながら、キャップとサングラスを外した。ミツクニもそれに倣い変装を解く。
ステージ上のバックドロップ幕が、青い照明に照らされている。幕にはエクスカリバーのロゴと、最新アルバム『The Day of Judgement』のCDジャケットが描かれており、それが暗闇の中で幻想的に浮かび上がっていた。
先程までの騒めきが嘘かのように、会場内は一瞬にして静寂に包まれる。やがて何処からともなく『音楽らしきもの』が流れ、再び歓声が沸き上がった。
「何が流れているのか全く分かんねえな」
ひそひそと隣でイェンスが話しかけてくる。
「確かに、全く分からないね。でもきっとアルバムの最初に入ってるインスト曲だよ。そうこうしているうちに…あ、メンバーが出てきた」
ミツクニはそう言って身を乗り出した。
ステージ上にまず現れたのは、キーボードのジョナサンだ。それを筆頭に、他のメンバーが徐々にステージ上に現れ始める。そのたびに会場からは歓声が沸き上がった。
そして―――。
『音楽らしきもの』が大音量になったと同時に、ひと際明るい照明がステージを照らす。会場の熱が一気に最高潮に達する中、今までで一番大きな歓声と共にステージの端から現れた一人の男――――。
「あれが『エーリク・アレニウス』か!」
イェンスがステージに目を向けたまま言った。
その男、エーリク・アレニウスは、ステージの中央に立つと、にこやかに手を振った。
ステージから見ても、背丈が高いのが分かる。
黒いシャツ、レザーのパンツはどちらもタイトなデザインで、彼のがっちりとした筋肉質な身体が服の上からでも見てとれた。
彼の黒髪は短いソフトモヒカンで、それが彼の男らしさをより一層惹き立てている。
顔はこちらからだと良く見えないが、全体的にパーツは大きめのように見える。また、綺麗に整えられた顎鬚が印象的だった。
「ヘイ、皆元気だったか?今夜は楽しもうぜ!」
エーリクは左手に持ったマイクを口に当てると、伸びやかな声でオーディエンスに向かいそう声を掛けた。
エーリクの声に呼応し、客席から怒涛のように巻き上がる歓声。エーリクはそれを聞き、満足げに頷いた。
「…何かあいつ、モテそうだな。女にも、男にも」
堂々とした立ち振る舞いのエーリクを見、イェンスが少しムッとしたような表情でぽつりとそう呟く。
「俺も初めて生で見たけど、『水明の騎士』って呼ばれるのが分かる気がするよ。水明―――『月光を受け輝く水』ってところか。まさにそんな感じだよな。男らしいけど何か爽やかだし。でもメタラーらしさも忘れていないというか」
眩しい照明が交差する中、ステージから発せられる波動が会場内を満たしていく。
ミツクニ達にその旋律は分からなかったが、そのエネルギーは十分すぎる程に感じられた。
エーリクの左手に握られたマイクが再度口に近付く。口が開き、彼の歌が始まる―――。
だが、その瞬間は突然訪れた。
突然、ステージからの波動がぴたり、と止まり、会場が薄気味悪い静寂に支配される。
その中で、照明だけが忙しなく空間を交差していた。
その光線はやがて収束し、無情にも、ステージ上のメンバー達を容赦なく照らす。
自分の腕を呆然と見つめる者、怒鳴る者、ステージ上に座り込む者。
その動揺はやがて会場内に、ゆっくりと、けれど確実に伝わっていく。
実体の見えぬ不安。既視感のある恐怖に、ミツクニは静かに身震いした。
「―――まさか」
ミツクニはそう呟きイェンスに目を向ける。横に居るイェンスは手で口を押さえ、何も言わない。切れ長の眼は、瞬きもせず、大きく見開かれている。
不意に触れた膝が、微かに震えていた。
突如止んだ演奏の中、静寂に包まれていた客席から、やがてひそひそとあちらこちらで怪訝そうな声が聞こえ始める。
それが徐々に増長し、次第に大きくなっていき―――。
爆発的な混乱を孕み、膨大な罵声へと変わっていった。
「何つっ立っんだ!」
「早く演奏しろ!」
混沌の中、そのような声が会場内に充満し、爆発する。
ミツクニはもう一度、ステージに目を向けた。
互いに怒鳴り合うメンバー達。その中で、中心に立つエーリクは何も言わず、マイクを手に握りしめたまま、立ち尽くしている。
その口が、静かに動かされた。
「…Lost(失った)」
渦巻く混乱の中、エーリクの口が確かにそう動くのを、ミツクニは確かに見た。
***
会場内が明るくなり、公演中止のアナウンスが流れ始めると、一階のスタンディング席は一層混乱と怒声に包まれた。
エクスカリバーのメンバー達が力無くステージを去っていく。その中で、エーリクは一度立ち止まり、ステージに向き直ると、深く頭を下げた。
「皆、本当に済まない。今日の事は、いずれ必ず償いをさせてくれ」
マイクを通しそう客席に話すエーリク。だが客席の怒声は止む事は無かった。
「ふざけるな!こっちは金払って観に来てるんだぞ!」
「ちゃんと説明しろ!」
降り止まぬ怒声はエーリクに槍の如く降り注ぐ。
それでもエーリクは逃げる事なく、頭を再度深く下げた。
増幅する怒声。それを止めようとする客。やがて会場の至る所で乱闘が始まった。スタッフが数人現れ客を外へと誘導しようとするが、意味を成していないように見える。
そんな最中、客席から投げられたペットボトルが、エーリクの頭部に鈍い音を立てて当たった。
蓋が外されていたらしく、中の水が彼の頭を濡らし、水が滴り落ちる。
それを合図にしたかのように、ステージ上に次々とペットボトルが投げられる。
前方に居る警備の者がそれを必死で止めようとするが、それでも尚もペットボトルは投げ込まれていく。それでもエーリクは、何も言わず、頭を下げていた。
「おい、これはいくら何でも―――!」
ミツクニは怒りで少し声を荒げながら、イェンスのいる自分の隣に顔を向ける。
だがその瞬間、不意に何かの勢いに圧され、ミツクニは一瞬身を退いた。
ぞくり、と身の毛がよだつ殺気を感じ、ミツクニは再度隣を見る。
最初に見えたのは、弾かれた様に立ち上がるイェンスの姿だった。
―――あ、やばい。
ミツクニがそう思った時には、もう遅かった。
「ごるあああぁぁ!!てめえら、いい加減にしやがれぇぇええ!!!」
空気が、爆発するかの如く振動する。
イェンスの猛獣の如き怒声に、一瞬にして会場の混乱がぴたりと止み、会場が静寂に包まれた。
皆が顔を上げ、訝しげにイェンスを見ている。
イェンスの眼に、碧き怒りの雷光が激しく走る。紅き髪は逆立ち、握られた拳は怒りで震えていた。
「てめえら其れでもメタラーかぁぁああ!!それが誠意を持って頭下げてる人間に対する態度かぁああ!!てめえらには誇りってもんが無えのかぁぁああ!!!!」
イェンスはそう叫び、前方の手すりを手で掴み、片足を掛けようとする。
ミツクニは咄嗟に立ち上がり、今にも飛び降りそうなイェンスを後ろから抱える様に抑えた。
「イェンス!やめろって!ここから落ちたら流石に死ぬから!!」
「止めんなミツクニ!この屑どもを今すぐぶん殴ってやんねーと気が済まねえんだよオレは!!」
バタバタと暴れるイェンスを必死に引きずり、手すりから引き離す。
静まり返った会場から、ひそひそと声が聞こえはじめ、やがて何処からともなく叫ぶような大声が上がった。
「おいあれ!!インフェルノのイェンス・カルマとプロメテウスのミツクニ・カルヴァートじゃないか!?」
その声を引き金にするかの如く、会場内から次々と声が上がり、再び会場には耳を塞ぎたくなる様な怒声が飛び交った。
「間違いないぞ!あの紅い髪と阿修羅の刺青…!!イェンスとミツクニだ!」
「新世代メタルヒーローだからって偉そうな事言ってんじゃねーぞ!!」
「きゃー!!あの二人仲良かったのー!?素敵ー!!」
「えー?あれが本物のイェンス?何か写真と違ってそれ程でもなくない?」
「調子乗りやがって…!二階だからって安心してんじゃねーぞ!行って引きずり降ろしてやれ!!」
開場の客たちが一斉に入口へと向かう。その流れは嵐の中、囂々と流れる濁流の様にも見えた。
「おいイェンス…!あいつら、こっちに上ってくるつもりだ!逃げるぞ!!」
ミツクニが叫ぶようにそう言うが、猛獣は聞く耳持たずであった。
「望むところだぜ!返り討ちにしてやる!!」
「何言ってるんだよ!あいつら、俺達を殺すような勢いだった。旋律を取り戻す前に死んじゃったらどうするつもりだよ!?ここは退くんだ!!」
ミツクニがそう言って諭すと、イェンスは漸く暴れるのを止め、振り上げていた拳を下ろした。
「…くそっ!」
苦々しくそう呟き、イェンスは一階のスタンディング席に背を向ける。
「逃げんのか!『血塗られた牙』が形無しだな!!」
飛んでくる罵声に、イェンスの肩が怒りでびくりと痙攣する。
ミツクニはそんな彼の肩を擦り宥めると、イェンスから離れ、スタンディング席を見下ろした。
入口へと蠢きながら、皆こちらを見上げ、何か叫んでいる。
ミツクニは一度眼を閉じ、そうして再び、静かに開眼した。
開かれた彼の眼。その榛色の瞳の中に、劫火が宿っている。
全てを昇華するかの如く、囂々と燃え上がる炎。それは恐怖を以てして、渦巻く罵声を一瞬にして沈黙へと帰した。
「…野次を飛ばす事しか出来ない人間が、俺の友達を莫迦にしてんじゃねえ」
ミツクニはそう呟き、ふうとため息を吐いた。
静寂と張りつめた空気が、徐々に解けていく。
彼はそのまま立ち去ろうとしたが、ふいに強い視線を感じ、そちらに目線を向けた。
ステージ上からこちらを見る、深いグリーンの眼。
エーリクは何も言わず、こちらを見ている。その表情からは、心までは読み取れない。
ミツクニは一度軽く頭を下げると、振り返りこちらを見つめるイェンスの方へと向き直り、急ぎ駆け出した。
時刻は午後七時十二分。夜明けは未だ遠い。
***
「………」
二階席を飛び出し、スタッフ専用エリアへと続く通路を横並びで走りながらも、イェンスはミツクニをじっと見ている。
「イェンス、何?俺の顔に何か付いてる?…あ、まさかさっき来る前に食べたハンバーガーのケチャップが付いちゃってる?」
「…そーじゃない。いや、ケチャップは付いてるけど」
「え!?嘘!?もっと早く言ってよーー!!」
そう言ってミツクニは口の周りを拭う。
その様子を見てイェンスは「嘘だよ」と言うと、何の前触れもなく突然横に走るミツクニの肩を叩いた。
思った以上に強い衝撃に、ミツクニは一瞬体勢を崩す。
「え!?何!?俺何かした!?」
「………」
イェンスは何も言わない。表情は相変わらずむっとしているが、怒っているようにも見えない。ミツクニは不可思議な猛獣の様子に、言いようのない不安を感じ始めていた。
―――変なもんでも食べたのかな。ハンバーガーが合わなかったのか?
そう思ったミツクニであったが、口にすると再び叩かれそうなので黙って走った。
階段を下りていくと、スタッフ専用エリアへと繋がる出入り口が視界に入った。
それと同時に喧騒が聞こえ始める。二人は階段を下りきると、一度そこで立ち止まった。
「随分騒がしいな」
イェンスがぽつりと呟く。
「スタッフエリアから聞こえるね。でもスタッフ専用エリアへは一般人は入れないはずだから、このまま入っても大丈夫だと思うけど…」
ミツクニはそう言って歩き出した。
直後。
「うわっ…!」
後ろから思い切り腕を引っ張られ、ミツクニは階段の影に引きずり込まれる。
「イェンス、何す…」
思わず声を上げそうになる。
口を後ろから思い切り手のひらで押さえられるのと、スタッフ専用出入り口から何人かの一般客と思しき者達、それを止めるスタッフが出てきたのは、ほぼ同時の事であった。
「お客様、困ります…!」
「うるさい!こっちにあの二人がいるんだろ!?この階段の上が二階席だな!?」
そのようなやり取りをしながら、彼らはミツクニ達の隠れている階段の上を上がっていく。どんどんと駆け上がる音が、ミツクニ達の直ぐ頭上で響いた。
音が小さくなり、漸くミツクニは口を解放される。
振り返りつつ横を見ると、イェンスはミツクニとは少し離れた、更に奥に隠れていた。
―――あれ、って事は俺を引っ張って口を押さえてたのは…?
途端に緊張が身体に走る。ミツクニはゆっくりと、その人物を見た。
最初に目に付いたのは『STAFF』という文字だった。首に掛けられた、関係者であることを示すネームプレート。黒いTシャツの胸にも『STAFF』の文字がプリントされている。
ミツクニはそこから上へと視線を移した。
背が高い。ミツクニ自身も百八十五センチはあるのだが、頭部の位置を見る限り、少なくともミツクニよりも更に五センチほど高いように感じた。ガタイも良く、かなりがっちりとした、大きい身体つきをしているように見える。
キャップを目深に被り、おまけに口にはマスクを着用しているため、顔は完全に見えない。
正体不明の男の存在に、ミツクニの胸に恐怖が押し寄せてきた。
―――イ、イェンスーー!!!
イェンスに目で助けを訴えるが、イェンスも奥に隠れ男を警戒してはいるものの、出てこようとはしない。
「…あぶねえところだったな!」
思ったよりも爽やかな声で、正体不明の男はそう言うと、ミツクニの肩をぽん、と叩いた。
―――えー!?なにー!?っていうか誰ーー!?
口から言葉が出てこない。
「紅い髪の兄ちゃんも出て来いよ!もう暫くは大丈夫だろう。っつっても、奴ら数分後にはまた戻ってくるだろうけどな」
男はそう言って笑うと、近くに置いてあった紙袋の中をごそごそと漁った。
男が中から取り出したのは、男が着ている物と同じ『STAFF』のロゴがプリントされた黒いTシャツとネームプレート、キャップの一式だった。
「これは…」
「これを着ていくと良い。これなら一応、まじまじと見られなけりゃ、正体を隠して裏口まで逃げられるはずだ。裏口まで行けば流石に奴らは追っては来れねえだろうが、駅まで歩いて向かうのは危険だ。裏にスタッフを手配しておいてやる。彼らに都合のいい場所まで送ってもらうといい」
そう言って男はミツクニとイェンスに変装グッズを配り始めた。
ミツクニはそれを受け取り着ながら、電話でスタッフらしき人物に話をしている男の姿を横目で見る。
―――この人、何か既視感があるような…
電話を終え男は再度こちらを向く。ミツクニは咄嗟に男から目を反らし、身なりを整えた。
「おお!これならオレらだって分かる奴はいないぜ、ミツクニ!」
ミツクニはそう言って笑うイェンスに目をやる。キャップに隠れ顔は見えないが、紅い髪が堂々と出すぎていて、変装の意味を成していない。
「いや、むしろイェンスだって主張してるようなもんだよそれ!」
「三秒くらいならバレないぜ、多分!」
謎の男はそう言ってガハハと笑った。
ミツクニは再度男を見た。姿は怪しいが、悪い人間には感じない。
「あの…助かりました。でも、貴方は一体…?」
男は「んー」とだけ言うと、質問には答えることなく、紙袋をミツクニに手渡してきた。
「この紙袋に着てきた服を入れて持って帰るといい。車は手配しておいた」
ミツクニは紙袋の中を見る。中に一枚、二つに折りたたまれた紙切れが入っているのが見えた。
「これは…」
紙切れを取り出そうとするミツクニを男は手で制す。
「今は逃げるのが先だ。」
そう言って男は階段の影から出、辺りを確認すると、ミツクニ達に向かい頷く。
ミツクニとイェンスは互いに目配せした後、男に続き、階段の影から出た。
三人はそそくさと走り、スタッフ専用エリアの扉を開け、中に入る。
中は数人のスタッフが忙しなく動き回り、大きな声が飛び交っている。一見しただけで状況は混乱しているのが見て取れた。
一人のスタッフが三人の姿を見、近づいてくる。
そのスタッフは男の姿を見何か言いかけたが、口を噤むと、男の後ろに立つミツクニとイェンスを見て再び口を開けた。
「あ、もしかしてそのお二人ですか?」
「そうだ。悪いが、裏口まで案内してやってくれないか?」
男にそう頼まれ頷いたスタッフは、二人に「こちらです」と右側に伸びる通路を指し示した。
「俺はここまでだ。明日、必ずそこに書いてある場所へ来い」
男はそう言い、ミツクニの持つ紙袋を指差すと、そのまま通路を直進して歩いて行ってしまう。
「…あ!あの…!」
ミツクニは去っていく男の背中に向かい呼びかける。
男は振り向き、ミツクニを見た。
「…有難うございました。その、いろいろと」
男はそれを聞きふと笑うと、少しキャップを上にあげる。
深いグリーンの瞳が、こちらを視ていた。
―――あ…!もしかしてこの人…!?
「あー!!エーリ…」
隣で男を指差し叫び始めるイェンスを、ミツクニは咄嗟に手で抑える。
「こちらこそ。ありがとうよ―――『新世の炎』『血塗られた牙』」
男はそう言うとパチリ、とウインクをして見せ、手をひらひらと振りながら去っていった。
二人はその様子を呆然と見送る。
「…カッコいいあんちゃんだったなー…」
イェンスがそう呟く。ミツクニはそれに、無言で頷き返した。
***
「ふう、何とか逃げられた…!」
予め取っておいたホテルの一室に辿り着き、二人は崩れ落ちる様に床にしゃがみ込んだ。
あの後裏口に待機してくれていたスタッフの運転で、ライブ会場から数駅離れたこのホテルまで送ってもらった二人は、辺りを警戒しながらも、何とか誰にも出くわさずにこの部屋まで来たのであった。
「こんなことになるなんて夢にも思わなかったよ。まさか目の前で旋律が奪われるなんて」
ミツクニはその瞬間を思い返し、寒気を覚える。
「あの覆面男、エーリク・アレニウスとかいうやつだろ?オレらが二階席から逃げる時、まだステージに居たけど、あの後すぐオレらのとこに来たんだな」
イェンスは汗で湿ったTシャツを脱ぎながら言う。
「きっとそうだよ。自分だって混乱してて大変なのに…そんなの微塵にも出さなかった」
ミツクニはそう言いながらも、紙袋の中の紙切れを取り出し、開いた。
『ホテル・ベイサイドグランドⅡ 2203』
ミツクニ達が宿泊するこのホテルから数キロ先にあるホテルの名がそこに記してあった。
「明日、そこに来いって言ってたな、あいつ」
後ろからイェンスが紙切れを覗き込みながら言う。
「うん。大変な時だろうけど…調査の為に話を聞かないとな。…あ、ガブリエルさんに報告しなきゃ」
ミツクニはふとそれを思い出しスマートフォンを取り出す。そこで不意に、イェンスが自分をじっと見ているのに気づき画面を操作する手を止めた。
「何。何かあるのか?」
「………」
まただ。先程と同様のむすりとした顔。けれど怒っているようには見えない。
「何だよ気持ち悪い!!はっきりしろよ!」
居心地の悪さを感じミツクニはそう叫んだ。
イェンスはそのまま黙っていたが、ミツクニから目を反らし横を見ると、やがてぽそりと消えそうな声で呟いた。
「…ありがと」
ミツクニは訳が分からずイェンスを凝視する。
イェンスは手で毛先を弄りながら、もう一度口を開いた。
「…さっき。オレの事、『友達』って…。オレの為に、怒ってくれた。オレ、そーいうの初めてだからさ…その……だから、ありがと」
そこまで言うとイェンスはミツクニに背を向け、「先にひとっ風呂浴びるのはオレだあぁぁ!!」などと叫びながら、シャワールームへと走り去っていった。
―――ああいうのをツンデレというのか…
ミツクニはシャワールームの扉を眺めながら、茫とそんな事を考えていた。
***
『成程…やはりエクスカリバーも狙われたか』
電話越しに聞こえるガブリエルの声は何時にも増して低く、事の深刻さを表している。
スピーカーにしている為、ガブリエルの声は部屋中に響く。
ミツクニはガブリエルの放った単語を聞き逃さなかった。
「『狙われた?』―――それじゃあまるで、この”解離性旋律健忘症”が―――」
人為的とでもいうような。ミツクニはそう言おうとして口を噤んだ。
有り得ない。特定のメタラーを狙って、音楽に関する記憶や機能を封じる。
確かに『奪われた』とでも言う様な程に、ぽっかりと、脳内から音楽は消え去ってしまった。けれど現実的に考えて、そのような非科学的な事が出来るはずはない。
『そう、有り得ない事だと思うかもしれないけれど、これは人為的に行われた、何者かの策略である可能性が高い。以前もちらりと言ったけどね。勿論、そんな事現実にやってのける者がいるなんて信じられないだろう。けれどねミツクニ、この世は自分たちが思う程に不可思議な事で成り立っているものなんだ。考えてもみたまえ、これが自然的に発症したのだとしたら、その方がおかしいし説明がつかないだろう。ところが、これが誰かの仕業で、メタラーだけを狙い、脳内にある音楽を生み出すための物質もしくは器官―――『旋律』としよう―――をどうにかして奪う若しくは封じていたのだとしたら?そのほうがよほど説明がつくと思わないかい?』
ミツクニは何も言えなかった。
確かにガブリエルの言う通りである。けれど、もしそんな事が現実にやってのけた者がいたとしたら―――。
「何で犯人は、メタラーだけを?」
『そう、問題はそこなんだよ。犯人は特定のメタラーだけを狙っている。おかしいと思わないか、特定のジャンルの音楽だけを潰すなんて。考えられるのは怨恨だが…こんな世界を巻き込んだ大事にするほどの恨みを音楽に持つなんて考えられない』
「―――でも、やっぱりメタルそのものを潰したいんじゃねえのかな、そいつ」
突如後ろから声がしてミツクニは振り返る。そこには、シャワーを浴びた後の、パンツ一枚だけ身に着けたイェンスが立っていた。
「今日思ったんだけどさ、狙われてんのはプロのメタラーだけだろ。今日のライブに来てたオーディエンスみたいな、ただメタルが好きなやつとか、もしくはその中にもちょっとばかし音楽をかじってるやつはいるのかも知れねーけど、とにかくそういったやつは狙われてない。『有名な』プロのメタルアーティストしか旋律は奪われてねえって事は、やっぱりそいつはメタルそのものを潰したいんじゃねえの?」
成程、と電話越しにガブリエルは唸った。
『だとしたら、そこまでしてしまう程の恨みというのは、いったい何なんだろうね…』
考えても想像がつかない。
ただ、ミツクニにはもう一つ、気になっている事があった。
「そうだ、旋律が奪われるタイミングって、人によってバラバラですよね。ライブ中だったり朝起きたらだったり、もしくはスタジオに入ってる時だったり…。大体は音楽に関係した何かをしている時みたいですけど」
「…そういやゼノも、毎晩必ずギターを部屋で弾いてから寝るんだよな。旋律を失った前日も弾いてた」
イェンスは顎に手を添え記憶を辿るイェンスを見た。
「って事は、旋律を失ったと気付いたのは翌朝だったけど、実際には前の日の晩、ギターを弾いている時には既に奪われていたんじゃ…!?」
イェンスが目を輝かせミツクニを見る。
「ってことは、旋律が奪われるタイミングはバラバラじゃなくて…」
「音楽に関係した作業をしているとき!」
ガブリエルが息をのむ声が聞こえた。
『…君たち、素晴らしいじゃないか。これは大発見だよ』
ガブリエルはそう言うと暫く考える様に沈黙した後、ふと笑い言葉を続けた。
『君たち、明日はエクスカリバーのメンバーに会いに行くんだろう?』
「そうです。ボーカルのエーリク・アレニウスが来いって」
『ならば十分覚悟して行くんだよ。彼らには俺からも後で連絡してみるが…旋律を奪われた後だ、心中穏やかではないだろう』
エクスカリバーのメンバーは皆ガタイが良いからねえ―――飄々とそう言ってガブリエルは笑った。