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鋼鉄重奏ブレイヴストーム  作者: 平等院 丑造
2/23

0:Trigger/1:Lost-≪1≫

0: Trigger


熱く燃え滾る炎のように、もしくは絶対零度の氷のように、その重低音の調べは異様なエネルギーを孕み空気を振動させていた。

ステージ上から鳴り響くその轟音に呼応し、客席から数多の声が同時に発せられ、共振しやがて一つの旋律として完結していく。

そしてそれはやがて天に帰依するかのように、群青に追われる茜色の空に、静かに消えていった。

まるでこの空間自体が一つのオペラであるかのような、完成された美しさ。


俺はその光景を、息をする事も忘れて、唯々、黙って見ていた。




1: Lost


≪1≫

立ち昇る入道雲を仰ぎ見る度、日本の夏はやはり美しいと、ミツクニはしみじみと感じるのであった。

澄んだ青い空をゆったりと流れる雲はとても爽やかで、張り付くようなジメジメとした暑さを一瞬忘れさせてくれる。

開け放たれた縁側に寝そべり、蝉の鳴き声を聞きながら、こうして空を眺める日々は何て平和なのだろうと、ミツクニは茫と思う。遠くから聞こえるワイドショーのニュースは、連日続く猛暑の事ばかりである。時折入り混じる、祖母がお隣のトミ子さんと話している会話も「暑いねえ」や「キュウリが採れすぎて困るくらいだねえ」や「三丁目のヨシ江ちゃんが入院したその日に退院したらしいよ」などといったものがメインであるらしかった。

そうこうしているうちにこの国では季節が巡り、秋になっていくのだろう。この熱風もやがては冷たい北風に変わり、青々と茂る木々はやがて枯れ、色を無くしていく。

そう。この世界のどこかで誰かが悲しもうが苦しもうが、世界はそれとは関係なしに、容赦なく回っていくものなのだ。

熱と湿り気を帯びた頬に一筋、また一筋、水滴が流れ落ちていく。ミツクニは入れ墨まみれの腕で頬を拭いながら、少ししょっぱい味のするそれを汗だと思う事にした。

吹く風になびく風鈴の音は涼しげだが、やはり暑いものは暑い。気がつけば着ているTシャツは汗でびっしょりと濡れていた。

「うへえ、気持ちが悪い」

ミツクニはそう呟きながら起き上がり、着ているTシャツを脱ぐ。最近お気に入りのバンド≪インフェルノ≫の最新ツアーのTシャツ。半年前フィンランドで行われた、数組のメタルバンドが集まり開催された小規模なフェスに参加した際、同じく参加していたインフェルノの演奏を聴いて以来、ミツクニはすっかり彼らのファンになっていた。ブラック/デスメタルの中でも、かなりアグレッシブかつへヴィなバンドであるインフェルノは元々好きではあったが、ここ数年聴かぬ間に更にサウンドがパワーアップしたように感じられる。新しく加入したギタリストが良いのかもしれない。ええと、確か名前は―――。

「おやミッちゃん、何で裸になってるんだい?」

不意に馴染み深い声が庭から聞こえ、ミツクニは振り返る。そこには野菜をたっぷりと入れたスーパーのビニール袋を左手にぶら下げた、ミツクニの祖母タケが立っていた。

「あ、お祖母ちゃん。いや、あまりに暑くてさ」

「それにしてもミッちゃん、そんなに肩までモンモンが入ってたんだねえ。ヤクザでもないのに。痛くなかったのかい?」

祖母タケはミツクニの両腕にびっしりと彫られた入れ墨を見、笑いながらそう言った。

ミツクニの腕に彫られているのは阿修羅や般若といった、和を基調としたものばかりである。特に意味があって入れ始めたわけではないが、ミツクニはこの入れ墨をかなり気に入っていた。

「そうでもなかったよ、和彫りじゃないしね。でも日本の腕利きの彫り師の人に入れてもらったから、こんなに綺麗に入れてもらえたんだ。アメリカの彫り師はここまでの迫力は出せないからね」

「そうかい。でも同じ仕事の人に目を付けられたりしてないかい?」

そう言って心配そうに顔をしかめる祖母。その優しさに、ミツクニの視界が途端に緩む。

目頭が熱くなるのを必死に抑えながら、ミツクニは平然を装い会話を続ける。

「大丈夫だよ。メタラーに入れ墨は珍しくないから。全身入れ墨だらけって人もいるくらいだもん」

「『めたらー』ねえ。ミッちゃんの仕事の事はお祖母ちゃんには良く分からないけど、でもミッちゃん、ずっとなりたいって言ってた『プロのみゅーじしゃん』になれて本当に良かったねえ。お祖母ちゃん、本当に嬉しいよう」

そう言って祖母タケは縁側の端によいしょと言って座った。

まずい。ミツクニは無言で俯く。祖母の優しさが胸に響きすぎる。

そんな優しくて温かい言葉、今の俺に掛けられたら―――。

「あれミッちゃん、泣いてるのかい?」

祖母タケは心配そうな表情でミツクニの顔を覗き込んだ。

「ミッちゃん、大好きな『めたらー』をお休みして一人で日本に来てくれたくらいだもの。彼女さんにフラれちゃった事が本当に悲しかったんだねえ」

「ち、違うよお祖母ちゃん!それは……それはその…もう……いいんだ…」

皺だらけの、小さくて温かい祖母の手がミツクニの肩をやさしく擦る。

頬を伝い、唇をそっと濡らした水滴は、少ししょっぱい塩の味がした。


ディーン・”ミツクニ”・カルヴァートが日本にある母の生家を訪れたのは、今から丁度二週間前、『七年後の新歴二〇二五年に大阪万博が開催される』というニュースが発表された翌日の事であった。

一人で暮らす祖母に会いに母の生家を訪れるという行事は年に一度、正月に家族全員でと決まっている。ミツクニと妹のジョージアナが幼少の頃は年に数回ほど泊まりに来たりもしたが、二人が成長し学業が忙しくなるにつれ、その足は自然と遠のいていった。そしてハイスクール卒業と同時に、ミツクニが友人と結成したパワーメタルバンド≪プロメテウス≫のメジャーデビューが決定すると、ミツクニにとって今までの人生で最も多忙な日々が始まる。アルバム制作、ツアーなどで休みが全く取れず、正月の訪問ですらミツクニのみ参加出来ないという年すらあった。

それほどまでに働きづめのミツクニであったが、彼にとってそれは苦痛でも何でもなかった。

それだけミツクニはメタルという音楽を愛し、作曲や演奏といった、自分の心血から沸き上がる旋律を具現化するというアウトプットな作業を心から楽しんでいたのである。

しかし―――。

今回ミツクニは、デビューから今までの十年で初めて、無期限の長期休暇を取る事を急きょ決意したのであった。

最新アルバム「Komeikki」の北米ツアーが終わり、ちょうど一呼吸置くのに区切りが良かったという事もあったが、バンドは次のアルバムづくりを早くも始めていた。そんな最中、メタルこそ人生そのものであった彼が、全てを捨てて日本にやってきたきっかけは他にある。

「はあ…」

彼のため息は切なく、とても血気盛んなメタラーのものとは思えぬ。

そう、ミツクニは二十代最後であるこの夏、盛大に失恋してしまったのであった。


ミツクニとケイトとの出会いは今から五年前、ミツクニのハイスクール時代からの友人でありプロメテウスのギターヴォーカルであるテッドの紹介で知り合う事となった。

ケイトは言うなれば虎のような女で、爆発的とも言える気性の激しさと明るさ、行動力を持った女だった。初めてのデートで彼女のそんな虎のごとき『情熱的な』気性を、半ば強制的に教えられたミツクニだったが、翌日の朝、いそいそと自分の為に朝食を作ってくれている姿を見、自然と心が惹かれた。

三歳年上だったせいもあるが、彼女の何事も受け入れるかのような包容力を、ミツクニは心地良く感じていた。ケイトは看護師をしており、多少口調がキツいところはあったが、中々時間も取れない自分に文句も言わず合わせてくれていた。付き合う年月が経っていくにつれ、互いに忙しくなり会えない時間が増えてはいったが、ミツクニはいずれ結婚したあかつきには、ケイトとの時間を増やすために、仕事の仕方を工夫しなければと考えていた。そう、彼は彼なりに、ケイトとの未来を考えていたのである。

だが、現実は突然に真の姿を現す。


今から1か月半前、プロメテウスは四枚目のアルバム『NOBUNAGA』作製に向け、オレゴン州にあるスタジオにメンバー全員で引き籠り、昼夜問わずひたすら作曲作業に打ち込むというとてもストイックな日々を送っていた。

そんな日々が二週間も続くと、さすがに仕事人間のミツクニですら頭がパンク寸前になる。

そうなるといいアイディアが浮かばなかったり、メンバーとちょっとした事で言い合いになったり、兎に角良い事は何もない。よってミツクニはそんな時は、夜に少しスタジオを抜け出して、近くの公園を散歩する事にしている。夜風に当たれば頭がスッキリするし、風に揺れる木々や空に浮かぶ月などを眺めているうちに、新たなインスピレーションが浮かぶこともある。

その日の夜も、そんな気分の夜であった。

今回はいつものアルバム製作よりも何故だか捗らず、ピリピリしていた。少し休もうとその日の夜は自由時間という事になり、皆思い思いに外へ繰り出していった。

ミツクニはふらふらと公園を歩き、地元の老人会が植えた花壇を某と眺めたり、噴水の周りをひたすら回ってみたりを繰り返した。普段であればそんな事を一時間も行えば気分転換出来るのだが、その日は二時間経過してもなお、頭がスッキリしなかった。

仕方がないのでもう少し公園の内部を散策しようと、普段は行かない子供向けの遊具が置いてあるコーナーへと足を延ばすことにした。

昼は地元の子供たちが大勢遊び賑やかな場所だが、夜は途端に姿を変える。ブランコは風でひとりでに揺れ、錆びた金属音が静寂の中にもの悲しく響いていた。

ミツクニは遊具コーナーの中央にあるジャングルジムへと視線を移した。

決して満月では無かったが、月が明るい夜だった。月光に照らされて、ジャングルジムの骨組みが闇に浮き上がり、地面に長い影を落としている―――

「……うっ」

何か見てはいけないものを見たような気がして、ミツクニは視線を横に反らした。

気のせいかもしれないと思いもう一度、ジャングルジムへと視線を戻す。

そこには、二人の男女が立っていた。

ジャングルジムの骨組みに女がもたれ掛かり、男がそれに覆いかぶさるように立ち、互いに口づけを交わしている。

そして、逆光ではあったが、ミツクニはその二人が誰なのか、分かってしまった。

見慣れた黒髪のロングヘア、褐色の肌、程よく筋肉のついたしなやかな身体。

「…ケイト」

ミツクニの声に、二人の男女が一瞬にして離れ、こちらを見た。

男の、後ろで一つに結んだ長髪が髪に揺れている。見飽きたくらい良く知っているそのブロンド。

そう、ケイトをミツクニに紹介した、プロメテウスのギターヴォーカルのテッドだ。

「違うんだ、ミツクニ…!」

テッドの震えた声が聞こえる。ケイトも何か言っているが聞こえない。

風が、一瞬にして嵐の如く、強く吹き荒れる。

ミツクニの脳内で、何かが弾けた。


その後の事はあまり良く覚えていない。

自分に近付いてきたテッドを殴り飛ばしたところまでは覚えている。だが、その後どうやって公園から戻ってきたのか。

兎に角、ミツクニはスタジオに戻ると直ぐに、止めるメンバーを払いのけ、荷物を纏め車に乗り込んだ。そして一時間ほど車を走らせた午前二時、ミツクニは自分の実家に辿り着き、驚く両親と妹に無言で抱きついた。

妹ジョージアナは何かぶつぶつと言っていたが、父イーサンと母美佐子は、息子の様子を見、何も言わず優しく抱きしめた。ミツクニはそこで初めて、テッドとケイトの事だけではなく、デビューしてからの十年間、ずっと張りつめていたものが解けていくのを感じ、静かに涙を流した。


翌朝、ミツクニは母の作ってくれた朝食を食べると、まずは嫌々ながらスマートフォンを見る事から始めた。怖ろしい程に並ぶ不在着信を全て無視し、バンドのメンバーの一人であるマイケルと、マネージャー、レーベルの社長に、事の顛末と、暫く仕事を休む旨を伝えた。皆驚いてはいたが、ミツクニがデビューから現在までろくに休みを取っていなかった事、アルバム製作が少し行き詰っていたこともあり、快く了承してくれた。

そしてミツクニは次に、何も聞かないでいてくれる両親に自分から全てを話した。両親は黙ってミツクニの話を全て聞くと、優しく頷き彼を抱きしめた。

「せっかくの休暇なら日本のお祖母ちゃんに会いに行ってらっしゃいよ。最近会ってないんだし、あんた一人で暫くお祖母ちゃん家に泊まらせてもらったら?」

「いいじゃないか。タケさん、ずっとミツクニに会いたいって言っていたし、行ってきたらどうだ。向こうはこっちと同じくらいかそれ以上に田舎だが、空気も美味しいしいい気分転換になるぞ。あ、そうだ。タケさんの家を拠点にこの際、日本の東西南北色んな所に旅行に行くのもいいかもしれないぞ。いいなあ、父さんも行きたいなあ」

かくしてミツクニは、少し考えた末、特に気に入っているギターを一本荷物に加え、最後まで「いいなあ」と羨ましがる父と少し寂しそうな笑顔を浮かべた母、終始あまり興味がなさそうな態度の妹の見送りを背に、オレゴン州の実家から遥か約7829km離れた、日本の神奈川県西部某所にある祖母タケの家までやってきたのであった。


祖母タケは最後にミツクニの肩を優しくぽんぽんと叩くと、よっこらせと立ち上がった。

「お隣のトミ子さんからナスをいっぱい貰ったからね。今日の夜ご飯はミッちゃんの好きなナスのみそ炒めにしようかね」

ミツクニは濡れた頬を拭うと有難うといいタケに微笑んだ。

庭から裏の勝手口へと去っていく祖母の小さな背を見ながら、ミツクニはぽりぽりと首の後ろを掻く。無造作に結んだ髪の毛先がちょうど首に掛かり、少し痒かった。

基本的に長髪であることがステータスとされるメタル界においては、下ろすと鎖骨ほどまでの長さしかないミツクニはどちらかというと短い髪の部類だが、彼はこの中途半端な長さがかえって気に入っていた。

日本人とアメリカ人のハーフではあるが、ミツクニは目も大きく、はっきりとした顔立ちではあるものの、かなり日本人寄りの容姿をしている。

髪も黒に近い暗めの茶色で、唯一瞳の色だけはヘーゼルではあったが、そもそもミツクニは五歳まで日本に住んでいたため、日本人と同等に日本語が話せる。そういった点から、ミツクニはアメリカ人側からしてみればかなり『アメリカ人離れした』男であった。

それは、こういった繊細な内面においてもそうなのかもしれない。

「こんなに涙もろい人間じゃないのにな、俺」

ミツクニは祖母が去り誰もいなくなった庭を見つめながら、ぽつりと呟いた。

少し涼しい風がさあっと吹き抜ける。

庭に一本だけ咲いている向日葵がそれに凪いて揺れた。陽を浴びて輝くその姿は凛としているが、夏と共に終わる命を思うと、少しもの悲しさを感じる。

不意に、ギターを弾いてみようかという感情が頭をよぎった。

実はミツクニは祖母の家に来てからというものの、ギターに一度も触れていない。感覚の鈍りを防ぐ為弾かなければとは何度か思ったのだが、いざケースから出そうと思うとどうしてもその気になれず、結局ケースから出すことなく、寝泊まりしている部屋の押し入れの中にしまい込んでしまっていた。

ミツクニは脱ぎ捨てたTシャツを手に持つと、すっくと立ちあがった。縁側から畳の部屋を通り抜け廊下に出ると、洗面所へ向かい洗濯機へTシャツを投げ入れる。

そうして再び廊下に出、奥にあるかなり角度が急な階段を上った。二階はもともと母と母の妹が使用していた部屋が二部屋あるが、二人が家を出てからというものの、現在は使用していない。そのうちの一部屋をミツクニは寝泊まり部屋として使用させてもらっていた。

ミツクニは襖を開け、部屋に入ると、祖母タケが畳んで置いておいてくれた洗濯したての服の中から自分のバンドのTシャツを掴み着た後、押し入れの前に胡坐をかいて座った。

押し入れの戸を開けると、少し黴臭い匂いが鼻を擽る。ミツクニは暫く目の前に置かれた黒いケースをじっと見ていたが、意を決したようにケースを引っ張り出し、金具を解除すると、静かに上蓋を開けた。

ずっと好きで使用していたギターブランド・Vy社Wingシリーズ。

二年ほど前、Vy社のエンドースミュージシャンになった際、Wingシリーズを基に最初に作ってもらったオーダーメイドの一品『Kagutsuchi(カグツチ)』である。

二週間ほど開けていなかったが、黒いボディの輝きは、少しも失われてはいない。

ミツクニはそれをゆっくりと取り出し肩に掛けると、オーディオインターフェースでPCと接続し、アンプシュミレーターソフトを起動させる。

PCと同期した無線ヘッドホンを付け、ミツクニは目を閉じ、一度息をゆっくりと吐いた。

そうして、指を弦へと滑らせる――――。

「………?」

ミツクニは弦の上で止まったままの指を凝視し首を傾げると、もう一度指を動かそうとした。

だが指は弦の上で止まったまま、動かない。

―――否、動かそうにも、ここからどうやって弾いたらいいのか解らないのだ。

「………!?」

普段であれば弾く曲を頭で決める前に指が勝手に動いていた。

なのに今、指は一向に動かない。自分の曲を幾つか思い浮かべ、弾こうとするのだが、そもそも自分の曲を何も思い出せない。

曲のタイトルは浮かぶのに、その旋律が思い出せないのである。

思い出そうとすると、フラッシュが焚かれた様に頭の中が真っ白になってしまう。

ミツクニは汗ばむ手でマウスを掴むと、自分作曲データを保存してある音楽ソフトを起動させる。

だが、数百ほどもあった筈の曲ファイルは、まるで元々その場に存在していなかったかのように、綺麗さっぱり、消え去ってしまっていた。

ミツクニのだらんと下ろされた手から、マウスが無機質な音を立てて畳に落とされる。

「おい…嘘だろ」

呼吸が苦しい。息が上手く出来ない。

ミツクニはヘッドホンを外し頭を抱え俯くと、倒れるようにその場にしゃがみ込んだ。



二十分ほど経過しただろうか。

ミツクニは机の縁に手を掛け立ち上がると、一先ずギターをケースの中に戻した。

心臓の鼓動がまだ落ち着かない。だが呆然としていても何も始まらない。自分に何が起こってしまったのかは分からないが、音楽ソフトはクラウドで他のメンバーとも共有しているから、曲データが消えた原因くらいは調べられるはずだ。まずは出来る事から始めなければ。

ミツクニはずっと電源を切ったままだった仕事用のスマートフォンを起動させた。基本的にバンドのメンバーや所属レーベルとのやり取りはこのスマートフォンで行っている。家族とのやりとりはプライベート用のスマートフォンで行っているし、何かと面倒なので日本に来て以来ずっと電源を落としたままであった。

仕事用のスマートフォンには予想通り、テッドやケイトからびっちり不在着信が来ていた。ちなみにケイトとはプライベート用のスマートフォンで連絡を取り合っていたが、件の事が起こったその翌日にテッドの連絡先と共に着信拒否にしてしまっていた。

レーベルから支給されている仕事用のスマートフォンは設定変更が出来ないようになっている為勝手に着信拒否にするわけにはいかなかったが、ミツクニは着信履歴のケイトの名前の羅列を見て、仕事用スマートフォンの連絡先を教えてしまったことを少し後悔した。

ミツクニは着信履歴画面を閉じ、プロメテウスのドラマー・マイケルに電話を掛ける。

『お客様がおかけになった電話番号は、現在電源が切られているか―――』

機械的なアナウンスが聞こえ、ミツクニは電話を切る。マイケルが電源を切っているなんておかしい。しっかりした性格のマイケルは、仕事の連絡がいつ掛かってくるか分からないからと、どんな時であろうと電源を落としたことは無かった。

他のメンバーはどうだろうか。ベースのニックくらいであれば繋がるかもしれない。万が一ニックにも繋がらなければ、所属レーベルのマネージャーならば流石に繋がるだろう。

だが、ニックもマネージャーも電源を切っているのか、アナウンスが流れるのみで電話は繋がらなかった。

あとはテッドに掛けるしかないが―――。

ミツクニは少しの間迷ったが、暫し私情を忘れる事に決め、テッドに電話を掛ける事にした。

着信履歴の一番上にテッドのダイアルがある。最後に電話を掛けてきたのは、ちょうどミツクニがアメリカを発った翌日のようだった。

それまでの電話の量に対して意外にもすっぱり電話を掛けるのを止めていた事に内心少し不思議に思いながらも、ミツクニはテッドに電話を掛ける。

だが、流れてくるのは他の二人と変わらず、音声案内のアナウンスだけであった。

ミツクニは電話を切ると畳に座り、顎を擦った。眉間に寄せた皺が深くなる。

いくらなんでもおかしい。確かに二週間前の出来事はバンドの歴史史上最悪と言えるほどの事件であったかもしれない。けれど皆、三十歳になるかならないかに差し掛かった大人である。さすがに私情で連絡を絶つなんて事は有り得ない。テッドも、まあ、あのような事をやらかしてくれはしたが、どんなことがあってもバンドの事を大切に思っていたし、仕事は真剣にやるタイプだった。他のメンバーもそうだ。まして、所属レーベルのマネージャーまで繋がらないというのは、いくら何でもおかしいとしか言いようがなかった。

―――何か、とんでもない事に巻き込まれているのではないか。

ミツクニは再び早まる脈を抑えようとしながら、再び着信履歴に目を落とす。

最後にテッドから着信があったのは約二週間前、あの出来事があった二日後だ。事件から最終着信時までの二日間は、テッドとケイトからひっきりなしに電話が掛かってきている。それ以外は誰も―――。

「……ん?」

不意に着信履歴に別の見慣れぬ名が見え、ミツクニはスマートフォンの画面をスライドさせる手を止めた。

「『ガブリエル・フェルナンデス』…。あ、ガブリエルさんだ」

ガブリエル・フェルナンデスはブラジルのパワーメタルバンド≪バチズモ≫のギタリストである。ミツクニよりも十五歳程年上だが、昔プロメテウスがまだ新人だった頃、バチズモのライブのオープニングアクターとして呼んでもらって以来、ミツクニはガブリエルと親交があり、何かと目を掛けてもらっていた。あまり会う事は無いが、フェスで顔を合わせた時などは暫し食事を奢ってもらったりしている。

「ガブリエルさんから連絡があったのは八月二日の朝か。って事は、ちょうどあの事があった次の日か。ケイトとテッドからの電話に紛れて全然気づかなかったな」

ミツクニは少し悩んだが、縋る思いでガブリエルの連絡先のダイアルを押した。きっと何か別の用で掛けてきたに違いないが、とにかく誰かに話を聞いて欲しかった。

自分の身に起こった事を考えると、他人に話すのは少し気が引けるが、今はそんな事を言っている場合ではない。

呼び出し音が鳴り、ミツクニは少し安心する。

だが、ガブリエルは中々電話に出なかった。スマートフォンを持つ手に力が入る。

頼む、出てくれ―――。

それでも終わらない呼び出し音に諦めかけたその頃、漸く電話の向こう側から聞き慣れた、少し低い声が聞こえてきた。

『―――やあミツクニ。出るのが遅くなってすまないね』

「ガブリエルさん!」

嬉しさのあまり、発する声が自分でも驚くほど大きくなる。

「良かった、俺、ガブリエルさんとも電話が繋がらなかったら、本当にどうしようかと…」

ミツクニはそう言うと、安堵の笑みを溢した。

『ということは、君もやはり、他のメンバーと連絡が取れていないんだな』

ガブリエルの声がより深くなる。

ミツクニはガブリエルの言葉に驚く。君も、という事は――――。

「まさか、ガブリエルさんも…?」

『俺だけじゃない。世界中のメタラー達の大勢と、現在連絡がつかない状態になっている。今では連絡が取れる者は世界中のメタルバンド中、ほんの一握りといったところだろう』

「そんな…」

自分が思った以上に大規模な話に、ミツクニはただただ驚くことしか出来なかった。

『どこのレーベルも原因が分からずお手上げのようだし、どうやらこれは最近メタル界に起こっている奇怪事件と関係があると思っていいのかも知れない』

ガブリエルはそういうと電話の向こうで少し唸った。

奇怪事件?ミツクニは眉間に皺を寄せた。

「ガブリエルさん、奇怪事件って、何かあったんですか?」

ミツクニがそう言うとガブリエルはおや、と驚いたように言った。

『ミツクニ、最近は山にでも籠もっていたのかい?』

ミツクニは窓の外を見た。古い住宅の数々の向こう側には、小高い山々が幾つも並んでいる。

あながち嘘ではない事実にミツクニは苦笑する。

ミツクニは簡単に、ここ二週間で起こった事をガブリエルに話した。

『なるほど……君も大変だったんだな』

まあ人と人の事が世の中で一番難解だからね、とガブリエルは哲学的な呟きを付け加える。

それはそうと、とガブリエルは続けた。

『ミツクニ、君は大丈夫なのか?何か、それ以外に、とんでもなく奇怪な、怖ろしい事が起こってるんじゃないのかい?』

見透かすようなガブリエルの発言に、一瞬心臓がドクン、と大きく脈打つ。

「そんな…恐ろしい事って、例えば…?」

『例えば、”自分の曲を忘れてしまった”とか。もしくは”ギターが弾けなくなった”とか』

ミツクニの目が静かに見開かれた。

そんな。何故ガブリエルさんが知っているのか。

心臓の鼓動が一気に早まる。身体の至る所に血液がどっと流れていくかのような、痺れる様な感覚が身体を巡った。

震える唇を必死に抑えながら、ミツクニはスマートフォンに向かって声を発する。

「そんな……どうして、知って…」

上手く声を発する事が出来ない。

電話越しにも動揺が伝わったのか、ガブリエルは『落ち着いて』と静かに言うと、一呼吸置いてから再び話し始める。

『ミツクニ、今近くにパソコンはあるかな?もしあるなら、今すぐネットでメタルニュースを見てほしい』

ミツクニはガブリエルに言われた通り、ネットを開きメタル総合ニュースサイト『メタル津々浦々』を開いた。このサイトは世界中のメタルニュースが毎日リアルタイムで更新されている、メタラー御用達のニュースサイトである。

ミツクニも、日本に逃避するまでは毎日、このサイトをチェックしていた。

「今開きました……えっ!これって…!」

ミツクニは目の前に並ぶニュースの一覧を眺め、愕然とした。


≪ジャーマンメタルの雄ベッシュ、ライブ中まさかの演奏続行不可に≫

≪イングランドの生ける伝説バーニング・デス、急きょアルバム作製中止≫

≪北欧デスメタル最後の砦インフェルノのゼノ・クロウ、緊急引き籠り宣言≫―――。


『奇怪だろう?恐るべき事態だ』

苦笑の混じったガブリエルの声が聞こえた。

『しかも恐ろしいのは、これだけの事件がたった二週間の間に起こった事。そして、公にはされてないけれど、僕が調べたところによると、これらの事件があったバンドをはじめとする多くのバンドのメタラー達が皆、口を揃えて同じことを言っているそうだ。それは―――』

「それは…?」

『―――”旋律を失ってしまった”』


開け放たれた窓から、少し冷たい風が吹き抜け、ミツクニの汗で湿った肌に触れる。

ミツクニはぞわりと這い上がる様なその冷たさに、一瞬身を震わせた。




***

「―――じゃあ、世界中のメタラー達の間で、俺と同じ症状が出てるって事ですか?」

『そうだ。僕も勿論、例に漏れず旋律を失ってしまったしね。医者に診てもらった者もいたそうだが、ストレスから来るものだという事で済まされてしまったそうだ。

活動停止などに陥ったバンドは皆、この症状―――僕は”解離性旋律健忘症”と呼んでいるが―――が出現した事が原因で音楽活動を続けられなくなったと考えて良さそうだ』

ガブリエルはそう言うと深くため息を吐いた。

「この”解離性旋律健忘症”ですけど」

ミツクニはスマートフォンを持っている手とは逆の手で、こめかみを抑えながら問う。

「メタラー、もっと深く言えばプロのメタルミュージシャンにしか発症してないって事ですよね。って事は、発症の原因はメタル界に共通する何か…って事ですか?」

『そう考えて間違いないだろう。君と同様、症状が見られたバンドはどこも共通してパソコン上に保存しておいた曲のデータが全て消えてしまったようだし、これはもしや、誰かの人為的な犯行なのかも知れない』

そんな現実離れした事が出来るかは別にして、とガブリエルは付け加えた。

「…この件、警察とかは動いていないんですか?解離性旋律健忘症はともかく、曲のデータは無くなっているわけですし」

『それが、不思議なことに警察は一向に動いていないそうだ。世界中のレーベルもね。今は俺が個人的に調べているだけだよ。最初は騒いだメタラーもかなりいたようだけど、今は不自然なくらい静かだ』

嵐の前の静けさじゃないといいけど、とガブリエルは低い声で呟いた。

つまり―――沈黙の中、ミツクニは考える。

所属事務所も警察も頼れず、誰も解決に向けて動いてないという事は、このままだと俺は、俺たちは、一生楽器を弾くことも曲を書くことも出来なくなってしまうかもしれないという事か。

ミツクニは今までの生活を振り返る。

今まで、ハイスクール時代にメタルに目覚めて以来、俺の人生はメタルが全てだった。

メタルで仕事をし、飯を食い、メタルを支えに生きてきた。

今回、全てを捨てて日本に来はしたが、ギターを持ってきたのだって、メタルと離れたくないからだ。メタルと何の関わりもない人達にはどうでもいい、小さな事かもしれない。戦争が起こるわけでもない。人が死ぬわけでもない。

けれど、俺にとっては死と同等の、いや、死ぬよりも辛い事が、現実に起こっている。

『ミツクニ』

ガブリエルの自分を呼ぶ声が沈黙を破る。

『僕はこのまま、個人的にこの件について調査を続けていく。勿論一人と言うわけではない。少人数ながら、協力者は何人かいる。けれど僕には、君にこそ調査に加わって貰いたい。解決の鍵は必ずメタル界にある。それを探し出して、旋律を取り戻す』

ガブリエルの声は静かで、けれどはっきりと、電波を伝い通った。

―――もう、これ以上、失うわけにはいかない。

だったら。

「ガブリエルさん。俺も、調査に参加します。このまま黙って旋律を失う事なんて、俺には出来ない」

少しの間があった後、ガブリエルの小さく笑う声が聞こえた。

『ミツクニ、君ならそう言ってくれると思っていたよ』

宜しく頼む、と言うガブリエルのはっきりした声が聞こえた。

ミツクニは少し安心し、思わず笑みを溢す。ガブリエルはメタラーにしては驚くほど知識が深い賢人の為、メタルとゲームの事しか知識のないミツクニはてっきり否定されてしまうと思っていた。

「はい、宜しくお願いします!」

それで何をしたら?とミツクニは問うた。

ガブリエルは電話の向こう側でカタカタとパソコンを打ちながら、一先ず、と話し始める。

『君には日本で調査をしてもらいたい。丁度日本で数日後、エクスカリバーのライブが行われる事になっている。エクスカリバーはメタル界でもかなり有名なバンドだが、まだバンドは全く被害に遭っていないようだ。会場に入れるように手配しておくから、とりあえずエクスカリバーのライブを観てきてくれ。良いバンドだしね。何もなければ最高のライブになるはずだし、楽しめると思うよ。あ、そうそう』

そこまで言いミツクニは一度言葉を止めると、何故だか少し楽しそうな声で言葉を続けた。

『一人そっちに合流するから。明後日の十時に、新宿に迎えに行ってあげてね。二人でライブに行って、調査をしてくれ。頼んだよ、”新世の炎”ディーン・ミツクニ・カルヴァート君』


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