6月16日 前崎翼
6月16日
いってきます、の声は、二人の大人がいるぬも関わらず空虚な家の中に、空しく響いた。
梅雨入り前の五月晴れの日曜日。
部屋の暗さと外の明るさで頭がくらりと揺れ、少しの間目を閉じる。
今日のスカートはサロペット付きの一番のお気に入りだ。
そのスカートのポケットに入れたiPodから延びるイヤホンを無造作に耳に入れる。
流れてきたDance with me!の明るいリズムに少し気分が晴れた。
家の前の通りを抜け、バス停へ歩く。
眠そうな大学生らしき男と、60代くらいの女性が経ってバスを待っている。
日陰になるところに立って、ネックレスに指を絡ませながらバスを待った。
木々の隙間から指す日差しは、夏にはまだ遠い季節にも関わらず容赦なく照り付けてくる。
ネックレスも次第に熱を帯び始め、翼はあきらめたように小さなため息をついてネックレスを離した。
胸の前でバウンドしたネックレスが、疲れたように揺れるのをためたとき、翼が待っていたバスが来た。
Leeの白いリュックから取り出した財布の側面を機会に触れさせる。
ピっという無機質な電子音が心を落ち着かせた。
休日の昼間はさすがに平日のラッシュと違いバスもすいている。
後方の2人席に腰を下ろした翼は、スカートの右ポケットからスマホを引き抜く。
LINEを開くと、クラスメイト達からの数十通のメッセージが届いていて、思わずため息が出てしまう。
急を要するものから優先的に返信しながら、翼は無意識のうちに長い髪の毛に手を伸ばしていた。
家にいるときは結ばない髪の毛を、人に会うときに結ぶのは翼の存在表明だ。
休みの日により高く結ぶのは、周りに求められている姿に応えるための虚勢だ。
普段よりずっとずっと高く結ばれた今日の翼の髪の毛は、今日退院する舞歌を、完璧な«前崎翼»の姿で迎えるためのただの飾りだ。
家の中での自分の姿を、周りの人に見せるわけにはいかない。
首輪に繋がれて乾いた瞳で親を見上げる翼の姿は、学校の皆が思い描いている前崎翼の理想像からはあまりにかけ離れている。
人との関係に絶対なんてないことを親との間で学んだ翼は、今でも幸菜と舞歌に本当のことを伝えられずにいた。
「Baby,we are alon. Dance with me」
自らを鼓舞するために、イヤホンから流れてくる音に合わせて唇を動かす。
その途端、月中らの通知を知らせるスマホのバイブレーションを掌に感じた。
「舞歌の退院祝い買った」
添付されてきた写真を開いて、目を見開く。
6個入りのドーナツと、金属製の可愛らしい栞。
翼は、リュックの中から昨日学校帰りに自分が買ったプレゼントを取り出した。
ドーナツの箱と、栞が入った包装袋。
3人が集まるときには必ず買うドーナツと、水色を基調とした老名観のある見た目が舞歌のイメージとぴったり重なって思わず手に取っていた栞。
よりにもよってまったく同じ物って・・・
苦笑しながら窓の外に目をやると。
街路樹の葉々の隙間から洩れる光が、道路沿いの店のウインドウに反射してきらりと光った。
それはまるで、小さいころにラムネのビー玉を太陽にかざした時のように、
お祭りで買った金平糖が屋台の灯に照らされた時のように、
カメラのレンズ越しに大好きな舞歌と幸菜を見た時のように、
懐かしさと暖かさをぐっと胸に押し上げて来る。
せっかくの晴れた日曜日なのだ。
家にいる時間が長いから忌み嫌っているいつもの週末とは違う。
せっかくの舞歌の退院祝いなのだ。
家で息苦しくなって、適当に暇をつぶすためだけに外に出るいつもの週末とは違う。
今日くらい、前崎翼になりきれるんじゃないだろうか。
周囲の理想の中の翼と、素の翼の唯一の共通点。
それは、TMGの2人のことが大好きだというところだ、とその時に気が付いた。
「次は、中央病院前・・・中央病院前でございます」
翼は、バスに乗り込んだ時とは正反対の振り切れた明るい表情で立ち上がった。
窓からの陽射しが、翼のネックレスに反射する。