第2章3話 魔人
『もしもし? ハンゾーく~ん、もしもーし?』
取り落としたスマホから聞こえてくる小鳥の声が、取り壊しが決まった旧校舎に反響する。
既に夕陽はとっぷりと暮れてしまっていて、電力会社から商用電源の供給が止まっている旧校舎の建物の中は薄暗いを通り越して、視界が確保できない程の暗闇に包まれようとしていた。
その深い闇から浮き出るように、漆黒に血が滲むような文様の浮き出た金属鎧にその身を包んだ女騎士が、まるで亡霊のように立っている。
「ジークリンデさん――そうか、あんたの身体を依り代としたのか。チッ、魔神の奴め相変わらず趣味が悪い、反吐が出そうだぜ」
予備動作無しにフッと加速すると半蔵は逆手に構えた黒短剣カルンウェナンを擦違いざまに振り抜くが、鈍い金属音と共に弾き返される。
やはり透明人間の称号持ちである自分の迷彩や潜伏と隠蔽に加えて隠密のスキルを物ともせずに、その濁った瞳で捉えているのだと確信すると。
振り向きざまに左手でもう一本の黒短剣三十日月宗近を、腰の後ろの小さな袋から同じく逆手で抜刀する。
しかし、三度片刃の刀身が鉤爪に弾かれてしまい、次の瞬間に最大跳躍で飛び退いて再び5m程離れた位置に降り立つ。
『あれぇ~? ハンゾーくんったらプー……プー……プー……』
床に落ちているスマホの通話が切れてしまったようだ。
自我を失っているのか、魔神の眷属である魔人と化したジークリンデのまるで野獣のような咆哮が旧校舎を振るわせる。
結果的には通信が切れていて良かったようだ。
でも、だからだろう。腰に下げた彼女の聖剣を抜くことなく、かつて魔神に斬られた左腕の代わりに生えている鉤爪で攻撃して来ているのは。
「あんたは死んでも五月蝿ーよ」
職業が探索者の特性補助と夜目のスキルで日が落ちた暗闇の中でも、それこそ闇に堕ちて暗黒騎士となってしまった魔人ジークリンデの動きは視認できている。
元はドが付くほどに几帳面で真面目な性格の聖騎士だったと言うのに、純白に輝いていた金属鎧もあんなに真っ黒に染まってしまって。
しかし、手持ちのスキルでは覚醒したばかりの魔人とはいえ、やはり倒し切るのは難しいかもしれない。
せめて此奴一匹かどうかの確認だけでもできれば、最後の手段――奥の手で相打ちぐらいには持ち込めるんだが。
だいたい、勇者を狙っているはずの此奴が何だってこんなところをウロウロしているのか。
全く、今日はツイていないことこの上ない。もしかしたら、ここで死ぬのかも――なんて、半蔵が肩を落としていると。
ジリッと一歩踏み出た魔人ジークリンデの足元から電撃がはじけ飛び、一瞬だけ動きが止まる。さっきすれ違いざまに、設置して来ておいたトラップだ。
その隙を逃さず、半蔵が助走ゼロからの最大加速で黒短剣カルンウェナンの効果である暗闇の影に沈むように掻き消える。
同時に魔人の背後に出現して、それでも反応してきて振り払うように繰り出された鉤爪を黒短剣カルンウェナンで弾く。
ガラ空きになった魔人の首元めがけて、黒短剣三十日月宗近を流れるようなフォームで振り抜く。
その軌道へと無理やりねじ込まれる右腕のガントレットを、新月に隠れた片刃はまるで水に映し出された月のようにすり抜けてとうとう魔人の首に到達する。
ズバンッ、という斬撃音と共に魔人の首筋から黒い液体が飛び散るが――咄嗟に首を捻るように躱されて浅い、致命傷ではない。
痩せても枯れても、死んでもなお元聖騎士ということか。ほとんど非戦闘職でしかない探索者の半蔵とは、反応速度からして段違いということだ。
「チィッ、これでもかぁ!」
最後まで振り抜くことなく手首を返して魔人の首にねじ込まれた黒短剣三十日月宗近ごと、半蔵が唯一まともに使える雷撃魔法を渾身の最大出力でお見舞いする。
文字通り落雷のような爆発音と共に、魔人の首から大地や天空など四方八方へとアーク放電が飛び散って、人肉の焼け焦げる臭いと黒煙が辺りに漂う。
しかし、それを吹き飛ばすように魔人の後ろ回し蹴りが飛んで来る。
すぐさま、黒短剣カルンウェナンの作り出す暗闇に逃げ込むように後ずさるが、消え切る前に漆黒のメタルグリーブが脇腹をかすめてしまう。
その衝撃で5m離れた位置に出現するやいなや、半蔵の軽い身体はそのままの勢いで壁まで吹き飛ばされて激突する。
「がはっ」
たったかすっただけでも、その元聖騎士だった魔人による重量級の衝撃は内臓を損傷させるのに十分だったようで。
胃から逆流するように、血反吐が口から溢れ出てしまう。
背後から降り注ぐように落ちて来るひび割れた壁の破片を頭から被りながら、すぐさま立ち上がろうとするがガクッと膝が折れてしまっていた。
「考えろ、考えろ。考えるんだ。この時のために、異世界から死ぬ気で帰還してまで小鳥の元に戻って来たんだろう!」
とはいえ、一生懸命に考えたところで所詮は勇者や聖騎士どころか大賢者でも魔術師ですらない、唯の探索者の透明人間にできることがそんなに沢山ある訳では無い。
その時、この旧校舎で唯一人の一般人としてこの非日常な光景を、下半身の激痛の中でボーッとしながら見ていた背広の男が。
違法ドラッグがもう切れたのか、これがキメて見ている幻覚では無いことに今更のように気がついてしまって。
「ひっいいいいい!」
突然、悲鳴を上げて潰された股間を押さえたままガニ股で必死に逃げようとする、のだが――逃がしてくれるはずもなく。
大きい熊手のような鉤爪に捕まると、魔人ジークリンデの美しい顔がどうしたことかパカッとアンバランスに大きな口を開けて足先からボリボリと一呑みにし始める。
「ぎゃあああああ!」
生きたまま丸呑みにされてしまっている背広の男が、いくら女子中学生を違法ドラッグで薬漬けにしたからといっても、この死に方は。
元聖騎士のジークリンデさんも腹を壊さなきゃいいんだが。
などと、現実逃避している場合では無いので、半蔵は食事に夢中になっている魔人に向かって最後の力を振り絞って突進する。
あの魔人は元々が異世界の魔神が滅亡する直前に残した呪いで、精々が魔神の欠片のような程度の物のはずだ。
だからか、自己再生の能力も持っていないようで半分千切れかかっている首も復元できていないが、人を食べ始めると少しずつ傷が塞がって来ていて回復していっているようにも見える。
完全回復されると、手出しができなくなってしまいそうだ。
半蔵は加速しながら再び黒短剣カルンウェナンの暗闇の影へと掻き消えて、現れたのは魔人の直上で天井を蹴った勢いそのままに落下して、両手の黒短剣を二本共に魔人の延髄目がけて突き立てる。
「これで終われっ!」
魔人の延髄に突き刺さった二本の黒短剣ごと雷撃魔法を撃ち込むと、さっきよりも大きなアークと火花が飛び散って、遂には着火して全身から蒼白い炎が噴き出る。
だが、背広の男をとうとう丸呑みし切った魔人は、今度は半蔵を食べようと両の手を背中に向けて伸ばすので、慌てて飛び退く。
そして転がるようにして数m程の距離を取るが、蒼白い炎をまとったままでズルズルと黒煙を上げながら追いかけて来る。
「チッ、まだくたばらないか!」
これでは本当に差し違えるしか無いかもしれないなぁ、と胃からせり上がって来る血反吐をもう一度吐き捨てると、最後に覚悟を決めようと両手に握る黒短剣を握り直す。
そのとき、床に落ちていた半蔵のスマホに狙ったように着信があって――そして、その着メロは。
『ハンゾーくん、お電話だよ~早く出ないと切れちゃうよ~えへへ~って違ったぁ~ブチッ』
のほほんとした、でも小鳥の涼やかな声で吹き込まれたオリジナル楽曲だった。
「クスッ、やっぱ死ねないな。早く帰らないと、また小鳥が泣いてしまいそうだ。しゃーねぇ、もいっちょ頑張るとスッかぁ!」
そう雄叫びを上げると、真っ直ぐに魔人に向かって突進して行く。魔力の残量もそれ程残ってはいないし、体力もそろそろ限界だ。
後は手持ちのスキルで使えそうな短剣術や格闘術などを複合して、魔人の限界まで手数で押し切るしか無い。
魔人の方も修復している途中は調子が悪いのか、ぎこちない挙動で鉤爪を振り回してくるので。
それを弾きながら知り合いだった剣聖の二刀流の真似事をして、両手に持った短剣で斬撃を繰り返す。
何十回目になるか分からないパリングで、魔人の鉤爪の一本が折れる。
もうちょいだ、と思ったその瞬間に、元聖騎士の魔人ジークリンデが腰に下げていた聖剣に右手をかけると。
「死ねるかっ、くそっ!」
両手の黒短剣を、魔人の抜刀する軌道に力一杯ねじ込む。
が、次の瞬間ガツンッとこれまでとは次元の違う重金属のぶつかり合う音がして、吹き飛ばされた半蔵は床を滑って行っていた。
黒短剣二本で斜め後ろに受け流したから衝撃をまともに受けずに済んだが、それでも身体中がギシギシ言って立ち上がることもままならない。
そうしていると、ゆっくりと歩いて来た元聖騎士の魔人ジークリンデが聖剣をゆっくりと振りかぶって。
黒短剣カルンウェナンで急いで作り出した暗闇の影へと転がり込むように逃げるのと、目の前の魔人に爆炎魔法が着弾して炸裂するのは同時だった。
再び影から出て来た時にはその轟音と爆風に巻き込まれながらも、何とか流れ弾の直撃だけは免れていた。
「が……あ……ぁ……」
流石の魔人もこれには堪らなかったようで、低い呻き声を上げながら。ドンッ、と床を蹴ると旧校舎の天井を打ち破って逃げ出してしまった。
「おいっ! ……逃げるなよぉ~。本気かよぉ」
大きな穴の開いた天井を見上げながら、その穴からポツポツと降り注ぐ雨粒に呆然としていると。
後ろから、聞き慣れたはずの声が聞こえて来る。
「あら、随分とボロボロなのね? それにしても、あなたまでこっちに来ているとは思わなかったわ。見ていた感じじゃ、邪魔しに来た訳でも無さそうだけど。
それから、さっき聞き覚えのある声が聞こえて」
「おっせーよっ! いつまでチンタラしてやがんだぁ、このウスノロが!」
ギロッと殺気を込めて振り返ると、やはりそこにはあの異世界で大賢者とまで呼ばれたエルフが立っていた。
シャンパンゴールドのショートボブに碧眼の、まるでCGで作られたような完璧な美貌の綺麗な顔立ちをした西洋美人。
身長は半蔵と同じくらいなので女性としては高い方だが、そのスラッとした絶妙なプロポーションはモデルのようだ。
そして当然、笹の葉のように長い耳をしている。
「な、何よ。勇者パーティーの正式メンバーでも無いあなたなんかに、とやかく言われる覚えは」
「何、逃がしちまってんだよ! 意味ね―じゃんかよぉ、何しに来てんだよテメーはぁ!」
異世界の頃の癖なのか向こうの感覚で高飛車に偉そうなことを言い出すので、思わずブチ切れた半蔵が罵倒しまくる。
「う……確かに逃がしたのは悪かったけど……次に」
「次なんか、もうねぇかもしんねぇだろうが! 実際に勇者は死んじまって、次なんか無かったじゃねーかよ! もう忘れちまったのか?」
余りの剣幕に口篭もってしまう大賢者なエルフに、容赦なく罵声を浴びせまくる半蔵は既に抑えが効かなくなっていた。
ここまで怒鳴りつけられた経験が無いからか、泣きそうな顔をしてスラッと背の高いはずのエルフの大賢者が背中を丸くしてしまう。
「だ、だから、残された大賢者である私がこの世界に」
「だ・か・ら、それを言ってんだよ! 俺達の世界に、お前達の世界のごたごたを持ち込むんじゃねーよ!
俺達を勝手に召喚して呼びつけておいて、挙句の果てに勇者を殺されただけじゃ飽き足らずに、この世界にまで余計な物を持ち込みやがって!
ここは、俺達の世界だ! まだ勇者が生きていて。小鳥がいる世界なんだぞ!」
そう、ここは――この世界は。
この世で一番大切な小鳥が暮らす世界なんだ。
貴様達、異世界の屑共の好きには絶対にさせない。もし小鳥に何かしようとしやがったら、自分の命の全てを懸けて皆殺しにしてやる。
そう、半蔵が殺気を全開にして大賢者なエルフを射殺さんばかりに睨みつけるので。
「わ、分かったわよ。悪かったわよ。確かにこの世界じゃ私の方がよそ者だしぃ。この世界の事情に詳しい、あなたの言うことは聞くようにするわよぉ。
ところで、勇者である千剣破をこの世界で知ってるみたいな口振りだったけれど」
「チッ。それよりも、早くここを離れた方がいい。この騒ぎで人が集まって来ている」
ベッと口の中に溢れ続ける血反吐を吐き捨てると、半蔵はお腹を押さえながらヨロヨロと旧校舎の渡り廊下から自分の教室に向かって歩き始める。
「わわっ、それはヤバイわね。今の状態でこっちの世界の人達と揉め事を起こしたくは無いわ。
それにあなた、怪我してるじゃないのよ! ちょっと、見せなさいよ――って、内臓をやられて、骨折までしてるじゃないのよっ。
ちょっと待ってね、回復魔法を――はい、これでいいわよ」
パタパタと走って付いて来る大賢者なエルフが後ろから無詠唱で回復魔法をかけてくれたようで、随分と楽になった半蔵が後ろを振り返ることなく片手を上げて見せる。
「サンキュ。ああ、それから。その長い耳は隠しておけ」
「え? ああ、この世界にはエルフ族はいないのよね? 分かったわ、ちょいちょいっと。はい、これで良いかしら」
トトトッと半蔵の前まで走って来て顔を覗き込むようにして見せると、ショートボブの髪型をいじってサイドを器用に編み上げて、長い耳の先が隠れるようになっていて。
どうやら、高位の幻影魔法もかけられているようだ。
「ああ、後はその服は駄目だから、今日のところは俺の傍を離れるな。そうすれば、他人の視線を避けられるはずだから」
「え~、これ私のお気に入りなのにぃ。ローブもマントも炎龍の外皮を使っていて」
懲りずに元の異世界の感覚でくっちゃべっているので、半蔵がため息をつきながら振り返る。
「言っとくが、その格好でウロウロすると警察――この世界の警備隊に連れて行かれるぞ。
それでなくても、あの真面目な千剣破が異世界のことを何も知らなくて、お前のようなおかしな格好をしている奴の話を聞くと、本気で思っているのか?」
「う……おかしい格好? おかしいかなぁ~。そうか、おかしいのかぁ……」
ガックリと肩を落として、トボトボと後ろを付いて来るしょんぼりエルフさん。
「とにかく、こっちの世界の人にあったら」
「ハンゾーくんっ! みーつけたぁ」
そう言って、正面からバフッとしがみついて来たのは小鳥だ。ああ、その柔らかい身体も温かいし、綺麗なミルクティカラーの長髪からはお日様の匂いがしていた。
だから半蔵はそんな彼女を引き剥がすようなことはせずに、そっと背中を擦るのだった。
さっきまで一人ぼっちでは無かったにしても、生徒会室で妹の十六夜と待っている間ですらも、恐らくは酷く心細かったに違い無いのだ。
「ふへへ~、ハンゾーくんだぁ。あれ? あれれ? ハンゾーくんが、ケガしてる! わ~んっ、痛いぃ~~。わ~ん、わ~ん、わ~ん」
半蔵に抱きついていた小鳥がクンクンと小さな鼻をヒクヒクさせると、血の臭いを嗅ぎつけたのか、突然わんわんと大泣きし始めてしまう。
だから、彼女の背中を優しく擦りながら懸命になだめ始める。
「ああ、ほらもう大丈夫だから。怪我は大したこと無いから。もう治ったから、だからそんなに泣くな」
「わ~ん、ホントに痛くない? ホントに、ホント? でもでも、念のために保健室に行こう?」
ミルクティカラーのウサ耳をペタンと寝かせてしまって、紅い輝きを込めた玄色の瞳をいっぱいに大きくして涙を溢れさせたまま。
必死に縋りつくようにしてワイシャツを引っ張るので、苦笑しながらも大人しく付いて行くことにする。
「も~、ハンゾーくんは。ちょっと目を離すとすぐにケガして来てぇ~。私がついていないと、ダメダメなんだからぁ」
「はいはい、すみませんね」
半蔵の鍛えられた細身で筋肉質の身体に抱きつくように支えてくれているつもりの、小さく細い小鳥の肩を抱きながらゆっくりと階段を降りて保健室に向かうのだった。