第6章4話 七夕の前夜
「今日ねぇ、凄いって褒められたんだぁ~。えへへ~」
お風呂上がりのシャンプーのいい匂いをさせながら、ミルクティーカラーの濡れ髪をくるくるっと巻き上げた小鳥が、ベッドの上で脚を交互にパタパタさせている。
今日の野外ライブのリハーサルは嬉しいことばかりだったようで、家に帰って来る途中も、家に着いていつものように半蔵の部屋へと転がり込んで来てからも、ずっと楽しそうに話し続けている。
そしてベッドサイドに座り込んだ半蔵もそれを嫌な顔ひとつせずに、いちいちフンフンと相槌を打っているのだった。
「そうか、それはよかったな小鳥」
その優しい視線は片時も、ペタンと寝っ転がった小鳥から離されることは無い。それはまるで、これが見納めだとでも言うように、哀しい色を秘めた瞳を細めて微笑みながら見つめ続けている。
小鳥は純日本人といった外見の、どちらかと言うと可愛いといった風の少女で、同じく小柄ではあったが整った目鼻立ちの北欧風の美少女だったディーヴァとは、当然のように印象は全くと言って良い程に違っている。
しかし、ふとした仕草や基本的に甘えん坊なとこは、やはりよく似ていて。
神の楽曲や天使の歌声が無かったとしても、転生を信じるぐらいの気にはなってしまうから不思議だ。
でもだからと言って、小鳥に異世界の歌姫ディーヴァの転生前の記憶がある、と言う訳でも無い。
だからこそ半蔵は必死に、小鳥は自分が愛したディーヴァとは別人だと思うようにしていた。
そうしなくては、無防備にベッドで幸せそうに笑っている小鳥を、今この時にもどうにかしてしまいそうな自分を抑えつけることが出来なかったのだ。
それでなくても、自分は明日の七夕の夜には消えていなくなる運命だ。そんな男が、この世で一番に大切な小鳥をどうにか出来るはずが無かった。
自分がいなくなった後に、誰よりも大事な小鳥が泣くと分かっていて、そんな無責任なことが許されるはずが無い。
だから、心の底から祈る。この少女がこれからも幸せで暮らしていけますようにと。
最初は泣いてしまうかもしれないけど、時が経つと共に哀しい自分などは忘れて、今のように明るく笑うことが出来ますようにと。そう心から祈って止まない半蔵だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
さっき兄の部屋に、隣の家から小鳥がやって来た気配がしていた。今頃はいつものように、ベッドに寝っ転がって嬉しそうにニコニコしているに違いない。
普通、隣り合った二軒の戸建て住宅が左右対称に建てられたのなら、窓の位置は互い違いに配置して隣の家の窓が覗けないように避けるはずだ。
それが、この二軒の唯ふたつの隣り合った部屋だけが、窓をお互いにくっ付けるように位置していた。それはまるで、お互いに行き来することが、心を通わせることがあらかじめ決められていたかのように。
そして、当然のようにあの二人がその部屋の住人となって、窓越しに話をするのにさほど時間はかからなかったと思う。
だからかもしれない、兄は実の双子の妹よりも、その窓を隔てた隣の少女とよく話をするようになっていた。
最初の頃こそ、十六夜も一緒に遊んでいたのが、いつの頃からか兄と口を利かなくなって、気付けば今のような関係になってしまっていた。
今になって思えば後悔先に立たず、何故あの頃の兄と疎遠になってしまったのか。思い出すことも出来ない有様だった。
小鳥が嫌いだった訳では無い。兄を嫌いになった訳では決して無い。それなのに、あの頃の自分を殴り飛ばしてやりたくなる自分がここにいた。
一般的にも年頃になると兄妹の距離が遠のくことは普通のことなのかもしれなかったが、それでも自分を許せそうには無い。
だから最近、距離が近くなった兄の優しい瞳が嫌だった。もうずっと何年もの間、会っていなかった妹に最後の別れを告げるような、そんな寂寥感が漂う微笑みには恐怖しか無かった。
そうして双子の兄妹だからだろうか、何故か明日の七夕の夜は嫌な予感しかしない。
「……お兄ちゃん」
殺風景な兄の部屋とは対極の様に可愛いらしい部屋のベッドに、兄のお下がりの白いワイシャツを袖捲りした下着だけのラフな格好で丸くなって、ここにはいない兄の名を呼ぶ。
きっと、小鳥と二人で楽しそうに話をしているはずの、兄を呼ぶ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「くっ、このままでは――!」
さっきの魔神の広範囲への極大ブレスで、全体の半数がやられただろうか。特に防御力の低い後衛の宮廷魔術師達と冒険者の後衛担当達が、避けることもできずに直撃を受けていた。
勇者である千剣破は、とっさにバックステップで魔神の爪を避けながら振り返る。
すると、両脚をブレスで焼かれて動けない半蔵を必死になって引き摺るようにして、戦闘領域から離脱しようとしているディーヴァが視界に入ってくる。
「――半蔵さんが死んでしまうっ」
本当なら何の関係も無い人だった。中等部の生徒会で懐かれて面倒を見ていた、副生徒会長をしている女生徒のお兄さん。それだけの人のはずだった。
なのに、自分の勇者召喚に巻き込まれて、こんな異世界なんて所に連れて来られてしまって。それなのに自分は、ちょっと前まではそんなことすら知らないで、いい気になって勇者だ何だと持ち上げられて。
気がつけば一緒に召喚されていた高等部の副生徒会長は、心を病んでしまって取り返しがつかないことをしでかす寸前だった。そして、それを止めてくれたのも彼だった。
それをひたすら謝る自分に、同じ被害者なんだから、謝る必要なんか無いんだと。お前は悪くないと言ってくれた。
あの頃は、もう投げ槍になりかけてもいた。でも、あの一言で赦されたと思った。だから、今日まで頑張って来ることができた。
魔神を倒して、もう一度、日の本に帰還する。そう思えるようになった。
それにこの魔神を倒さないと、こいつは異世界転移して日本にも行くと言っていた。いや、それよりも前にこのままでは彼が殺されてしまう。
そんなことは絶対にさせない。彼も連れて一緒に帰還するんだ。ああ、でもエルフリーデは二人は帰還できないようなことを……。
勇者としての奥の手を使えば魔神は倒せる。この命を引き換えにする、返魂のスキル。それは死者の魂を呼び戻し、死者を甦らせることからその名で呼ばれ、この魂を対価にして敵を討つ最終手段だ。
そうすれば、彼は助かる。そうだ、生き残った彼一人だけなら日本へ帰還もできるだろう。
ああ、でも……死ぬのはイヤだなぁ。唯の一人の女子高生でしかない、御雷千剣破が最後に本音を漏らした瞬間だった。
「エルフリーデ! ジークリンデ! 奥の手を使いますっ、時間稼ぎを! これで決めますっ」
だから、覚悟も早かった。迷うことなく勇者パーティーの大賢者と聖騎士の名を呼ぶと、パーティーリーダーとして最後となる命令を叫ぶ。
「まさかっ、チハヤ! それでは、あなたがっ」
「くっ、チハヤ! 解った私に任せろっ、この命に代えてもスキル発動の時間は稼いで見せる!」
後方にいた大賢者のエルフリーデが目を見開いて止めようとするが、瞬時に無条件に命令に従ったのは前衛にいた聖騎士のジークリンデで、聖剣を手に魔神へと突進して行く。
「づぁあああああああ!」
上半身だけでも数十mはある魔神が振り回す巨大な腕の圧倒的な圧力と、何でも切裂いてしまうその爪のこと如くを弾き返し、時には聖剣の力で魔神に傷を負わせるジークリンデに。
「くそぉおあああああ!」
一拍遅れながらも、無詠唱で極大魔法を連発で直撃させて魔神を釘付けにしながらエルフリーデは、その過剰な魔力操作により口と鼻からは血が滴らせていて、遂には目からも血の涙を流し始めてしまう。
そうして、グラッとエルフリーデの身体が傾いて一瞬だけ魔法による援護を失ったその瞬間、ジークリンデの左腕が魔神の爪によって切り飛ばされる。
「がぁっ、まだまだだぁああああ!」
しかし、右手だけで聖剣を構えたジークリンデは聖騎士のスキルで、聖属性の光の剣を出現させるとそのまま真っ直ぐに、魔神の顔面めがけて撃ち出された弾丸のように飛翔して大爆発と共に激突してしまう。
「できたっ、我が命を糧に現れよっ、かつて勇者と呼ばれし英霊達よ! がはぁっ……」
その瞬間、複雑な工程を経て構築されていた、勇者千剣破による返魂のスキルが発動する。
口から鮮血を吐いて仰け反り倒れ逝く千剣破の頭上には、空間を切裂くように姿を現したかつての英霊達が聖なる光をまとって何人も、何十人も、果ては数え切れない程に顕現すると、魔神へ極大の必殺技を次々に撃ち込んでいく。
まばゆい閃光と爆風と轟音が収まって黒煙が薄く消えて行くと、見えて来たのは。
左目に聖剣を突き刺されてその聖騎士を左手で握り潰したまま、あちこちを英霊達の極大必殺技で撃ち抜かれ肉片を穿たれた。
元々の半分ほどの大きさにまで小さくなってしまった魔神の姿だった。そして、それも既にサラサラと崩れ落ち始めている。
「チハヤァ!」
すぐさま大賢者のエルフリーデが全身から血を滴らせながらも駆け付けて来て、勇者千剣破を抱き起して回復魔法をかけるが、スキルの代償に心臓を破裂させた彼女には効果なく。
既にその漆黒の瞳は何も見えていないのか、虚ろに中空を見つめるだけで。
「……は、ん、ぞぉ……さ、ん……おうちに……か、え、ろう……」
はらり、と椿の花が落ちるように勇者千剣破の首が、力無く垂れさがると。
「あ、ああ、あああああああ! チハヤぁあああああ!」
その気高き魂故に敬愛し続ける勇者の千剣破が、今際の際に最後に口にした人物の名に。
彼女がいったい何を守ろうとしていたのかを、かけがえのない彼女が死んで、失ってしまって初めてハッキリと知ることになった。
エルフである大賢者のエルフリーデの悲しい慟哭だけが、大きな洞窟の最奥に反響する。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「はぁはぁはぁ……」
淡い桜色を基調に可愛らしくカラーリングされたベッドで飛び起きたのは、綺麗な烏の濡れ羽色をした長髪をシーツの上にバラ撒いている、勇者で生徒会長の千剣破だった。
最近は、七夕の勇者召喚が近づくにつれて毎晩のように、自分が経験したことのないはずの夢を見るようになっていた。
そのどれもが、辛く哀しい思い出ばかりで。特に今日の自分が最後に死ぬ夢は、何度見ても吐き気がしてくるほど最悪と言ってよかった。
これ程までに壮絶な人生を送ったはずの自分が信じられなかったし、それを生き抜いて帰還を成し遂げた半蔵の執念とも呼ぶべき胆力には言葉も無かった。
それは聖なる武御雷の剣により世を救うと古より伝わる一族の末裔として生まれた自分でも、想像を絶する生き様だったことだろう。
だから、こそだ。自分は死ねない。死ぬわけにはいかない。
何故、見も知らぬ異世界などというものの為に、この身が犠牲にならなければならないのかと、絶望して一族としての使命を呪いもした。
でもそれでも彼に、生きて還って来いと言われた。死んでしまっては、ダメだと怒ってくれた。そのための力も与えて貰った。
その彼が七夕の夜には、今夜には死ぬ運命だと言う。消えてしまうことを、受け入れてしまっている。生きることを、諦めてしまっていた。
だから、死ねない。何としても、生きて還って来て、そして彼を救うのだ。そのためなら、どんなことだってしてやる覚悟がある。
こんな悪夢のような、終わり方は御免だ。
「私は必ず還って来る」
薄い桜色のレースのカーテンから射し込む月光に浮かぶ、漆黒の瞳はその奥に煌く意志を揺らめかせながら、世界を救う勇者の家系に生まれついた一人の少女が、これから先の未来だけをジッと睨みつけるように見つめていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「~~~~~~~~~~~~」
誰もが寝静まった真夜中過ぎにベッドにペタンと座って、その膝に半蔵の頭をのせてそっと黒髪を櫛梳るように優しく撫でている。
月光の差し込むレースのカーテンが開けられた窓の外に視線をやって、澄んだ声で神の楽曲を奏でている少女が一人。
結局、小鳥は風呂上がりで濡れた髪を乾かすとそのまま半蔵のベッドで、コテンとお休み三秒で寝てしまっていた。
そんなあどけない寝顔を静かに黙って見つめていた半蔵も、いつの間にかベッドに突っ伏すように眠ってしまったようだ。
そんな中で、玄色の瞳の奥に紅く妖しい輝きをくゆらせながら、むっくりと起き上がって、愛しくて仕方が無いという手つきで、そっと半蔵の頬に触れると。
いつの間にか膝枕をした夜月の差し込む薄暗がりの中で、愛の詩を唄い始めていたのは歌姫ディーヴァだった。
そのどこまでも澄んだ天使の歌声は、眠りについているこの世で愛する唯一人だけを祝福するように響き渡り。そして夜闇に消えて行った。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。不定期で申し訳ありませんが、続く第7章は数日中には投稿再開の準備を進めています。今年は皆様にはとてもお世話になりました。皆様もよいお年をお迎えください。




