第1章2話 妹の十六夜
「ハンゾーくん、また明日ねェ~」
ブンブンと元気に手を振って、お隣さんな自分の家へと入って行く月見里小鳥。
海に面したこの住宅街にあってごく一般的な建売りの一戸建ての家で、前の道から見渡すと半蔵の家とは左右対称のようなデザインの造りになっていた。
しっかりと小鳥の家の玄関に鍵がかけられたことを確認すると、半蔵も安心したようにおもむろに自分の家の鍵を出して玄関を開けて家に入っていく。
その家には、きちんと明かりが照らされていて人の気配もしているのだが、呼び鈴を鳴らしたりする様子は微塵も無かった。
ただいま、の言葉も無く静かにローファーを脱ぐと、スリッパも履かないまま音も立てずにスタスタと二階に上がっていって――バッタリと角の部屋から出て来た妹と鉢合わせしてしまう。
「っ! チッ、帰って来たのか……」
一瞬、息を呑んだようだがすぐさま舌打ちをするといつものように妹が悪態をつき始めるので、流れるようにその横をすり抜けて自分の部屋へと逃げ込む。
するとやっぱり扉の向こうからは聞くに堪えない罵詈雑言が聞こえて来るが、部屋の中にまで入ってくるつもりは無いようだ。
自分のことを認識できる数少ない人間である妹は、同じ年の生まれで詰まる所は二卵性双生児だった。だからか、ちっとも似ていない外見は彼女にとっては幸いなことなんだろう。
生まれて暫くすると、兄の方は出涸らしで妹の方に才能が全て受け継がれたとまで言われる程に何もかもが出来の良い妹だった。
それでも小さな頃は同じ歳の小鳥とも一緒に遊ぶことも多かったのだが、いつの頃からか兄妹は口も利かなくなってしまっていた。
今では中高一貫の学園において文字通りアイドルのような存在で、校内では中等部生徒会の副会長を務め、校外では女子中高生向けオシャレ雑誌のモデルもやっている程の完璧美少女だ。
だからか長い髪は金髪に染められているものの、学生服を着た学校紹介パンフのモデルを務めるなどして学園ともしたかかに何某かの取り引きが成立しているようだった。
廊下からの喚き声が聞こえなくなって人の気配が一階に下りて行ってしまったのを確認した頃、コツンっと小さく窓を叩く音が聞こえて来る。
またか、と半蔵が思いながらも日課となっているので自然な動作で窓を開けると、涼やかな風と共に。
「お帰りなさい、えへへ~」
と、嬉しそうな声がしてピョンと小鳥が窓枠を飛び越えて部屋に飛び込むようにやって来る。だからだろか、つられるように思わず答えてしまっていた。
「ああ、ただいま」
ここ一ヵ月は、万感を込めて感謝の気持ちと共にその言葉を口にすることが多い。
小鳥は学生服から部屋着――ダブっとしたラフなショートスリーブのTシャツにヒラヒラのプリーツなミニスカートに着替えて、半蔵のベッドにダレるように寝転がっている。
半蔵に比べても高くはない身長だがその割には着痩せするタイプらしく、実はそこそこ出るところは出ている密かにむっちりプロポーションなので。
そんな格好をしていると、グニャリと潰れて変形した胸の谷間が、肩から落ちかけたTシャツの襟口から丸見えになっていて。
そういう訳で無防備な小鳥をどう説教したら良いもんだろうかと考えていると、お休み三秒でもうクークー言いながら熟睡しているのだった。
仕方が無いので、夕食の時間になったら起こせば良いかと自分を納得させてから、日課となっている鍛練を始めることにする。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「もお~っ、ハンゾーくんが起こしてくれないから、昨日は危うく晩御飯を食べ損ねてお風呂にも入れないところだったんだよぉ。乙女の大ピンチだよ~」
海風が涼しくて気持ちの良いはずの朝っぱらから、プンスカ怒っているのは小鳥さんだ。昨日はあれから爆睡してしまって、起こしても起きなかったのは貴女ですよね。
とか、言い返そうかどうしようか半蔵が考えていると。
学生で溢れ返る通学路の前方の遥か先に、長い金髪をなびかせた妹の後ろ姿を見つけてしまう。
するとピコンッとミルクティカラーのウサ耳を立てた小鳥が、タタッーっと走って行ってしまう。
あれこそ、脱兎の如くと言うのだろう。小鳥の癖に、ウサギとはこれ如何に。
「おっはよ~っ、十六夜ちゃぁ~ん」
「わっ、ビックリしたぁ。小鳥ちゃん、おはよぉ~。ってことは、ジロッ」
後ろから飛び付かれてふっくらした胸を押し付けられて両方の意味で驚いたらしい妹が、鋭い視線を半蔵に向けて来る。
しかし、彼の周囲にいる男共は自分が見つめられているものと勘違いしてしまっていて、無駄な舞い上がりを見せている。
その人混みの中を誰に接触することも無く、スタスタと歩いて来て小鳥にだけ声をかける。
「先に行っているからな」
「うんっ、分かった」
にぱぁっと笑った元気な向日葵のような笑顔に思わず苦笑しながら、静かに気配を消してそのまま通り過ぎ――ようとしたのだが、何を考えたのか半蔵に向かって妹が声をかけてくる。
「昨日あれから、小鳥ちゃんを部屋に連れ込んで何やってたのよ?」
その不穏当な発言に、周囲にいた男子学生だけでなく女子学生までもがギョッとしてしまったようで、足を止めて振り返ってしまう。
「ええ~、それはぁ~。ベッドの中でェ~、ポッ。恥ずかしくていえましぇ~ん、きゃぁ~っ!」
クーカークーカーいって、涎を垂らしながら爆睡していただけですよね。と、クネクネし始めてしまった小鳥に言い返そうとするのだが。
こんな群衆の中で目立つのは御免こうむるので、二人を無視してさっさと学生達の間を掻き分けるようにして、半蔵は素知らぬ顔で立ち去ることにする。
◆◇◆◇◆◇◆◇
一足先に教室に入ると、当然のように誰からも視線を向けられることは無いが、教室の雰囲気が妙にささくれ立っていて。
後方窓際の席に陣取ったいじめっ子三人組の女子生徒達が、爪を噛みながら何やらブツブツをつぶやいている。
「何で、平気な顔してあの泥だらけの靴で帰れるのよ?」
「アホだから足も鈍感にできてるんでしょ? でも、今日のはバカなあの子でもわかるでしょ」
「違いないわ~、あれ見たらどんな顔するのか見物よねェ~」
ふ~ん、とか思いながら教室のみんなが視線を逸らしてワザと見ないようにしている、小鳥の机まで行くと。
クソビッチだの、淫売だの、売女だの、まあ見るに堪えないような悪口――と言うか、こういうのは何と言うのだろうか、が油性ペンで所狭しと書き殴られていた。
まあ、先に来て正解と言うことか、とか思いながらおもむろに鞄の中からスマホを取り出すと写真を動画で撮っておく。
もちろん、パンして周囲で居心地悪そうにしている生徒達と主犯の女生徒三人組も長回しで収めておく。
それでも、透明人間と化した半蔵のことを気にする様子の生徒も、その行動を止める生徒もいないのだが。
十分な証拠保存をした後は、ポンッと机に軽く触れると昨日の靴と同様に綺麗サッパリと、小鳥の書いていたと思われるウサギの落書きと一緒に何もかもが消え去ってしまう。
しかし、机の方を誰も見ていない教室ではその異常であるはずの光景に気づく者などいるはずも無く。
そうしていると、パタパタと走って小鳥が教室に入って来る。
「もーっ、ハンゾーくん。置いてかないでよ~、探しちゃったじゃないのぉ。プンプンって、ぎゃああああ!」
やって来るなりプンスカと文句を言い始める小鳥だが、鞄を机の横にぶら下げて、ふと机の上を見つめるなり頭を抱えて叫び始めてしまう。
それを見ていたいじめっ子の女生徒三人組は口元をニヤ~っと三日月のように歪ませると、ようやく留飲を下げたと言わんばかりに、ケラケラと笑い始めて。
「あら~、月見里さんったら。急に大きな声を上げて、どうしちゃったのかしらぁ?」
「もしかして、机の上におかしなことでもあったりした?」
「まぁ~、それは大変ねェ。それじゃ、そのまま汚い机じゃ先生が来ても――あれ?」
バカにするように小鳥の机を取り囲むのだが、新品のようにピカピカになって傷ひとつ無いそれを見て、アングリと口を開けてしまって。
「わ~ん、せっかく書いたウサピョンの落書きがぁ~。私の超大作がぁ~、消えてしまった~」
「「「え?」」」
小鳥画伯は永遠の名作であるウサギの落書きが消え去ってしまったために、愕然としてしまって涙が止まらないようで。
いじめっ子の女生徒三人組も、何がどうなったのか理解できずに固まったままだ。
そこへ朝のHRのために教室に入って来たアラフォー中年女教諭が、小鳥が泣いているのでギョッとして。
「や、月見里さん、泣いたりしていったいどうしたの? まさか、虐められたとかじゃないわよね? まさかね、月見里さんを虐めてもしょうがないものね?」
あくまで現実を見ないで自分の都合の良いように事実を捻じ曲げて解釈してしまう中年女教諭の、ご都合主義でチープな台詞に半蔵は思わず苦笑を堪えることができない。
「クソビッチは誰でも無い、あんただよ。なあ、セ・ン・セー?」
しかし、半蔵のそんなつぶやきも生徒は勿論、老害とも言える中年女教諭に届くことは無く虚しく虚空の中に霧散するのだった。
「う……私のウサピョン……」
ああ、今日は帰りにイチゴのショートケーキでも買ってやるか。などと、とりとめも無いことを考える半蔵は一人やり過ぎたことに深く肩を落として反省する。
◆◇◆◇◆◇◆◇
さてと、サッサと教室を出て旧校舎の渡り廊下で一人飯でも取るか、と半蔵が昼休みが始まると同時に席を立とうとしていると。
「月見里小鳥さんっ。ああ、よかった。いたっ、いた~」
そう叫びながらドカドカと教室に入って来たのは長身ロン毛のイケメンで――高等部の制服を着ていて、何故かその後ろから妹が付いて来ている。
「え? あ~、十六夜ちゃんどうしたの?」
急に上級生のしかも高校生の知らない男から声をかけられたものだから、半蔵の後ろに半身で隠れるようにしながら知り合いの妹の方に声をかける。
「ジロッ。えーっと、それはねぇ」
それに答えるように半蔵をひと睨みしてから、妹が口を開こうとするが。
「それはっ、俺から説明するよ。俺はセミプロでバントをやっていてさ、知らないかなぁ。『黒の十字架』って言うんだけどさ。
意外とネットでもアクセス稼げていてさ、時々近場でライブもやってるんだけど」
グイグイと間に入っている半蔵を無視するように、と言うかまるで視界に入っていないように小鳥に迫って来るロン毛のイケメン。
その余りに自分の欲求をさらけ出した態度に若干引きながらも、少しはフォローをするかと苦笑しながら言い訳を始める妹。
「あ~、私と同じ系列の事務所の所属だから連れて来たんだけど、本人も言っていたようにそこそこ人気があるバンドで――ほら、ファンの女の子も学校じゃいっぱいいて」
「「「「「きゃあああ――っ!」」」」」
妹の十六夜が話をしている間にもイケメンが廊下に向けて手を振るもんだから、この教室に一目見ようと詰め掛けたファンの女子学生達が黄色い悲鳴を上げてしまう。
「え、えっと。それは分かったんだけど、私に何の?」
何十人と集まっている熱狂的なファン達の奇声にたじろぎながらも、小鳥が恐る恐る訊ねてみる。
「ああっ、そうだった。俺達のバントに入ってくれないか? いや、最初はセッションでもいいんだ、それがだめならコラボ? とかだけでも!」
見た目はサッパリ系のイケメンなのに、さっきから熱いパッションをほとばしらせて暑苦しいことこの上ない。
「ええーっ? 私、ムリですよぉ」
「そんなことは無いって、あの動画見て感動したんだよ! あれは神の楽曲だったんだっ」
透明人間な半蔵に唾を飛ばしながら熱く語るイケメンに、可愛く小鳥がコテンと小首を傾げる。
「あ~、一か月ぐらいにネットにアップされた、海の見える公園の丘の上で小鳥ちゃんが一人で歌を唄っている動画のことだと思うよ? でもあれって、隠し撮りされたヤツだよね?」
同じ系列の事務所の先輩だからかフォローするように口を挟んで来る妹の十六夜に、それでもキョトンとした顔をして見せる小鳥さん。
そりゃそうだ、あの動画は半蔵がわずか一日だけこの世界にいない時に、一人寂しく歌を唄う小鳥を偶々別の撮影で公園に来ていたカメラマンが撮影したもので。
肖像権というものを理解しているはずなら、本来は勝手にネットに投稿して良い種類の物ではないことぐらい分かりそうなものなのに。
そしてその動画はアッと今に拡散して、楽曲の良さは勿論のこと歌詞がこの世界に存在していない言語で唄われていることも相まって、このたった一ヵ月弱の間にミリオンアクセスを叩き出していて、現在もアクセスカウンターが回りっぱなしだ。
果てはハリウッドや言語学者までが動き出していると言う、都市伝説まで生み出す始末だった。
「え~、そんなのは私、知りませんし。知らない人の前で唄うのは嫌です」
しかし、そんなことはちっとも気にする様子の無い小鳥は、アッサリスッパリ気持ちがいいくらいにバッサリと切り捨ててしまう。
「ノオーッ! そんなこと言わないで、ちょっとだけでも」
とうとう頭を抱えて叫び出してしまったロン毛のイケメンは、あろうことか目の前の透明人間である半蔵を超えて、小鳥の二の腕を掴もうと手を伸ばしてしまう。
次の瞬間、イケメンの伸ばした腕は空中でクルッと弧を描いて背中の方に回されて上げられると、そのままの反動でイケメンの顔面を床に壮絶な音を立てて打ち付けてしまう。
「がぁっ! ぎゃあああああ!」
ついでとばかりにミシッと何かが折れる音がして腕の関節が外されると、激痛に顔を上げたイケメンの前歯の二本が途中から折れているのが丸見えになってしまっていた。
そこまで大立ち回りを演じても、接触している時間はほんのコンマ数秒だったために、背面に回っていた半蔵をイケメンは目視することが出来ていなかった。
勿論、その周囲に集まっていた群衆の誰一人として、透明人間である半蔵の挙動を視認できているものはおらず。
いや、二人だけ。
月見里小鳥と霧隠十六夜の二人だけが、その一部始終をジッと見つめていた。