第1章1話 小鳥と透明人間
霧隠半蔵は透明人間である。
自分でも珍しい名前だろうとは思うが、別に忍者の里に生まれたという訳でも無い。
最近流行りの中高一貫教育に通う、学校指定の濃紺のブレザーにチェックのスラックスを履いた、見た目はごく普通の中学二年生だ。
ちょっとだけ、普通の人よりも影が薄いかもしれない。
そんな訳で普段から学校の教室では目立たないように誰とも口を利かないし、休み時間は寝ているフリをしていて、お昼休みはサッサと教室から出て旧校舎との渡り廊下で一人飯を食う。
勿論、友達なんて単語しか知らないモンは、これまでの人生で一度も持ち合わせが無いので、その意味すら知らない。
廊下を歩いていても誰からも見向きもされないし、階段ですれ違っても誰も気がつかないのはいつものことだ。
階段の途中の折り返しの所まで来ると、女子生徒が三人で姦しく話しをしている。同じクラスの女子達のようだったが、名前までは憶えていなかった。
「次の家庭科の授業で使う裁縫セットをかっぱらって来てやったわよ」
「これが無ければあの娘どんな顔するか、見物よねぇ」
「いつも澄まして良い子ちゃんぶってるから、いい気味よ。ついでに焼却炉に入れて、燃やしてやろうか?」
女生徒三人はその中の一人が手にした裁縫セットを見ながら、ニヤニヤと嫌らしい笑いを隠そうともしない。
誰かに見咎められているとは、露ほども思ってもいないようだ。
そうして手にした裁縫セットそのものには興味が無いのか視線を離すと、ケタケタと耳障りな馬鹿っぽい笑い声を階段中に反響させる。
だから、半蔵はすれ違いざまに音も無くその裁縫セットを掠め取ってしまう。
それを手にしていた女子生徒も他の二人も、何も気付かずにまだ馬鹿笑いを続けている。こんなに大きな物を、スられたら気付くだろ普通。
そんなことを考えながらも、階段の途中の折り返しで飽きることなく品性の欠片も無い馬鹿笑いをいつまでも続けている女生徒三人を、振り返ることも無く自分の教室へと向かう。
その途中ですれ違う生徒達も、ウサギのアップリケが付いた女生徒用の裁縫セットを持った、明らかに不審者にしか見えない半蔵のことを気にする様子は無い。
教室に戻る途中で職員室の前を通り過ぎるが、そこですれ違う担任のアラフォーな中年女教諭からも見向きもされることはない。
文字通り透明人間のように誰からも気付かれること無く、自分の教室の前まで帰って来ると。
「あーっ! ハンゾーくん、いたーって、どうして私の裁縫セットなんか持ってるの? それ次の授業で使うんだから、返してよ~。
だいたい、私の裁縫セットなんか――はっ、まさかハンゾーくんって幼馴染の裁縫セットで昼間っからハアハアする特殊な性癖のあいたぁ!」
柔らかいサラサラのミルクティカラーの長髪をした頭を両手で押さえながら、少し瞳孔が紅味がかった玄色の瞳を涙目にしてこっちを上目遣いで睨んで来ているのは、同じクラスの月見里小鳥だ。
もともと半蔵の顎ぐらいまでしか頭が来ないぐらい小さいので、見上げて来るような視線はいつものことだが。
「いきなり殴るなんて、ヒドイよぉ~。それより、またお昼休み教室に居なかったけど、何処行ってたの? さっきまでお昼、一緒に食べようと思って待ってたけど、時間が無くなっちゃうから食べちゃったよ?」
小鳥だけは俺がいくら迷彩、潜伏、隠蔽のスキルを駆使して気配を消しても、何処に隠れて居ても必ず見つけ出してしまう。
物心ついた頃から、かくれんぼで小鳥に勝てたことは一度も無かった。
そんなどうでもいいことを思い出したからか、半蔵はわずかに不貞腐れたような顔をして手に持った裁縫セットをズィッと差し出す。
「はい、これ。ボタンが取れかかっていたから、借りてた。悪かったな」
「えー、それなら言ってくれたら私が付けてあげたのにぃ」
小鳥がほっぺをプクッと膨らませるので、ボタンをつけてもらったところを想像するが、どうしてかボタン穴に入らず四苦八苦している光景しか思い浮かばない。
半蔵が微妙な顔をして黙り込んでしまったので、渡された自分の裁縫セットのウサギさんを指差しながら小鳥がプンスカ怒り始める。
「あーっ、また何かバカにしてるぅ~。私だって、ボタン付けぐらいはできるようになったんだからねぇ~」
とうとう空いた方の手でポカポカと半蔵の細身の大胸筋を殴り始めてしまうが、周りの生徒たちは気にする様子も無く二人の傍を通り過ぎて行ってしまう。
「それじゃ、俺は行くから」
そう言い残してコンビニの袋をポイッと教室の入り口にあったゴミ箱に放り込むと、半蔵はスタスタと歩いて行ってしまう。
女子の次の時間はこの教室だけど、男子は教室移動だからもう行かなくては。
「え? わわっ、もうこんな時間っ。わきゃ~、裁縫セットを探していたんだった、って。はっ、私ってば持ってるしィ?」
一人でワイワイと騒いぎながら教室に飛び込んで行ってしまうアホな子の小鳥を暫く振り返って見ていると、廊下の向こうからその姿を凄い形相で睨みつけている女生徒三人組がいた。
盗んで持ち出したはずの小鳥の裁縫セットを自分達が持っていないことに、ようやく気がついたようだ。遅ェーよ、馬鹿。
だから、廊下ですれ違いざまにボソッと囁いてやる。
「小鳥に手を出したら、コロスぞ」
すると急にギョッとして、キョロキョロと辺りを見回して慌てふためいてしまう、いじめっ子三人組。
まだ中学二年生だっていうのに、しかもこの学園は中高一貫教育で中学三年になってもエスカレーター方式で放っておいても高校生になれるというのに。
そんな高校受験のストレスからも無縁なはずの学園生活だというのに、どこにでも他人を虐めて喜びを覚える下種で救いようの無い人間というのはいるということか。
月見里小鳥が虐められるようになったのは、GW明けからだから一ヵ月経っていないぐらいか。まあ、まだ本人はそれに気づいてすらいないようだが。
最初はヒソヒソと陰口を叩くように、周囲から避けられ始めた。気がつくと小鳥の持ち物が無くなっていることがあった。無くなった物は女子トイレや小さな消化用溜池などに投げ入れられていた。
今日の裁縫セットは放っておくと、とうとう焼却炉逝きの運命だったようだ。最近は、段々と際限が無くなって来ている。
次はそろそろ――あれか? とかボンヤリと考えながら、半蔵は誰からも見咎められることなく予鈴が鳴り終わった廊下をユルユルと工作教室へと歩いて行って消えてしまう。
◆◇◆◇◆◇◆◇
HRが終わった放課後、誰からも気にされること無く半蔵がカバンに教科書を詰め込んで教室から出ようとしていると、パタパタと足音がして小鳥が駆け寄って来る。
「わ~ん待ってぇ、待ってよぉ~。一緒に帰るからちょっと待っててよ~。今日は日直だから、日誌を先生の所に返してこないと」
「わかった。下駄箱の所で待ってるから」
そう素っ気なく答えると嬉しそうに、にぱあっと向日葵のように微笑んでからタターッと、日誌を抱えて走っていってしまう。
ああ、そんなに走ると――他のクラスの先生に走るなって怒られて、ペコペコと謝りながら競歩のような早足で廊下の角を曲がって行って見えなくなってしまった。
そんな後ろ姿を見守ってからゆっくりと下駄箱に向かうと、昼休みに小鳥の裁縫セットを燃やそうとしていたいじめっ子の女生徒三人組とまたすれ違ってしまう。
「ふふん、これで心を入れ替えれば良いのよ」
「裸足で帰るあの女のみっともない格好を、二階の教室から見てやろうよ」
「いつも何か偶々助かっているみたいだけど、今度は使い物になんないからザマあみろよ」
また半蔵がすぐ隣にいるのに気がつくことも無く、嬉しそうに悪巧みの相談でもしているらしい。
だから小さくため息をつくと、昇降口に行って小鳥の下駄箱を開けてみる。すると案の定、山盛りの泥に埋まった彼女の小さなローファー靴がそこにはあった。
「とうとう、人目に付くのも気にしなくなってきたか」
後先考えない余りに幼稚な人間性に、本当に中学二年生なのかと呆れてしまう。
それよりも小鳥がやって来る前に何とかしないと、と半蔵が人通りが多い下校時間に女子の下駄箱に手を突っ込んでパッと泥を綺麗にしてしまう――なんて目立つことをしても、誰も見ていない。
下駄箱の中の小鳥のローファー靴が綺麗になったのを見て、半蔵がちょっとだけ頭を掻く。
「あちゃー、綺麗になり過ぎたか?」
「わわっ、ハンゾーくん。私の下駄箱、開けて何やってんの? はっ、ハンゾーくんってば好きな女の子の靴をクンカクンカする特殊な性癖があいたぁ!」
トテトテと走って来たらしい小鳥が、後ろから自分の下駄箱を覗き込んでいる半蔵を見つけて。
黙っていれば可愛いのに余計な事を口にするので、また半蔵の手刀を頭上にくらってミルクティカラーの長髪を振り乱しながら座り込んでしまう。
「しくしく~。う~、これ以上、叩かれたらバカになっちゃうよ~」
短いチェックのスカートを履いたまま座り込むもんだから下着が見えてしまいそうで、思わず他からの視線を遮るように彼女の目の前に立ち塞がってしまう半蔵は。
まあ、自分といれば他人から視線を向けられることは無いんだろうが、気分的にも許せない物があるので仕方ないかと肩を落とす。
「だったら、馬鹿なことは言うんじゃない。それよりも、帰るぞ」
頭を抱えながら座り込んで、いつもの紅が混じった玄色の瞳をウルウルさせて見上げて来る小鳥にサッサと立つように半蔵が言うと。
「う~、ハンゾーくんがレデーなコトリちゃんに冷たい」
そんなことを言って小さな手を差し出して来るので、仕方なくそっとその柔らかな手を握って引っ張り上げて立たせてやる。
「ほら、今日は天気も良いから、また海の見える公園に行くんだろ?」
「わわっ、ホントだ。じゃあ――って、あれ? 私の靴って、こんなにピカピカだったっけ?」
昇降口の外から射し込む茜色の夕陽を見て嬉しそうに声をあげるが、取り出したローファーが買ったばかりのように磨き上げられていたので目を丸くしてしまう。
しまった、靴擦れしないと良いけど、などと明後日の方向の心配をしながらも自分も上履きから学校指定のローファーに履き替えた半蔵がヒョイヒョイと手を振る。
「日が暮れてしまう前に帰るぞ」
「わわ~っ、待ってぇ~。あれ、いつもの履き慣れた感じがしないけど――まあ、いっか?」
片方のローファーを履いてみて違和感に気がついた小鳥が、もう片方を覗き込むが中には確かに自分の字で「ことり」とひらがなで書いてあるので、気にすることを諦めたみたいだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「~~~~~~~~~~~~」
学校帰りの途中、海の見える公園の小高い丘の上に来て、綺麗な茜色に染まった夕暮れ時の海に向かって小鳥が歌を唄っている。
海から吹いて来る風が心地よく、そう言えばもうすぐ6月になるので衣替えの季節か、などと思い出しながらも半蔵はボンヤリと耳を傾ける。
今はすぐ隣に半蔵がいるので、公園に集まっている他の子供連れの母親達や同年代のカップル達がこっちを見ることは無い。
小鳥が唄っているのは作詞作曲共に彼女の完全オリジナル曲で、しかも歌詞は誰も聞いたことの無い言語で詩われている。
しかし、その歌声とメロディは聴く人の心を捕らえて離すことはない。
半蔵と共に丘の上に佇む小鳥に視線を向ける者はいないが、その歌声だけは海風に乗ってそこかしこに届けられるので、公園にいる人達はみんなが幸せそうに笑顔を浮かべていた。
伴奏も無くアカペラで、しかも歌詞は何を詩っているのか意味すら分からなくても、聴く人の心に深くまで響くのだった。
だから小鳥の唄を聞き慣れているはずの半蔵までが、うっかりするとちょっと前までの昔のことを思い出して涙が零れそうになってしまう。
そんな歌姫ディーヴァの小さな小鳥と誰からも見向きもされない透明人間の半蔵の二人だけが、海の見える公園の丘の上で茜色に輝く空と海に挟まれた世界で立ち尽くしていた。