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 大きな駅まではあと九分。こんな車内じゃ、その九分すらも緩慢に進む。

 実結ちゃんの隣、窓側の席に座る男の子の表情は、恐怖から緊張へ少しずつ変わっていったように、傍らに立つ私には感じられた。

「翔馬くんの得意教科はなんですか」

「算数」

「そうですか。凄いですね。わたし、小学生の頃は算数が苦手だったんです。割り算の筆算でよく間違えてたんですよ」

「こないだ百点取った」

「凄いです! たくさん勉強したんですね」

 男の子は頷いた。

 実結ちゃんはずっとこんな調子だ。騒がしい集団に関しては一切話題に出さず、学校のことや、好きなテレビ番組、昨日のご飯、まるで関係のない話題で男の子から恐怖を取り除いていく。

 少しでも紛らわそうと無理矢理な会話をしているといった様子ではなく、実結ちゃんと男の子の間に交わされる言葉のやり取りは、とても自然な本当の姉弟のようで、状況が状況でなければさぞ微笑ましい光景だっただろうと思うと、残念でならない。

 絶えず続く若い荒々しさが、暴力的なまでに鼓膜の繊細な部分を痛めつけてくる。憤りよりは、やはり私にも恐怖があった。

 乗客のイヤホンもしくはヘッドホンの使用率の高さに驚く。普段なら使わないような人も、今日に関しては積極的なのだろう。

 実結ちゃんはそんな環境であっても、絹糸のような髪を乱したりはしない。平静さを常に持ち、男の子の目をまっすぐ見つめながら、時に小さな手で男の子の方に手を置く。

 彼女の手のひらの温かさは、男の子の心を優しく温めていることだろう。

 緊張も恐怖も解いていく彼女の声と仕草と表情が、尖った空気を、なだらかな坂を滑るように穏やかなものへと落ちつけていき、実結ちゃんと私と男の子の間でそれは共有されているようだった。

 時間の感覚に惑わされなければ、十分弱などあっという間のこと。

 景色が流れていく様を見るだけの余裕も出来た。

 車内にアナウンスが響き渡る。内容は聞こえなかったが、大方、数分と待たずに到着することを知らせてくれているのだろう。乗客の安堵がサラリーマン風の男性のため息からも受け取れた。

「お姉ちゃんも降りる?」男の子が尋ねた。

「いえ、わたしたちはもう一つ先の駅なんです」

 男の子は寂しそうな顔をする。たった数分でかなりの懐きようだ。

「ちなみに、翔馬くんはどちらにいかれるんですか?」

 列車が駅に着き、あの騒がしかった若者と、多くの乗客が一斉に降りていく。男の子も立ち上がって外に向かいながら、一度振り返り、こう答えた。

「お見舞い。おじいちゃんに、お菓子と着替えを持って行くの」

「そうでしたか」

「うん」

 可愛らしく「ばいばい」と手を振る男の子。実結ちゃんも「ばいばい」と振り返す。

 思わぬ出会いに、必然の別れ。

 空いた席に座ると、実結ちゃんの目には薄っすらと涙。

 彼女にとっては、僅かな出会いも特別。きっとそういうことなのだろう。

 ドアが閉まった。男の子の背中は、もう見えない。ゆっくり走りだす列車は、十数秒間新幹線と並走していた。

「外れていましたね、予想」

「そういえばそうだったね」

 実結ちゃんは、あの男の子の冒険を、祖父母の家に泊まりに行く、と考えていたが、ニアピンとでもいうべきか、目的地は病院で、リュックサックの着替えは男の子の物ではなくおじいちゃんの物だった。

 完璧に見えた実結ちゃんも間違えることはあるのだと知った。

「まあ、ちょっと良かったかも」

 実結ちゃんは首を傾げた。

「いや、ちょっとね、人間味があっていいなあって」

「人間味、ですか?」

「困った男の子を助ける、とかさ。そういう所で完璧過ぎると、私なんかじゃ手が届かない気がしない?」

「そ、そんな、完璧だなんて。わたしは、少しでも翔馬くんの不安を取り除いてあげたかっただけですし、それに、探偵さん役はもう懲りてますから」

 まーた謙遜して、と軽く肘で突くと、実結ちゃんは恥ずかしそうに笑った。白い肌に可愛さが光る。

 走りだして四分。早くも次の駅に到着するアナウンス。私たちの目的地だ。

「さ、降りよ」

「ええ。色々あった車内でしたが、翔馬くんとお話も出来ましたし、とても有意義な移動時間でしたね」

「あんなにうるさい人達いたのに?」

「結果オーライというものです。幸せな出会いがあれば、それはもう素敵で満足いく一日になりますから」

「ちょっとちょっと、お買い物はこれからだからね。ここで終わってもらっちゃ困るよ!」

「あはは、そうでした。バウムクーヘン楽しみです!」

「うん! まあ、ここから少し地下鉄にも乗るけどね」

 大人びた、それでいて可愛らしい実結ちゃんと、二人きりのお出掛け。

 日曜日を彩る旅。

『せっかくの日曜にバイトを入れた自分の愚行を恥じる』とまで言っていた麗奈に、少しだけ自慢をしてやろうか、と思い、地下鉄に乗ってデパートに着いた所で、実結ちゃんと写真を撮り、麗奈の携帯に送った。

『残念でしたっ』と、いたずらっ子っぽく一言添えて。

 自慢なのか当てつけなのか。もはや自分でも分からないけれど、楽しいことには変わりない。

 あわよくば、こういう関係でいられる未来を、と、心から望みながら。

 女の子の休日を謳歌する、そんな一日。

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