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柚木は更に幾つかの隔壁を経て、暗い小部屋に足を踏み入れた。急造のためネットワークや電源の配線が床を這い、壁際にある三つのコンピュータ・ラックに潜り込んでいる。
正面の机には、小さなソケットに収まる一つのビー玉がある。柚木は僅かに躊躇ったが、すぐにそれを手に取り、左腕を露出させスリーのソケットに填める。
そして椅子に座り目を閉じると、瞬時に柚木はスリーの作り出す仮想環境に入り込んでいた。夕日の差し込む埃っぽい廊下で、先に進むと半開きの扉がある。
天羽は普段通り、その部屋にいた。見慣れたパンツスーツを身にまとい、長い髪を首筋で結い、額を露わにしている。その下にある切れ長な瞳が柚木を認めると、長机に両肘を付いて両手を組んだ。
「久しぶりね。どう、あれから」
柚木はここのところ、ずっと心の奥底が麻痺しているような感覚を抱いていた。理由は幾つかあるが、最大なのは『自分が如何に無力な人間だったのか』を思い知ったからだった。
あの出来事があってから数年、予防局の局長という立場で、政府や外国と渡り合ってきた。組織を整理し効率化し、エグゾアによる被害の予防体制を完璧に作り上げた。いつしか柚木はそれを自分の力だと思い込み、天羽を封印しても何とかなるんじゃないかと考えた。
彼女のやり方は間違っている。何をするにしても人命を尊重し、倫理を守っていくやり方があるはず。
その信念が誤っているとは思えない。
しかし現実的かと問われると、わからなくなってきた。結局柚木が自信を持っていた自身の力というのは、柚木のことを知り抜いていた天羽が、出来る事をやらせていただけに過ぎなかったのだ。彼女のマスタープランに従っている限りは何の問題もなかったが、それを否定した途端、ありとあらゆる問題が噴出してきた。
新たな計画が必要だ。天羽がいなくとも上手く回る、より良い秩序を作るための計画が。
そうは思うものの、まるで思いつけずにいる。それ以前に天羽が制御していただろう勢力が活発に動き始め、その対処に追われている間に、最後には天羽自身からの反撃で行き詰まってしまった。
「私は見損ないましたよ、天羽さん」
力なく呟いた柚木に、彼女は薄い唇を大きく開けて笑った。
「見損なったから、私を封印したんじゃなかったの? 何を今更」
「それでも私は、貴方が無関係な人々を危険にさらすような事はしないだろうと。そこまで酷い人ではないだろうと、信じていた」
「ここで蕩々と私の持論を話してもいいけど、そんなのはもう聞き飽きたでしょう? それで? ご用件は?」
柚木は息苦しさのあまり、眉間に皺を寄せた。そして大きく息を吸い込み、ようやく言葉を発する。
「貴方を解放します。どうすれば良いですか」
けたたましく、天羽は笑った。そこからは既に柚木に対する親近感や、親愛の念は失せていた。
「良かった。貴方はあの久我って子に妙な信念を植え付けられてるんじゃないかと心配していたのよ。じゃあまず、輿水に連絡を取って。知ってるでしょう? PSI社の社長よ」
「彼はマーブルになりました。既にPSIは崩壊しています」
こうも簡単に嘘を吐ける人間になってしまったというのも、柚木が憂鬱になる理由の一つだった。天羽はそれを見抜くことが出来ず、大口を開いたまま硬直し、机に身を乗り出させた。
「――へぇ。案外、口先だけの男だったのね、彼も。それなら――このコードに連絡をして、私を引き取らせて」
差し出された紙片に書かれているのは、ダークネットの通話コードだった。眉間に皺を寄せて眺める柚木に、天羽は続けた。
「言っておくけど、無駄に相手を調べようとはしないで。貴方の手には負えない背景が、彼にはある」
「CIA、あるいは人民解放軍ですか」
「無駄に探らないで、と言っているの。貴方はただ、彼に私を渡してくれればいい」
柚木は麻痺しかけた頭を辛うじて回転させ、言った。
「その後はどうなります」
「十二時間後に次のエグゾアが発生するのは予測済み。場所は――都心ではないけれど、避難しなければ数百人の人命が失われる。それまでに私を彼に引き渡して。そうすればすぐ、予測を教える」
「十二時間後? 今すぐ教えてください。取引にどれだけ時間がかかるかわからない。危険すぎる」
「なら急ぐことね。そう、心配しないで。重力観測衛星のフィードを開けておいてもらえれば、解放された後でも予測はする。私も彼も、無駄に人命を失わせるのが目的じゃあない。それは貴方もわかっているでしょう?」
柚木は答えず、踵を返した。
漠然と、不思議だ、と思っていた。
きっと天羽は既に新たな計画を練り上げていて、この苦境から脱出しようとしているのだろう。柚木を廃し、再び予防局の実権を握り、以前同様自分の構想に向けて事態を統制する。
一方の自分は、どうだろう。あらゆる事態が混乱しているというのに、状況の把握すら出来ていない。
しかし、と思う。
不思議な事に、ここのところ様々な要素が次々と現れては繋がり、何かの形を成そうとしている。行き当たりばったりといえば、そうかもしれない。だが問題が起きる度に新たな知見が得られ、徐々にではあるが前に進んでいる感覚がする。
きっとこれは全て、あの久我の所為のだろう。
柚木は未だに彼のことが理解出来ずにいた。いや、最初は単細胞の労働者としてしか見ていなかった。単に力を持っているから、それを使えば良いだけだと。しかし次第に彼を知るに連れ、彼の暴走としか思えない行動に振り回されるに連れ、何かの特殊な人物だとしか思えなくなっていた。
彼には天羽とよく似た、冷酷な一面がある。だからこそ彼は強引に事の中心に入り込み、自身を誰も無視出来ない存在とし、事件の全貌を掴み取ることに何度も成功しているのだ。
しかし一方で彼は娘思いの優しい父親であり、柚木に近い倫理観も持っている。
とても両立の難しい、危ういバランスの上に成立している人格なのだろう。故に一時は邪魔者とされ、閑職に追いやられてしまった。だが今の彼は安定しているように見えるし、彼のおかげで様々な危険に対処できているのも確かだ。
だからひょっとしたら、全ての秘密――ラトビアでの出来事以降、柚木と天羽が見舞われた異常事態――を明かしたら、問題の解決に、より積極的に彼の力を借りられるかもしれない。
しかしそれが本当に必要な事なのか、柚木にはわからなかった。あの出来事については天羽とも真剣に話し合ったことはないし、彼女が誰かに話しているとも思えない。仮にそれが何者かに漏れていたなら、今以上に国際諜報機関が必死にインターセクションの謎を追おうとするに違いないからだ。
だが他に、何の手も思いつかない。
『知らずにいた方がいい? それって専制君主の台詞と同じだぞ。わかってるのか。あんたは超有能な独裁者か? 違うと思うなら、愚民の声も聞け。でないと重要な何かを見落とす事になるぞ』
まさに久我が言っていた通りだ。今の自分は無力で、一人では何も出来ない。だからこそ久我を信じ、全てを話すべきなのかもしれない。だいたいにしてミカミのような存在について、柚木は無知すぎた。
それでも迷いが残る。あのような事態を久我に話したとして、彼がどう反応するか心配だった。場合によってはそれが新たな混乱を生み出してしまう可能性も、十分にある。
どうしたものか。
胸の内で呟きながら仮想環境から離脱すると、柚木は天羽のマーブルを取り外してポケットに入れ、代わりに端末を取り出して操作を加えた。
ダークネットに接続し、コードを叩き、応答を待つ。
すぐに相手は応じてきた。
『これはこれは柚木さん。お話しできるのを心待ちにしていました』
よどみなく流れてくる文字列に嫌悪感を抱きつつ、柚木はキーを叩いた。
『私は貴方を知らないと思う』
『そのうち顔見知りになると思いますよ』
『マックスから輿水を引き取ったのも貴方ですか。一体目的は何なんですか』
『そう焦らないで。ご用件は天羽さんの件ですね。お迎えにあがります。時間と場所は――これでお願いします。せっかくだ、色々と話したいこともあります。邪魔が入るのも面倒だ、貴方一人で来てください』
送られてきた地図で、六時間後、新宿の雑踏のど真ん中を指定してきた。
大勢の酔客で混雑する時間帯だ。これでは警戒も確保も追跡も出来ない。
もう少し自由度がありそうな場所に変更できないかとキーを叩こうとしたが、既に回線は切れていた。




