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沙織は元々、外に出る、他人と会うのが好きではなかった。同級生たちからは腫れ物を触るような扱いしかされなかったし、何処に行くにも黒服の男たちがついてくる。ドラマのように賑やかなお店でハンバーガーを食べたかっただけなのに、着いてみると貸し切り状態になっていたりする。
次第に外の世界への憧れは失せ、自分の部屋で本ばかり読むようになっていた。別にそれでも、誰も何も言わなかった。欲しいものは守り役の男が買ってきてくれるし、ネットでもクレジットカードの限度額一杯まで使える。沢山の本やドラマ、それにネットから窺える外の世界から見れば、それが普通ではないとわかってはいた。しかしこの状況で何をどうすればいいのか、沙織にはわからなかった。
だが家には始終誰かしら来るし、顔を合わせれば九十度で礼をされ、思ってもいない世辞を言われる。特に苦手なのが、あの室井という男だ。いかにもインテリヤクザといった風の眼鏡にスーツの男で、胡散臭い笑みで沙織に接してくる。彼は地位のために沙織の関心を買おうとする意図が見え見えで、腹立ち紛れに無茶ぶりで応じることも多かった。あのアイドルと会いたいとか、この限定品が欲しいとか。しかしどんな難題を言い渡しても彼は何かしらの解決策を提示してくる。次第にこの男が空恐ろしくなってきて、彼の気配がしたら部屋から一歩も外に出ないようになっていた。
これじゃとても、普通にはなれそうもない。けれども彼らとは、距離を取りたい。一人になりたい。
次第にそれが、第一の望みとなっていた。
父親に直接、一人暮らしをしたい、と言っても、無視されるのはわかっていた。
だから沙織は守り役の男に、宣言した。一人暮らしをする、と。
彼は相当慌てたようだが、結局最後まで父親と直接、その事について話すことはなかった。ただ豊洲の高層マンションの最上階をあてがわれ、ようやく鍵というものを手にした。
これで自由だ。
思ったのもつかの間、赤星が現れた。
「お嬢さんをお守りする役を仰せつけられました。よろしくお願いいたします」
エレベーター直結のリビングにいたリーゼント風の髪をした男に宣言され、沙織は絶望と怒りを同時に感じ、遂に理性が完全に吹き飛んでいた。散々に彼を詰り、追い出そうとしたが、彼は父親から今までの守り役たちよりも強大な権力を与えられているようだった。ひっぱたこうとした沙織の手首を容赦なく掴み、背に回ってねじ上げる素振りさえ見せる。
「お立場を弁えてください」赤星は痛がる沙織をも無視し、言った。「お嬢さんは会長の娘さんでおられる。それはどう足掻いても変えようのない事実なんです。そこは諦めるのが得策でしょう。代わりに、現状を利用することに集中するべきです」
「何、勝手を言ってるんだよ! オマエに何がわかる!」
「私にわかるのは、お嬢さんより会長の方が恐ろしいということです。恐らく他の誰にとってもね。そう思っていないのは、日本人の中で、お嬢さんだけです」
あぁ、それが一番の問題か。
唐突に腑に落ち、沙織はその言葉を吐いた赤星を見直した。門番のようにエレベエータ前のリビングに居座られるのは、やはり嫌だ。けれども今までの守り役たちのように、ただ沙織の見張りを命じられた番犬のような馬鹿ではない。少なくとも自分が何者で、沙織が何者で、どういう状況で何をしなければならないのかは完璧に理解している。
しかし彼の言葉を反芻しているうちに、沙織はまた別の問題に気がついていた。
結局、彼にとっても。いや、今まで会った誰にとっても、自分が一番ではなかったのだ。一番は会長で、本当か嘘かわからないが、その人物が一番に思っているからという理由で、自分が尊重されているのだ。それ以外はない。つまり父親が存在するから自分が存在するのであり、彼が消えてなくなれば、沙織もまた、完璧に存在を失う。
急に恐ろしくなってきた。沙織はせいぜい、自分が父親から与えられているのは、働きもせず好きに物が買えて、四六時中本を読んでいられる権利程度の物だと思い込んでいた。
しかしそうではない。彼が消えれば、自分もまた、消える。
『お嬢さんは会長の娘さんでおられる。それはどう足掻いても変えようのない事実なんです。そこは諦めるのが得策でしょう。代わりに、現状を利用することに集中するべきです』
赤星の言葉が、二重の意味で重要になってきた。確かに自分は、あのろくに話したこともない男の娘であるという事実は変えられない。だが彼なしにでも存在できる何かは、今の状況でも作り出せるはず。
この頃沙織は、ヒーリングに凝っていた。不安やストレスが募り、よく眠れない日々が続いていた。そして熟睡できる方法を色々と試しているうちに、家の中で出来るアロマやストレッチ、ヨガ、整体といったものに自然と詳しくなっていた。
他に何も思いつかず、沙織は自然と、この分野のコミュニティーに顔を出すようにしはじめた。精油やヒーリングアイテムの自作なども始め、ネットに店舗も開いた。競争相手は数多いる。しかし幸いにして、開業してすぐに大手ホテルが年間契約を申し出てくれた。そこから個人の注文も多くなり、問屋も仕入れたいと言ってくる。ここまで来ると、もう外に出て顔を出すしかない。そこで沙織は赤星の存在を逆手に取ることにした。彼を忠実な社員として捉える事にしたのだ。
最初の言葉からしても、彼は頭の回る男だというのは確かだった。知識がないだけで、教えれば何でもそつなくこなす。そこを買われて新しい守り役とされたのだろう。彼を連れて企業や同業者を巡っている間にどんどん知識を仕入れ、すぐに仕事を任せられるようになる。次第に彼が本当に部下の営業のように思えてならなくなってきた。いつしか赤星は沙織をマンションに置いて一人で営業に出ることも多くなり、沙織はその隙に一人、自由に出歩く時間を満喫した。
そして次第に沙織は気づいてきた。この手の商売に手を出すのは、事情があり資金はあるが、普通の生活をおくれないという、沙織と同じような境遇の女性が多いのだと。
資産家、詐欺師、ヤクザ、政治家。そうした人々の、妻や愛人や令嬢だ。
あまり沙織は首を突っ込まないようにしていたが、自然と話は聞こえてくる。あの事件の裏は実はこうだとか、あの組織は誰それが反乱を起こそうとしているだとか。
その中には、最上組の名もあった。室井という幹部の一人が実に優秀で、暴力団対策法による締め付けで汲々としていた組織を、企業体として再生しようとしていると。
あの男ならやりかねないな、と沙織が思っている脇で、赤星は渋い顔をしていた。
「室井さんは、やや得体が知れなすぎる所があって」後に彼は、そう言っていた。「凄いのは確かですが、腹の底で何を考えているのか。会長も心配されています」
「親父が心配、ね」沙織は複雑な感情が入り交じった苦笑いを浮かべた。「あの人は単に、神輿に乗ってるだけの保守派でしょ。何も変えたくない、触りたくないんだ」
自分への接し方からそう考えていたが、赤星は即座に否定した。
「そんなことはありません。会長は素晴らしい人格者です。捨てられた者を見過ごすことが出来ず、何かしらの仕事を与え、育ててくれます。だから今の地位にあるのが当然なんです」
「へぇ。私には全然、そうは思えないけど」
皮肉に言った沙織に、彼は数秒言葉を探してから答えた。
「会長はお嬢さんを大切に思われるあまり、自分は一切関わらないのが最良だと思われているのです。だからこうして、存在すら忘れたようにされている。そうすれば自然と『組織に縛られることのない自分の居場所』くらい見つけてくれるだろうと。そう、考えられた」
「本人が、そう言ってたのか?」
「いえ、さすがに自分では仰いませんが。私には会長の考えがわかります。会長の娘でありながら、自分の居場所を作る。それはとても難しいものだと私は思っていますが、会長はお嬢さんを信じられていたのです。結果、お嬢さんは実際に自分の居場所を築きつつある。私はそれは、とても素晴らしいことだと思っています」
「ふん。それも親子愛の一つの形だって言いたいのか? どうだかね。じゃあ赤星、おまえは何なんだ? 組織から離れては生きられないと親父に思われてる。だから私の守り役をさせられてる。そういうことか?」
捉え方の難しい言葉にあえて茶化してみせたが、彼は真剣な面持ちのまま答えた。
「いえ。私は会長に拾われた恩を返したいだけです。そしてお嬢さんにも」
「私に? あたしがあんたに、何をした」
「新しい仕事をくださいました。正直、自分にこんな仕事が出来るとは、思いもしませんでした。物を仕入れて、手を入れて、宣伝をして――ごく普通の、誰かの役に立つだろう仕事――」
「普通に素養、あると思っただけだけどな」
「いえ、私のような半端物、そもそもそうした仕事に就くこと自体が無理で――」そこで不意に気づいたように、彼は恥ずかしげに頭を振った。「とにかく感謝していますが、私が守り役なのには変わりありません。あまり好き勝手に出歩かれるのは困ると、前々から――特に最近はクラブとか行かれてる。知っていますよ。あの店は我々の縄張りで、報告が上がってきます」
知らなかった。舌打ちしつつ、言い訳を考える。
「営業の一環だよ。大口の相手だよ? 誘われたら断れないじゃん」
赤星の監視が緩んでいると思い込み、調子に乗りすぎてしまったらしい。彼からは散々小言を言われたが、当時はあまり真剣でない様子なのは確かだった。
しかしそれも、室井の噂を聞く頻度が多くなるにつれて、変わってきた。赤星の小言は次第に厳しくなってきて、沙織も気配を察して少し自重する。
それ以上、何が出来ただろう? 少なくとも仕事は順調で、沙織は忙しく楽しく毎日を過ごしていた。何の異変もなかった。
だが日常の崩壊は、唐突に起きた。




