第八話 遭遇
喫茶店を出て現場に足を向けると、徐行で久我を追い越そうとしていた車がクラクションを鳴らした。
無意識に目を向けて、驚く。後部座席から、柚木局長が顔を出していた。
「久我くん、乗って」
黒ずくめの、如何にもといった高級車。仕方がなくその広々とした後部座席に乗り込むと、彼は運転手に行き先を指示してから、久我に左手を差し出した。
クソッ、どうやって監視していた?
久我は知らぬふりをして、同じく左手を差し出して握手する。すぐに柚木は苦笑いし、丸眼鏡の奥に愛嬌のある表情を浮かべながら云った。
「そうじゃない。キミが手にしたのは、犯罪の証拠品だ」
「誰の犯罪です。オレの?」
「キミは我々の捜査活動に協力し、囮となっただけに過ぎない。実際キミが彼女に渡したのは、何の価値も機密性もない書類なんだからね。だがキミがそれを手にし続けていれば、収賄に問われることになる」
久我はため息を吐きつつ、懐から札束の入った封筒を取り出し、柚木の手に叩きつけるようにして渡す。彼はそれを車のサイドボックスに収めると、膝の上で手を組み、正面に目を向けた。
「さて、彼らは間もなく、〈異物〉を搬出しようとするだろう。キミにも是非、立ち会ってもらいたい」
「何でです。オレの仕事は終わりでしょう」
「何を云ってるんだ。ここの現場監督はキミだろう? 後々似たような事が起きる可能性もある。以後、キミには、こうした事態も制御してもらわなければならない」
「そんなの聞いてない」
ため息混じりに呟いた久我に、柚木は膝に置いたファイルを広げようとした。
「そう云われるだろうと思って、職務規約を持ってきた。読むかい?」
「結構」
車は間もなく、半壊したクォンタム湯島オフィス別館を一望出来る場所に停まった。柚木は膝の上にノートパソコンを開いてカチャカチャいわせはじめ、完全に持久戦の構えだ。久我も仕方なしに窓の外を眺めたり、携帯で協力会社とのメールのやりとりを行う。
そして二時間ほど経っただろうか、陽が陰り、街灯が灯り始めた頃、ふと柚木が顔を上げ、久我の肩を叩いた。
「出てきたぞ。アレだ」
辛うじて人影が見える。ラフな格好をした二人の男たちが、半壊しているビルの入り口から現れる。一人は手に大柄なジュラルミン・ケースを携え、軽く辺りを伺う。
すぐに二人の前には、見覚えのある車が滑り込んできた。濃紺のアルファ・ロメオ。涼夏の車だ。後部座席の扉が開かれた時、室内灯が灯る。運転席には、昼間見たままの涼夏の姿。そして助手席には、頭半分ほど低い少女の姿があった。
「なっ」
久我は思わず叫び、席から身を乗り出していた。恐らく学校帰りなのだろう、助手席の京香は大学付属小学校の制服を身に着けていて、後部座席に乗り込んでくる男たちに多少不安げな猫目を向けていた。
「あのバカ! どうしてこんなことに京香を巻き込む!」
云った久我に、柚木は困惑した風に云った。
「キミの娘さんか?」
「あ。あぁ」
ふむ、と彼は小さく唸り、パソコンの画面に目を落とした。
「確かに感心しないが、女手一つで子供を育てるのは大変だ。学校の送り迎え。夕食の準備。そして仕事。どれも疎かに出来ない。致し方がないだろう」
「ハッ! アイツがそんな殊勝なワケがない! 単に馬鹿なんだ!」
「とにかく」と、柚木はパソコンのキーを幾つか叩いた。「別に危険はないよ。包囲網は作成済みだ。警察の交通課との協力関係は構築しておいたから、以後はこの窓口を活用するといい」
矢継ぎ早に、久我の携帯宛てに幾つかのファイルが送られてくる。柚木はとにかく、ネットワークの活用に関しては局内でも積極派だ。久我はどうにも、ネットワークは知らぬ間に監視されているようで好きになれなかったが、仕方がなくファイルを眺めてみる。
すると何かのアプリケーションに勝手に紐付けられていたのだろう、地図アプリが開き、こちらの車の位置、京香の車の位置、そして警察車両が待ち構えている位置がまたたく間に表示された。
ゆっくりと進み始める車両。それは不忍通りから春日通りに合流すると、西に向かう。柚木は、ふむ、と小さく唸り、丸眼鏡の奥の円な瞳で地図を眺めた。
「品川のクォンタム本社に向かうと思っていたが、違うようだ。何処に向かってる?」耳に装着していた小型ヘッドセットを叩き、何処かに声を送る。「あぁ、私だ。一号車はそのまま追跡、二号と三号は護国寺方面に先回りしてくれ」
「何をしてるんです。さっさと確保したらいいじゃないですか」
云った久我に、柚木は慌ただしくキーを叩きながら応じた。
「いや。彼らが〈異物〉を何処に運ぼうとしているのかを知りたい。そこに彼らの研究拠点があるはずだ。そこもこれを期に捜索したいからね」
何か、嫌な感じがする。
涼夏の車は、無数の車が行き来する通りから、ふと左折して二車線の路地に入っていく。それを目で追いながら、久我は眉間に皺を寄せつつキーを叩き続けている柚木に云った。
「局長、アレにはオレの娘が乗ってるんです。あんまり追い込むのは止めてください」
「わかってる。しかし何も危険なことは」
「ですが」
渋く久我が反論しかけた時、久我の意識は、不意に一時停止した。
目の前を緩やかに走っていた涼夏の車。その横腹に、まるで狙いすましたかのように、一台のワゴン車が突っ込んできたのだ。
それはほんの、一瞬の出来事だった。
あっ、と思った時には既に、黒いワゴン車はアルファ・ロメオに突き刺さり、そのまま鈍い金属音、そしてタイヤの軋む音を立てながら、人通りのない歩道を乗り上げ、諸共ビルの壁面に激突していた。
目の前の出来事に、運転手は素早く速度を緩め、路肩に停車させる。
柚木は口を中途半端に開け放ち、まるで何が起きているのか理解できていないようだった。一方の久我は無意識に扉を開き、路上に駆け出す。
ワゴン車とビルの壁面に挟まれている涼夏のアルファ・ロメオ。頑丈な車だ、殆ど潰れてはいなかったが、車内にある人影は項垂れ、鈍い動きしかしていない。
そして黒塗りのワゴン車からは、一人の男が降り立っていた。
坊主頭で、がっしりとした体格の男。彼は灰色のロングコートを翻しながら潰された車に歩み寄ると、歪んだ後部ドアを、まるで剥ぎ取るようにして開け放つ。そして丸太のような腕を突っ込むと、ジュラルミン・ケースを抱えた運び屋の男を路上に引っ張り出し、転がした。
呻き、アスファルトに倒れ込みながら、辛うじて懐に手を突っ込む運び屋。そして彼は取り出した拳銃を坊主男に向けたが、その腕は一瞬のうちに、坊主男のブーツに踏み潰されていた。
悲鳴を上げる男。坊主男は大きな手を伸ばし、彼が抱えるジュラルミン・ケースを掴む。だがその取っ手は、運び屋の手首に手錠で繋がれていた。
僅かに、硬質な口元を歪める坊主男。
次いで起こった出来事。
坊主男が、軽く左腕を振る。
ただ、空を切っただけの太い腕。
しかしその瞬間、ジュラルミン・ケースに繋がれていた男は、パン、と弾ける音を発し、粉々に弾け飛んだ。
弾け飛んだ? そう、弾け飛んだとしか言い様がない。彼を構成していた血、骨、肉といったもの。そして上下のスーツまでもが粉々になり、辺りには赤黒い粒子が飛び散り、跡には何も、残らなかった。
いや、辛うじて残された物もある。空の手錠。そしてジュラルミン・ケース。坊主男はそれを徐ろに拾い上げ、ゆっくりとした足取りでワゴン車に戻る。
車はバックし、当然のように進路を変え、何事もなかったかのように走り去る。
その一部始終が終わるまで、久我は完全に棒立ちし、何もすることが出来なかった。