第一話 須藤彰
久我が災害予防局の食堂でトレイを手に並んでいると、珍しい人物が隣に立った。
柚木だ。
「一体、何事だ」
驚いて尋ねると、彼は眼鏡の奥の瞳を久我からそらしつつ、食券を厨房に差し出す。
「何がだね。私にも食堂を使う権利はある」
「いやしかし。アンタは高そうなとこに外食に行くか、高そうな仕出し弁当を頼むのが普通だろ。こんな下々の者が食うような代物はお口に合わないんじゃないかと」
「高ければいいという訳ではない。安くても良い物はある。ただ確率的にいって価格が高くても売れている物にはそれだけの品質があるというのを認めている人物が多いということで」
きっと調理師は柚木の顔を知らなかったのだろう。煮物が乱暴に置かれ、勢い余って汁がトレイに垂れる。
まるで汚物を見るかのように渋面を作る柚木に、久我は言った。
「災害予防局へようこそ」
予防局の人員は千名弱だ。周囲に飲食店も少ないことから昼時の食堂は混雑するのが常だったが、さすがに前局長の柚木と彼の最重要パートナーが席を確保すると、近くに座る局員はいなかった。久我はテーブルを広々と使って肘をつき、悠々とカレーを口に運ぶ。
「っていうか、アンタは今日は何処かに行くんじゃなかったのか? だからオレも朝から書類整理してたってのに」
柚木は恐る恐る、煮物の中身を箸で探りつつ答える。
「それが、相手方の都合が付かなくなってしまってね。予定が狂って、ここで食事する以外になくなってしまった」
「へぇ。アンタの予定を潰すだなんて、一体どんなお偉いさんだ?」
「彼だ」
天井から吊り下げられているテレビを、顎で指し示す。白髪で痩せた男が会見場に座り、フラッシュを浴びていた。テロップにはこう記されている。
『ノーベル物理学賞に須藤氏 重力波の検出に貢献』
驚きスプーンを取り落としそうになっている久我に対し、柚木は酷く不機嫌な様子だった。いつも以上に杓子定規に説明を加える。
「東京大学名誉教授の須藤彰。レーザー干渉計による重力波観測への貢献により、今年のノーベル物理学賞を受賞した。さすがにノーベル賞相手ではどうにもならないよ」
「重力」エグゾアのキーワードとして、度々登場する。「アンタの専門も重力だったな。エグゾアも重力観測衛星での観測結果から、次回の発生位置を推定する」
「その通り」
「この須藤ってオッサンは、予防局と何か関係があるのか」
「直接の関係はない。だが間接的にはある。彼は私の兄弟子だ」
そこで意を決したかのように、大根か何かを口に含む。そう悪い味ではなかったらしい。何度か頷きながら口を動かす柚木に、久我は問いを重ねた。
「アンタの兄弟子ってことは、天羽とも関係があるのか」
この辺の事になると、途端に柚木の口は重くなる。食事を飲み下し、それでも数秒考え、やっと答える。
「深い関係はないね。私と天羽さんは〈先生〉の元に留まって研究を続けたが、須藤さんは早い段階で我々から離れた」
「一方が国家機密。いや世界的な機密に関わる研究の主導権を握り、もう一方がノーベル賞。どっちが良かったのかね」
「さぁね。その答えは差し控えさせていただく」
「しかしそんな相手に何の用があったんだ? 天羽の件と関わりが?」
謎の異物〈レッド〉により、柚木の先輩であり協力者でもあった天羽は情報生命体と化してしまった。彼女はそれからも柚木に寄生し、予防局では立場上難しい違法な活動を裏で仕切っていたという。しかしその危険かつ非人道的な活動を見過ごせなくなり、柚木は彼女を封印した。そう、久我は聞いている。結果として予防局は彼女が制御していた裏社会とのパスを失うことになったらしいが、その影響が具体的にどういうものになるなのか、わからない。久我が危惧していた〈天羽の件〉とはその事だったが、柚木はただ小さく首をかしげ、曖昧に答えた。
「少し彼の知恵を借りたかったのは確かだ」
「それって?」黙り込む柚木に、久我は顔を歪めて見せた。「そりゃあ博士号すら取ってないオレに言っても無駄かもしれんがな、一人で抱え込むのは止せ」
「別に抱え込んでいるわけではない。ただお互いにするべき事がある今、無駄な情報で注意力を削がれるのは」
その時、宙づりされているテレビから悲鳴が響いた。
条件反射で見上げた久我と柚木は、緋色に染まっている会見場を目にすることになった。
炎だ。まるで急に火炎放射器の斉射を浴びせかけられたかのように、会場は一面が炎に包まれていた。カメラは揺れ、火だるまになった人物が転げ回る。
二人が何も言えずにいる間に画面はスタジオに切り替わり、青い顔をしたアナウンサーが何とか場をフォローしようとしている。久我と柚木はすぐに立ち上がり、食事そのままに駆け出していた。




