第十四話 捕食
五つの〈ヴォイド〉が統合されることによって開かれただろう、〈次元の扉〉。柚木はその向こうから何が現れるかわからない扉を数十分間も開かせ続ける代わりに、一度に巨大な門を作らせるよう手を加えた。結果として〈ヴォイド〉は一瞬でそのエネルギーを使い果たし、門は僅か数ナノ秒だけ開かれ、閉じた。
そう、数ナノ秒。ほんの一瞬。だがその間、そしてその後に起きるだろう現象は、柚木はある程度予測していた。そして現実は、その通りに動いた。核サイロの地下に鎮座していた〈巨大ヴォイド〉を中心として、ごっそりと〈こちら側〉と〈向こう側〉の空間が入れ替わる。
問題は〈向こう側〉に、どんな世界が広がっているのか、だ。
地球型の惑星なのか? それともガス惑星? まさか恒星表面だなんてことはないだろうが、そんな場所であったとしたら、柚木たちも無事で済むとは思えない。
だから柚木は〈消失〉が起きた瞬間に織原を抱えていたが、突如として起きた突風、もうもうとした霧、急激な温度低下によって、柚木は〈向こう側〉に何があったかを悟った。
「真空?」
叫んだはず、だった。しかし次の瞬間、柚木は織原ごと、身体を強烈な風に持っていかれていた。上下がわからなくなり、身体に衝撃があり、耳がおかしくなる程の轟音が一帯を包む。
ようやく重力が感じられる。身体は堅い地面に叩きつけられ、ゴロゴロと転がされる。息が詰まり、あらゆる鋭角なものが服を裂く。
どれほど、その混乱は続いただろう。ふと意識を取り戻し目を開くと、辺り一面は灰色に包まれていた。
朦朧としつつ起きあがろうとすると、地に付いた手には金属質な何かが突き刺さった。悲鳴を上げて手を除ける。急に体勢を変えたせいか、首に激痛が走り、右足が痙攣した。
脊椎を痛めたらしい。押さえた手には血がべっとりと付く。それでもなんとか、無理矢理に立ち上がった。辺りは未だに深い霧に包まれていて、荒く吐く息が煙る。足下は一面が金属質な礫に覆われていた。尖った金属、沸騰して破裂したような金属。そんな、まるで鉱滓のような地面。所々は高熱でくすぶり、弾け、独特の金属質の臭いが漂っている。
これは何だ。地獄か。
朦朧としつつ、辺りを見渡す。これほどの惨状は予想していなかった。霧で視界が効かないが、核サイロを中心として半径数百メートルはこの異常に襲われたらしい。
次第に耳鳴りが収まってくる。ひゅうひゅうという冷たい風音。ごうごうとした上空の音。辺りの大気が不安定になっているらしく、チリチリパチパチとした空電のような音が響く。
そして、無数のうめき声、叫び声。
どれだけの作業員が被害にあったのか。眼鏡が弾け飛んでいて、その姿を確認することが出来ない。
そして柚木はようやく、織原の姿が見えないことに気が付いた。
「み、美鈴さん!」
無意識に叫び見渡そうとすると、再び首に激痛が走った。これではまるで動かせない。それでも鉱滓の上に足を進めると、霧が流れていく方向に、黒い影が浮かび上がってきた。
次第に、その姿が明らかになってくる。柚木は息苦しくなり、まるでまともに息が出来なくなってきた。
「まさか。そんな」
呟く。
〈ヴォイド〉だ。そのサイズは小さくなってはいたが、未だに直径三メートルほどの黒々とした〈穴〉が、そこに存在していた。
加えて、蠢いている。以前は黒々とした球体、穴のようにしか見えなかったそれは、今ではまるで前衛芸術のオブジェか何かのようにグニャグニャと歪み、時折触手のような腕を伸ばしている。
そしてその前に、織原が横たわっていた。外套が切り裂かれ赤いドレスを露わにし、額からは血の筋が垂れている。
柚木は彼女の名を叫びつつ、クレーターのようになっている窪みに、それこそ転がるようにして降りていく。首が激しく痛み、右足がまるで云うことを聞かない。それでもなんとか織原の側に倒れ込むと、鼓動を、脈を確かめる。
そして、大きく息を吐いた。生きている。外傷もなさそうだし、きっと気を失っているだけだろう。
「柚木くん! 美鈴ちゃん!」
頭上から天羽の声が響いたが、顔を向けることも出来ない。ただ軽く片手を上げてみせた柚木の脇に、彼女はブーツの底で鉱滓を砕く音を響かせつつ、駆け寄ってきた。
「大丈夫? 怪我を?」
あまりの痛みに、苦笑いするので精一杯だった。
「これを」そう、辛うじて目の前にある、触手を四方に伸ばす暗黒を指し示す。「不完全だった。完璧には消しされなかった。それに何か、加えられた衝撃でスイッチが入ったようだ」
天羽は渋い表情でそれを眺め、軽く頭を振った。
「今はいい。それより医者に」
彼女が云った時、不意に目の前に暗黒が過ぎった。
何だ?
思った時には既に、目の前から織原の姿が消えていた。
さぁっ、と過ぎる、赤いドレス。
暗黒から延びた触手が彼女を捕らえ、自らの中に、取り込んでいた。
◇ ◇ ◇
「美鈴さん!」
叫び、身を捩らせた瞬間、首に酷い痛みが走った。
だが先ほどまで感じていた痛みと、性質が違う。傷ついた制御できない痛みから、整えられ、抑制された痛みに変わっている。
それで柚木は全てを理解した。
夢だ。
いや、追憶と云った方が正しいか。やはり目の前には無精ひげの男の影が見え、度の高いレンズのはまった眼鏡を、頭に差し込んでくる。
あぁ、と、柚木は息を吐いて見せるしかなかった。
手を貸され、呻きながら立ち上がる。
腕のスリーからは、オリジナルの一つを除き、全てのレンズが取り外されている。そして傍らに目を向ければ、相変わらず、あの時のまま、〈ヴォイド〉が触手を四方に伸ばし、蠢いている。
しばらく、黙り込んだまま、それを眺める二人。そして久我は不意に大きく息を吸って、相変わらずの、どうということもない、といった調子で云った。
「首は大丈夫か?」
柚木は僅かに手をあて、調子を確かめた。
「あぁ。たぶん」
「悪かった。アンタから余計な〈マーブル〉を外すには、締め落とすしかなかった」
「いや」云って、柚木は渋そうな表情を浮かべている彼に向き合った。「謝らなければならないのは、私の方だ。キミを、非常な危機に巻き込んでしまった」
「巻き込んだ?」怪訝そうに彼は呟き、首を傾げた。「確かにな。だがオレたちはみんな、運命の囚われ人だ。善人でも苦労するヤツはいるし、悪人でも幸せなヤツもいる」
「あぁ。不思議な事に」
呟いた時、久我は片手を差し出してきた。
その上には、五つの小さなビー玉。〈マーブル〉が乗せられていた。
「これは、必要なのか?」
僅かに怒りを込め、尋ねる久我。柚木は正直に答えた。
「必要だ」
「どうして! こいつらは。少なくとも、こん中の二つは、アンタの身体を乗っ取ったんだぞ!」
「油断していた。もう二度と、こんな事は起こさせない」重ねて問いかけた久我を遮り、自らの眼鏡を指し示した。「私は彼らのために、スリーの機能の大半を犠牲にしていた。たとえば視力や聴覚の増強といった、情報戦型の基本機能。それを私は、彼女たちを最大限駆動させるための回路に回していたんだ。でも、それはもう、止めにする」
実際、柚木はすぐにスリーの駆動パラメータを変更していた。すぐに眼鏡があわなくなり、外してポケットに納める。それを渋そうに眺めていた久我は、大きくため息を吐き、腕を組みつつ〈ヴォイド〉に視線を向けた。
「自分で云っといて何だが、ヤツを。天羽を動かさないと、何が不味い」
「世界中の裏社会とのパスが失われる。それこそ最上やPSIといった連中。それにクォンタムのような倫理の働かない大企業。正直、予防局の力で彼らに〈異物〉が渡らないよう、完璧に監視することは不可能だった。そこで彼女はこれまで、そうした連中に過度な力が渡らないよう、上手く制御していた」
「いろいろな取引で?」
「あぁ」
「つまり、敵が余計、ヤバくなる」
苦々しく呟いた久我に、柚木は何も云えなかった。
再び、黙ったまま〈ヴォイド〉を眺める二人。
そして不意に久我は柚木の手を取ると、その中に五つの〈マーブル〉を押し込み、踵を返した。
「何処に行く」
尋ねた柚木に、久我は振り向きもせず云った。
「疲れた。帰る。明日までには、予防局を元に戻しておけよ?」
「あ、あぁ」そして慌てて、指し示した。「この階からは、そのエレベータで出られる」
カツカツと足音を響かせ、エレベータで上層に向かう久我。
相変わらず、よくわからない所がある男だ。この状況で、〈ヴォイド〉についても、天羽との過去についても、何も尋ねず去るとは。
しかしそれは彼が、柚木のことを信用している証なのかもしれない。いや、あえて彼はそうして、柚木にそれを押しつけようとしているのかも。
とにかく柚木は手の内の四つの〈マーブル〉をスリーに納め、残る一つを、〈ヴォイド〉の監視コンソールに備え付けられているソケットに填めた。
途端、ディスプレイが息を吹き返し、その向こうにポリゴンで形作られた天羽の顔が浮かんだ。
『やられたわ』
楽しげに云う彼女。柚木は彼女を見つめ、云った。
「貴方をもう、スリーに装着するつもりはありません。貴方はこれから永遠に、この狭いコンピュータの中で駆動するしかない。電話回線、インターネット回線とも完全に切り離します。貴方が呼び出せるのは、重力監視衛星のインターフェイス、そしてスリーの量子通信機能だけです」
『そして私は完全に、次のエグゾア発生地点を予測する計算を続けるだけの、災害予防システムの一部になるってこと』
「えぇ。それが貴方の責任だ」
『私の、責任? どうかしら。エグゾアの発生地点を予測するための計算式は、私の頭の中にしかないのよ? こんな待遇で、私がストライキを起こさないとでも?』
久我には云えなかったが、それが柚木にとって、天羽に対する最大のネックだった。
だが、いつまでも。この関係を続けていられない。
「厭ならば構いません。私が自分で、その数式を編み出します」
『そんなことが、可能かしら』踵を返した柚木に、彼女は叫び声を上げた。『それに美鈴ちゃんを取り戻すには、私の力が必要よ、必ずね!』
エレベータに乗り込んだ柚木は、振り返りつつ、云った。
「彼女は死んでいます」
閉じていくエレベータの扉。
むしろ柚木は、そう望んでいた。




