第十三話 消失
三つ目、四つ目の〈ヴォイド片〉が統合され、残るは一つという状況になった。核サイロの底に鎮座する〈巨大ヴォイド〉は、直径五メートル程に膨張している。柚木の計算では質量は十トン近いものになっているはずだったが、今は測定器のリミットをオーバーしてしまい、実際の値は測定不能な状況だ。
一方、当初は完全な固体状だった外形には、奇妙な変化が現れていた。完全な球形の、真っ黒な穴。それは今では、まるで何かの意志を持っているかのように、揺らぎ始めていた。巨大な粘性体、とでも例えられるだろうか。何かの波動を捕らえているのか、表面には時に波立ち、ざわざわと震える。柚木はそれを、体積が大きくなったことで、自らの外形を保っているフィールド的な物の効果が薄くなっているのではと考えていた。
つまりこれ以上大きくなると、フィールドが完全に崩壊し、次元の穴が現れる。
恐らく、そういう事なのだろう。
そして先ほど、ついに最後の〈ヴォイド片〉が実験場に現れた。運ぶトラックのサスペンションは見るからに沈んでおり、かなりの質量になっているのが窺える。
ここのところ、先生は常に繰病的な調子で活動を続けていた。核サイロ内の〈巨大ヴォイド〉の観察を続け、地上設備の点検を行い、ニコニコと笑みを絶やさない。
一方の天羽は、ずっと渋い表情を続けていた。トラックの荷台から現れた木箱。それを開梱して最後の〈ヴォイド片〉をクレーンに取り付けようと動き回る先生に、厳しい視線を投げている。そして彼女は傍らに寄った柚木に軽く目を向け、辺りに聞こえないように囁いた。
「云われた通りにしたけれど。本当に上手く行くと思ってるの」
柚木は黙り込み、苦々しく云った。
「わかりません。正直、仮定に仮定を重ねています」
「そう。でも私も、これ以上の手は思いつかない。賭けてみるしかない、か」
重々しく呟き、冷たく作業の様子を眺める天羽。それに対し柚木は、計画の中で最も心配している点を口にした。
「それよりも問題は、先生に止められないかです。もし先生が実験の停止を命じたら」
「それは私が、何とかするわ」
彼女はポケットから、片手を僅かに露わにした。
天羽は、拳銃を手にしている。慌てて真意を問いただそうとした柚木に、彼女は緊張した笑みを浮かべた。
「今は、それくらいのことを覚悟しなければならない状況よ。貴方もそう、考えて」
柚木が反論しかけた時、クレーン装置が轟音を立て始めた。
すぐに先生の傍に駆けていく天羽。
まったく、どうしてこんなことに。
そう酷い困惑に包まれたが、直後に柚木は全ての原因に思いが至っていた。
どうして、こんなことに?
「私があんな物を、見つけてしまったからだ」
アームに掴まれる最後の〈ヴォイド片〉。クレーンはそれを持ち上げようとしたが、その重さ故になかなか浮かび上がらない。僅かにアームがたわみ、ワイヤを巻き取るエンジンが轟音を立て始め、そしてようやく、〈ヴォイド片〉は地を離れた。
慎重に、核サイロの穴の上、四つの〈ヴォイド片〉が統合された〈巨大ヴォイド〉の直上に運ばれる。作業員たちは、まるで危険な事が起きようとしているとは思ってもいない。これでようやくワケのわからない仕事も終わりだ、といった様子で、辺りで雑談したりタバコを吸ったりしている。
仮に柚木の計画が失敗したなら、彼らはどうなる? 事は先生や天羽、それに織原だけの問題じゃあない。今、この区画には、何も知らない百人近い人員が働いている。このまま先生の計画が成し遂げられたとして、最悪のケースでは〈次元の穴〉は宇宙空間に繋がる。だがサイロの蓋はすぐにでも閉じられるようになっていて、異常は核サイロの中だけに留まるはずだ。一方で最良のシナリオとしては、開かれた〈次元の穴〉には何の害もなく、むしろ人類に計り知れない恩恵を届けてくれるかもしれない。
一方で、柚木と天羽の阻害計画。
それは確実に、この核サイロから半径数十メートルは消し飛ぶ。まかり間違えば、被害者が出るかも知れない。
果たしてそんな危険な計画を、実施していいのか?
ゆっくりと、吊り下げられはじめる〈ヴォイド片〉。仮設テントでは先生がモニターにかじり付き、無線でクレーンの操縦士に指示を送っている。
そして〈ヴォイド片〉が核サイロの中に姿を消した時、地下モニターの中に鎮座する〈巨大ヴォイド〉は、ふわり、と揺らいだ。まるで上に誰かが座る、バランスボールのようだ。最後の〈ヴォイド片〉が近づくにつれ、その歪みは大きくなっていく。強大な力に押しつぶされ、その反動で縦に延び、再び押しつぶされる。その波動というべき現象は、まさに柚木が望んでいた物だ。このままでは〈巨大ヴォイド〉は単に最後の〈ヴォイド片〉を飲み込み、最大で二倍程度のサイズに膨張し、それがそのまま〈次元の扉〉へと変化するはず。だがこの収縮現象を加速させれば、〈巨大ヴォイド〉はエネルギーを持て余し、一度に破裂してしまうはず。
その現象を引き起こすスイッチを、天羽は手にしていた。
柚木は彼女に瞳を向けられ、困惑する。モニターの向こうで起きている現象は、明らかに既存の科学を凌駕している。物理学研究の最先端である高エネルギー加速器では、目に見えない粒子を衝突させ、目に見えない超微少な痕跡を膨大なセンサーを使って観測する。それでようやく発見される物すら、何らかの現象を示唆する影の影、という具合だ。だというのに柚木の目の前では、それがしっかりと、目に見える形で進行している。物理学者として、これほどの機会は二度とない。それにこの先生の無謀とも思える実験を最後まで続ければ、ひょっとしたら人類には新たな変革が訪れる事になるかもしれない。歴史的なんて物じゃあない、人類史の中に最初に刻み込まれる、偉大なる実験になるかもしれない。
だというのに。
これほどの機会は、もう二度と、人類には訪れないかもしれないのに。
それを、私は、潰そうとしている?
「いい?」
天羽が、待ちきれない、というように尋ねる。
柚木は困惑し、答えられなかった。
「どうしたの? まだ?」
重ねて問われ、柚木はようやく、声を発した。
「わかりません」
「え? 何が?」
「わからなくなりました。本当にこの実験、潰していいのでしょうか」
大きく、目と、口を開け放つ天羽。
「柚木クン、何を今更」
「しかし、天羽さん、わかるでしょう、この実験の意義が。これほどの機会は、もう二度と訪れないかもしれない」
「何を云ってるの! 人類が滅亡してしまうかもしれないのよ?」
「それは先生が、まだ何か考えてるかもしれない」
「馬鹿云わないで! あの人は確かに天才だけど、人類の事なんて。いえ、他人の事なんて、微塵も考えてない!」
「本当に、そうなんでしょうか。先生は先生なりに、簡単に教えてはためにならないと。私たちのためにやっているのかも」
「まさか! 貴方は先生の事を、まるでわかってない!」そう、瞬きもせずにモニターを凝視している先生を指し示す。「あの人は、ただの子供よ! 好奇心で虫を殺す子供と、何の違いも」
その時、天羽が手にしていたスイッチは、突然奪い取られた。
織原美鈴だ。
彼女は天羽と柚木が言い争っているのに、我慢ならなくなったのだろう。不意な出来事に当惑する二人に装置を掲げて見せ、呆れた様子で云った。
「これを入れればいいの?」
問われ、柚木は頷いた。
「あ。あぁ」
パチン、と彼女の細くて長い指が、スイッチを入れた。
途端、モニターの中のアームに掴まれた〈ヴォイド片〉が揺れ始めた。柚木の発案に従って、〈巨大ヴォイド〉の固有重力周波数と同期するよう、天羽がクレーンのアームに細工をしていたのだ。
ぐわん、ぐわんと、ロボットアームは上下に揺れ始める。それに掴まれている最後の〈ヴォイド片〉は、辺りに特定の周波を持った重力波を浴びせかける。それを受けた〈巨大ヴォイド〉は、押しつぶされ、縦に延びるという動きを大きくしていた。明らかにこれまでにない現象に、先生は半ば口を開け放ち、鋭く無線機で操縦士に指示を送っている。
だが、スイッチを入れられた時点で、クレーン装置の手動操作は切られている。結果として制御不能との回答を受け、先生は困惑した様子でモニターを見つめた。
先生のこんな表情、見たことがない。
そう固唾を飲んで見守る天羽と柚木に、先生はすぐ、たどり着いていた。
「キミらの仕業か」
不意に、何事もないように云われ、二人は刃でも突きつけられたかのような圧力を感じた。それでもすぐに、天羽は一歩、足を踏み出させた。
「えぇ。こんな実験、馬鹿げてます。この〈ヴォイド〉を生み出したのが何者かもわからないのに、〈次元の扉〉を開こうだなんて。無責任にも程があります」
「無責任?」
柚木も気力を振り絞り、天羽の隣に並んだ。
「私の計算では、すぐに〈巨大ヴォイド〉は共振破壊されるはずです。それでもう、全ては終わりです」
先生はニヤリと笑い、目を伏せ、頭を振り、呆れたように呟いた。
「これだから、馬鹿には関わりたくないんだ、ボクは」
それは、彼にしてみれば柚木も天羽も馬鹿なのだろう。だがそれでも研究者としての道を歩んでいた二人にとっては、人生が頭から徹底的に否定されたといってよかった。
それで柚木と天羽は、小走りにテントから駆けだしていった先生を止める事が出来なかった。
数秒後、高速で限界まで押しつぶされ、引き延ばされた〈巨大ヴォイド〉は、周囲の空間に異常を及ぼし始めていた。
パチン、パチンと空間が音を鳴らす。すっかり意志を失ってしまった柚木と天羽がテントの外に出た時、先生を乗せた核サイロエレベータの扉が閉じようとしていた。空電は激しくなり、辺りの森の鳥たちが一斉に飛び立つ。
そしてそれは、訪れた。
核サイロを中心として、一度に空間が、消え去った。




