第十話 ヴォイド
先生は、ミサイル格納庫の隣にある狭い部屋の中にいた。元は通信室か何からしかったが、今は無用な機器は取り払われ、大きな机の上に様々な資料が積み上げられている。
先生が机上に広げ、真剣な眼差しで眺めているのは、柚木が先ほどまで眺めていた物。北欧一帯の重力分布図だった。左手で顎髭を撫でつつ、右手に鉛筆を持ち、考え込み、何かを書き付け、また考え込む。
「先生」
声をかけた柚木を、やはり先生は片手を上げて遮る。そして僅かな思案の後、ばっと地図に何本かの線を引き、柚木に目を向けた。
「まだいたの」
悪意がないのはわかるが、このように云われると、やはり気後れする。それでも柚木は事の重大さを思い出し、自らを奮わせた。
「すいません先生。ですがやはりこの実験、すぐに中止するべきです」例によって冷笑を浮かべただけで図面に意識を戻そうとする先生に、一歩歩み寄った。「聞いてください。あの〈異物〉は、ひょっとしたらただの〈残響〉なのかもしれません」
その言葉に、先生は驚くべき反応を見せた。真剣な表情で、柚木を見つめたのだ。
彼は常に、他人を幼稚園児か何かのように考え、あやすような、あるいは小馬鹿にしたような笑みを向けていた。だというのに今は初めて真顔を柚木に向け、軽く首を傾げて見せる。
「続けて?」
云われ、柚木は戸惑ったが、それでも織原に軽く背を押され、先生が広げていた図面の前に立つ。
「いいですか?」尋ねると、先生は鉛筆を差し出してきた。「私が見つけた、五カ所の重力異常。この重力分布図からではわかりませんが、それぞれの地点からは、数十年、あるいは数百年に及んで重力波が放射され続け、周囲の地盤に影響を与えてきました」
五カ所のポイントを中心として、柚木はざっとした感覚で波紋を描いていく。
「こんな具合です。それが所々で共鳴し、北欧一帯にこの不可思議な重力分布を作り上げた。この重力異常は年々蓄積しており、重力分布もまた、変化し続けていました。もしこの重力波を発している原因が、先生と天羽さんの見つけた〈異物〉なのだとしたら、それを取り去ったことにより、重力分布は変化しなくなるか、あるいは通常の地殻変動の影響のみになるはずです。ところが重力分布は未だに変動し続けている。それはつまり、ここ一帯の重力異常を作り上げている重力波の原因は、あの〈異物〉にはないということ。ご存じのように重力というのは、超弦理論では高次元からの放射があり得るものだとされています。つまりこの重力異常を作り上げている重力波は、我々が知覚出来ていない、高位の次元から」
柚木は次第に、自分が酷く馬鹿な話をしていることに気づいてきた。
自分が滔々と説明する内容。それを裏付けた理論や計算。その全てがまるで柚木の意識をなぞるかのようにして、目の前の図面に、既に記されていたのだ。
つまり、先生は、既に柚木と同じ結論に、たどり着いていた?
「どうしたの? 続けて?」
口ごもった柚木に、促す先生。柚木は軽く彼を眺めたが、注がれ続ける真剣な瞳に逆らえなくなった。
「ですが。つまり。そういうことです。重力異常の原因は、あの〈異物〉ではない。原因は、〈何者か〉が、高位の次元から、この次元の地球上のあの五地点に対し、重力波を送り続けているからです」
「その目的は?」
「その、目的は」
甘かった。柚木は単に、〈異物〉はその重力波によって保たれている存在だ、としか推理していなかった。その先については曖昧なまま、こうして不意な試験の場に臨んでしまった。
そう、これは試験だ。恐らく柚木にとって初めて臨む、最難関の試験。
「その、目的は」柚木は繰り返し、軽く唇を嘗めた。「目的は」
わからない。前提としてあるのは、〈この次元の、あの五地点だけに、あのような重力波が発生する可能性など、自然では考えられない〉という事。かといってそのようなことを、人類が行えるはずもない。だとしてそれを行っているのは、超科学を持った異星人なのか。それとも別次元の知的存在。あるいはそれはひょっとして〈神〉と呼ばれるような存在なのか。とにかく途端に話が超然としてきて、とても推理なんて行えない。
そう、犯人がわからないのだ。その目的を考える事なんて、とても。
だが先生は、既にそこに、考えが至っている。
相変わらずこの人の思考は、まるで読めない。一体どうやったら、そんな異星人だか異次元人の目的を推理できるのか。
「いや」
不意に柚木は、目の前で起きつつある事に、目が覚まされた気がした。
扉の外。地上に続くロケット格納庫の上から、木箱に厳重に梱包された物が降ろされてくる。作業員たちが慎重にそれを受け取り、開梱すると、問題の黒々とした〈何か〉、〈異物〉が姿を現した。
「そうだ、結果だけを見れば、なんてことはない」呟き、柚木は鋭い視線を向け続けている先生を見つめた。「私の推理の、全くの逆だ。〈何者か〉は、〈異物〉を、この次元に作り出そうとしていた?」
そうとしか考えられない。どのような法則によるのかは、恐らく考えてもわからないだろう。だが〈何者か〉が延々と送り続けてきた重力波により、この次元、この世界に、次第に五つの〈異物〉が形作られてきた。
「ですが、一体何のために? あの〈異物〉が何なのか、先生はご存じなんですか」
ふっ、と先生は顔面から力を抜き、再び普段通りの、子供を眺めるような笑みを浮かべていた。
「なんだ、わかってなかったの。じゃあ考えて」
傍らの軍手を手にし、部屋を出ていく先生。
「待ってください! 教えてください!」柚木は我慢ならず、彼の小さな背中に駆け寄った。「私の推理では、あの物体は〈ヴォイド〉だ。ゼロです。あらゆる意味で、数理的な意味も込めて、ゼロです」
「ゼロなのに、丸くて、形があって、重さがあるの?」
「形はあくまで、〈この次元が存在するから、そう見えているだけ〉の投影にすぎません。ドーナツの穴です。だから私は、アレは〈残響〉なのかと。ですが重さについては」
呆れたように、先生はため息を吐いた。
「さっき自分で云ってたじゃない。でも〈ヴォイド〉って名前はいいね。気に入った。これからアレは、そう呼ぼう」
自分で云っていた? 私は何を云っていた?
酷く緊張していて、まるで何も覚えていない。だが必死に自分の思考過程を逆に辿っているうちに、ようやく先生が指摘した点に気が付いた。
「そうか、この〈ヴォイド〉を形作っている物。それは重力そのものなのか」
「その通り。もし重力を固定できるとしたら。それはどんな物になるか?」
「そんな事が可能とは思えない。いや、思えませんが」それでも、あるとしたら。「確かに、こんな物になるかも」
であるならば、〈ヴォイド〉が近づくにつれて重くなる理由も、それとなく推理出来る。重力は距離の二乗に比例して減衰する。これは重力が、他の高位次元に逃げているからだと解釈されている。だからもしこの〈ヴォイド〉が本当に重力物体なのだとしたら、これは高次元が、この次元に露出している物だという見方が出来る。
そして〈ヴォイド〉近づくということは、露出した高位次元同士が近づくということであり、本来の重力を〈取り戻している〉という解釈も成り立つ。
だが。
「ですが、仮にそれが本当だったとして。この五つの〈ヴォイド〉を統合する事によって、何が起きるんですか?」
勢い込んで尋ねた柚木に、先生は例の笑みを浮かべつつ、肩越しに答えた。
「それが、〈彼ら〉の目的でしょ」
はっとして、柚木は思わず、先生の肩を掴んだ。
「〈彼ら〉は重力波をこの次元に投射することにより、〈ヴォイド〉を作り上げた」
「そうだね」
「今の〈ヴォイド〉はこのサイズですが、もし我々が気づかず、更に何十年、何百年と放置されていたなら」
言葉を詰めた柚木に、先生はようやく振り向いた。
「そう、いずれ別の〈プレーン〉に繋がっていただろうね」
別のプレーン。
宇宙の成り立ちを説明する理論の一つであるプレーン宇宙論によれば、我々の存在する四次元空間は膜のようなものであり、その膜はいくつも重なり合っているとする。つまり我々のこの宇宙とはまた別の宇宙が、目に見えない壁の向こうには無数に存在しているというのだ。
その壁を行き来できる唯一の存在が、重力。
「では先生は、五つの〈ヴォイド〉を統合することで。次元の穴が開くのを、早めようというのですか」
声を震わせながら云った柚木に、先生は髭を撫でつつ、にやりとした。
「そう。〈彼ら〉よりも先にね。相手が誰か、見たくない?」
この人は、狂ってる。
柚木には、そうとしか思えなかった。
「先生! そろそろ初めていいですか!」
工員頭らしいロシア人の男が叫ぶ。既に一つ目の〈ヴォイド〉はミサイル台の中心に据えられ、見上げると次の〈ヴォイド〉が、地上から吊り下げられようとしていた。




