第十四話 見えない物
柚木がキャブコンで公園へと向かうと、久我は両手をポケットに突っ込みながら夜空を眺めていた。
果たして彼は、何を見たのか。
尋ねるのが恐ろしくもある。彼は車の音にクルリと振り向き、酷く疲れた様子でバックハッチを昇り、キャブコン内のベッドに座り込んだ。
「怪我を?」
血の滲んだ唇を見咎めて尋ねると、彼はようやく苦笑いして血を拭った。
「別になんて事はない」
そして再び、黙り込む久我。
これほど大人しい彼は、初めて見る。何かを考えているのか。あるいは起きた出来事を、未だ理解出来ずにいるのか。
「何があった」
尋ねた柚木に身を震わせ、彼は再び苦笑いした。
「柚木、アンタは知ってたんじゃないのか?」
「何を」
「オレの転落人生の始まりは、全部輿水の所為だったってことを」
わからず、柚木は言葉を探した。
「輿水氏の? 彼がキミを左遷した話ならば」
「違う。オレがシリアで殺した少女は、ヤツに操られていた。ヤツが戦争を始めたくて仕組んだ、自作自演だった。まだわからないか?」
自作、自演?
まるで何の話か、理解できなかった。
「待ってくれ。何の話だ。私は知らない。本当だ」
彼は苦笑いで、柚木を見つめる。
「ま、知ってても知らなくても、そう云うだろうな。ヤツは他人を遠隔操作出来る異物のドライバーだった。ヤツはそれを使って彼女を操り、自爆させようとした」馬鹿馬鹿しそうな笑みで、彼は深いため息を吐いた。「それでシリアに再び火の手が上がるのを望んだのさ。だってのにオレが余計な事をして、話をややこしくした。それで恨まれて左遷させられた」
柚木はその完璧に要約された説明で、ほぼ、事態を理解していた。
そう、恐らく彼が知らないだろう、更なる事の裏側まで。
「知らなかった。本当だ。それで、輿水氏はどうなった」
「マックスがヤツに、レッドを寄生させて連れ去った。ヤツはレッドがどういう働きをするのか、知りたいそうだ」
「何だって? キミはそれを、見逃したのか?」
彼は渋そうに口元を歪め、首を傾げた。
「ホントならオレが殺したい所だった」
「何を云ってる。それは彼はキミに酷いことをしたかもしれないが、だからといってマックスに引き渡すなんて。彼女が輿水氏に、一体何をすると思う?」
「柚木、ここで一つ、はっきりさせとこうじゃないか」久我は鋭く云って、柚木に身を乗り出させた。「悪いがオレは、アンタほど人間ってモノを信じていない。法とか、倫理とか、そんなモノもだ。仮にヤツを捕らえたとして、その後どうなる? 教えてくれ。海坊主はオレたちが捕らえてから、どうなった? ヤツだけじゃない。他の、無数のドライバー達は、どうなった?」
「異物内のエネルギーを全て放出させ、無害にした」
「それから? 今は何をしてる? 牢屋の中か?」黙り込んだ柚木に、彼は苦笑いする。「じゃあクォンタムのカメレオン装置は? アレは確か完成品は三個しかなくて、うち一個は涼夏が手にしてる。残る二つは、何処に行った?」
「政府の機密施設で厳重に保管されている」
「ハッ、嘘だな。一つは輿水が持っていた」
「何だって?」笑みを浮かべながら俯く久我に、柚木は慌てて言葉を重ねた。「本当だ! 私は全く、預かり知らない事だ!」
「じゃあ、誰なら知ってる?」
「それは」
「予防局は総務省の部局の一つだ。総務省の役人が、何か悪巧みしてるのか? だいたいマックスが手にしてた予防局の機密情報だって、どう考えても局内の誰かが盗み出したとしか思えない。誰だ? 一体誰が、輿水に便宜を図ってた?」
追い込まれた柚木は、ただ、頭を振るしかなかった。
「待ってくれ。少し、考えさせてくれ」
久我は僅かに黙り込み、腰を上げた。
「何でもいいが、その調子じゃあ、オレも身の振り方を考えさせてもらわなきゃならないぜ。医療型が京香を救う唯一の異物だって話しも、信じられなくなりそうだ」ため息をつきつつ、キャブコンを後にする久我。しかし彼はふと立ち止まり、振り返った。「云っておくがな、世の中には困ったときに飛んできてくれるヒーローなんて、存在しないんだ。じゃあどうする? 自分がヒーローになるしかない」
柚木は何かを思案しようとしたが、まるで何を考えていいのか、わからなくなっていた。そう、考える必要なんてない。事は全て、間違いなく〈彼女〉が仕組んだこと。
だが柚木には、彼女と対決する勇気が沸かなかった。確かに彼女が云うように、彼女と柚木は、コインの表裏のようなものだ。事を成し遂げるためには、柚木のようなやり方では時間がかかりすぎる。しかし一方で、彼女のようなやり方だけでは、敵を作りすぎる。
しかし、このままでは。
結局柚木は、あの廊下に来ていた。埃っぽい官舎の廊下。窓からは西日が射し込み、柚木の青白い顔を橙色に染めている。
建て付けの悪い扉を開くと、彼女はいつも通り、そこにいた。手元のファイルから顔を上げるなり、彼女は深いため息を吐き、口元を堅く結びながら椅子に腰掛ける柚木に対した。
「また随分、余計な事をしてくれたものね」
「余計な事?」さすがに頭に血が上り、柚木は机に拳を叩きつけた。「余計な事をしているのは、どちらです。天羽さん、貴方には予防局という手駒がありながら、どうして輿水のような輩まで利用していたんですか。一体いつから。SPI社自体、貴方の思惑で作られた会社なのですか?」
「そうよ。彼の事は昔から知ってたから。私の計画に共感してくれるだろうと思ってね。まぁ共感というか、彼の場合、妄信だけど。自分で国士とか云っちゃうような馬鹿だから、迫り来る危機を話しただけで一発だった」
「まさか、話したんですか? あの事を?」
「仕方がないじゃない。だって貴方、私の云うとおりに動いてくれないんだもの」
「なんですって?」
「わかってるでしょうに。私たちには、力が必要なのよ。可能な限りドライバーを集め、異物の力を分析し、シャードそのものを手中に収め、そして」
「そして? そしてどうしようというんです。世界征服でもするつもりですか」
「馬鹿云わないで。わかってるでしょう。このままでは、この世界は」
「どうなると云うんです! 何も起きないかも知れない。天羽さん、貴方のやっていることは、事態が起こりえる可能性に対し、過激すぎる!」
「でも、一度起きたら。終わりよ。違う?」口を噤む柚木。天羽は机に、身を乗り出させた。「いい加減、腹を決めて。私たちには使命がある。〈この世ならざるもの〉を見てしまった私たちには、それをする義務があるのよ」
天羽によって呼び起こされた記憶に、柚木は途端に目を覆った。まるで脳内で竜巻が起きているかのようだ。様々な映像、様々な音声。恐怖、困惑。
そして最後に現れた、赤いドレスを着た織原の、生気を失った瞳。
柚木は思わず頭を振り、両拳を机に叩きつけた。
「止してください!」そして瞳を上げ、冷たい表情をしている天羽を睨んだ。「とにかく、私には、私のやり方がある。貴方は今後一切、異物に関わる何事にも手出し無用です。でないと」
「でないと? 何? 私を消す?」
柚木は椅子から腰を上げ、部屋を出る。その背中に天羽は、高い声を投げつけてきた。
「私を消したら、事態は更に悪くなるのよ? よく考えて。貴方には、私が必要なの」
とても彼女の声を聞いているのに、耐えられなかった。柚木は自分をかき乱そうとする渦のような感情を必死で押さえ込みながら、足早に会議室を後にした。
◇ ◇ ◇
「頼む! 放してくれ、頼む!」暗がり。椅子に縛られた輿水は、脂汗を滴らせながら、必死に叫び声を上げていた。「オレは、行かなきゃならないんだ! 頼む! 何でもするから、放してくれ!」
マックスは輿水の必死に形相を眺めつつ、脇に控える赤星に尋ねた。
「どう思う。演技の可能性は?」
「ないように、思えますが」
ふむ、とマックスは唸り、輿水に顔を近づけた。
「何でもすると云ったね、輿水さん。ならレッドとは何か、話してくれないか。ざっと外見から、それらしい物はわかる。小さな棘があったりとかね。だが確実な判別方法がわからない。どうすれば目の前の異物が、確実にレッドだとわかる?」
「偏光だ」
「何?」
「何でもいい、波長500nmくらいのレーザーをレンズに入射してみろ。レッドなら波長が短い方に、ブルーなら長い方に変わる」
「なるほど、試してみよう。じゃあ次は、マーブルとは何か」
「マーブル? マーブル?」焦ったように繰り返し、彼は早口でまくし立てた。「マーブルは凝縮体だ! ヒトの! それでいいだろう!」
「待ってくれ。もう少し詳しく。ヒトの凝縮体? ソレって一体、どういう物なんだ」
「わからない婆だな! 凝縮体は凝縮体だ! 他にどんな説明が出来る!」あぁ、と輿水は激しく頭を振った。「とにかく、オレは行かなきゃならないんだ! 頼む! 行かせてくれ!」
「行かせてくれって。一体何処に行きたいんだ」
「チュニジアだ!」チュニジア、と首をかしげるマックスに、彼は縛られた椅子ごと身を跳ねさせた。「チュニジア! ナブールの北、十キロ!」
「そこに何がある」口を噤み、目を伏せ、必死に何かを堪えるよう、激しく身を震わせる輿水。「それを云ったら、貴方をチュニジアに連れて行こう。さぁ、どうぞ」
ブルブルと頬を震わせ、まるで恐れるよう、顔を上げ。
そしてマックスを見つめながら口を開こうとした瞬間、彼の腕に貼り付いていたレッドから、不意に何本もの棘、何本もの触手が飛び出した。
赤星に襟を引っ張られ、床に転がるマックス。そして二人が見つめる前で輿水は触手に包まれ、凝縮され、小さく、小さくなっていき。
そして最後には、小さな悲鳴らしき何かを残し、コロン、と床に転がり落ちた。
マーブル、だ。
話しには聞いていたが、実に恐ろしい。一人のヒトが、こんな小さな物体に凝縮されてしまうなんて。
「なるほど」そして、呟いた。「彼は何かを話しかけた。しかしそこで、レッドは発動した。つまり?」
赤星はマックスを引っ張り起こしながら、答えた。
「口封じ、ですね」
「あぁ、その通り。目的が達せられないと判断されると、レッドはドライバーをマーブルにする。しかしその目的がわからない。チュニジア? 一体そこに何がある」
「何が起きる、だと思いますが」
硬い表情で答えた赤星に、マックスは頷いた。
「そう、エグゾアか。しかしエグゾアに行って、何がしたい」とにかく事後策だ。マックスはパチンと手を叩き、赤星に指示した。「チュニジアでエグゾアが起きないか、監視していてくれ。あと我々が手にしている全ての異物にレーザーを。まだレッドが幾つかあれば、そう」
「格好のエグゾア探知機になるかもしれませんね。そして異物を、確保出来る」
すらり、とマックスは赤星に人差し指を向け、その指で床に転がるマーブルを拾い上げた。
◇ ◇ ◇
海だ。青い海、白い砂浜。
海水浴なんて、何十年ぶりレベルだ。京香は水上スキーで知り合った子供たちとあっという間に仲良くなって、一緒にビーチバレーに興じている。一方の久我は年と共に砂浜でハシャぐような若さも失ってしまっていて、ビーチベッドに寝ころびながらデジタル・パッドを弄っていた。
マックスから手に入れた、予防局の内部情報。
彼女が云っていたように、確かにそこにあったのは、ほぼ久我が既に知り得た情報しか記されていなかった。
目を引くのは、過去に予防局はクォンタム社と手を組み、人体実験をしていたということ。そして織原美鈴が、エグゾアの被害者名簿に記載されている事。それくらいだ。彼女がどのエグゾアで命を落としたのか、それに柚木がどう関わっていたのかは記されていない。
他には今までに発生したエグゾアが整理され、発見された異物、特にウェアラブル・デバイスのタイプについて記された情報もあったが、これもだいたい把握済み。かの〈インターセクション〉、あるいは〈シャード〉について記された部分がないか探してもみたが、これも何か既知の存在として記されているだけで、全体像は伺い知れない。
これでは、何もわからない。久我が知りたいのは、医療型を手に入れる最短ルートだ。しかし予防局も医療型は過去に一度確認したのみで、そのドライバーはエネルギーを使い尽くしてしまったらしい。
「レア物か」
呟き、パッドを下ろす。それはこれだけ様々な異物を相手にしつつも、一度も医療型のドライバーとは遭遇出来ていないのだ。柚木の情報戦型もレアだが、それ以上の物だ。
「柚木にかけたハッパが、効いてくれるといいが」
それだけが、今のところの望みだった。半年も彼とペアを組んできて、それは秘密主義な男だというのは理解している。だが最近は徐々に彼の性格も掴めてきて、そう嘘を吐くのが上手いヤツではないというのはわかってきた。
嘘は、わかる。
予防局は医療型を手にしていないという。それは本当だろう。
予防局は医療型が何処にあるのか、知らないという。それも本当らしい。
だが久我は、医療型のレア度を考えるに、ひょっとして医療型とは、柚木の情報戦型のように、何か特異な物ではないかと思い始めていた。
情報戦型には、レッドという特異な処理装置を経て生成されるマーブル、子機が存在する。その実体が何なのかはまだ不明だが、医療型についてもやはり、何か特異な過程が存在するため、その実体を掴むのが難しいのではないだろうか。
そう考えると、事は途端に難しくなる。異物とは何か。エグゾアとは。シャードとは。
それを知らない限り、医療型にたどり着くのは、酷く困難なのでは。
「せっかくビーチでのんびりしてるってのに。難しい顔しちゃって」
不意に声をかけられ、ビクリと身を震わせる。
いつの間にか、隣のビーチベッドに涼夏が寝ころんでいた。さすがに水着ではなかったが、タンクトップにショートパンツという少し無理がある格好。その手首にはやはり、銀色に輝くブレスレットが揺れていた。
「いい加減にしろ。オマエはイルカか。急に出てきてビックリさせんな」
苦々しく云った久我に、首を傾げる涼夏。
「イルカ? なにそれ」
「なんでもない。それよりここで何をしてる。オマエは確か」
そこで、彼女が暇そうにしている理由がわかり、黙り込む。だが彼女は容赦しなかった。
「貴方、私が無茶苦茶だって云ったけど。そっちが無茶苦茶じゃない。マックスと一緒にPSIの本社に乗り込んで半壊させたあげく、輿水を連れ去っちゃうなんて。よく逮捕されないものね?」
「仕方がないだろう! 無理矢理だったんだ。どうしろってんだ」
「どうもこうも、こっちはせっかくPSIからマックスを探ろうとしてたのに、おかげで完全にお手上げ」
「残念だったな。だがこっちは、色々収穫があった」ふぅん、と、久我が差し出したパッドを眺める涼夏。「ま、だいたい知ってたことだが。新しい発見が幾つかあった。しかし、どうもよくわからない点がある」
「何が?」
「マックスが云ってたんだよ。この資料は、目に見える物より〈ない〉物の方が重要だとか何とか。何かわかるか?」
涼夏は唸り、ペラペラとスライドさせて資料を眺めた。
「何かのトンチ? 印刷して日光にかざせば、何かが浮き上がるとか」
「そういう年を感じさせるネタは止せ」
苦笑いで云った久我に、彼女はパチンと指を鳴らした。
「あぁ、それ?」
「何だ」
「柚木さん。それに貴方。クォンタムの関係者。それに八重樫。色々名前はあるけれど、ない名前があるのよ」
「誰だ? オマエか?」
「違う。天羽智晶」
どこかで聞いた名だ。
そう記憶を探っていた久我に、涼夏は呆れた風に云った。
「予防局の、初代局長よ」あぁ、と声を上げる久我に、彼女は続けた。「彼女は予防局の立ち上げに関わった重要人物のはずでしょう? 何処かに名前があっていいはずなのに、一度も出てこない」
「つまり、意図的に消されてる?」
「そう考えるのが自然だけど」うぅん、と涼夏は唸り、久我にパッドを返してきた。「天羽の存在については、八木も不思議がってたわ。ホントに存在してたのかも怪しいって。確かに彼女が発表した論文は幾つか見つかってるらしいんだけど、予防局で何をしたのか、全然わからないみたい。何しろ局が出来た途端、辞めちゃってるし」
「オレも何度か名前を聞いたことがある程度だ」逆に不思議だ。局の創設者なら、その理念や何やらが語り継がれていてもいいというのに。「おい、オレもコイツを探ってみる。オマエも八木が何か知らないか、探ってみてくれ」
「わかった」
そして立ち上がり、背を向ける涼夏。久我は慌てて、彼女の背に云った。
「おい、京香に会ってかないのか?」
彼女は立ち止まり、僅かに振り向いた。
「いい。私、好かれてないし、あの娘に」
自覚しているとは思いもしなかった。久我は慌てて言葉を探す。
「いやぁ、んなことない。時々、お母さんは元気かなって」
「はいはい」云って、再び背を向けた。「じゃ、柚木さんによろしくね」
あぁ、と答える久我。すぐに涼夏の姿は見えなくなり、久我は再びパッドに目を落とした。
天羽、智晶。再びその名前を検索してみたが、やはり何処にもない。加えて久我が今までに集めた様々な情報をも探ってみたが、そちらにもゼロ。徹底的に隠滅されていると考えるのが自然だが、逆に不自然すぎるきらいもある。これほどまでに消去されていては、怪しむ人物が出てくるのが当然。証拠隠滅を計るならば、多少は無害な情報を残しておくのが常道だが。
そう考えていた久我の前に、小さな影が差した。見上げると京香が息を切らせながら立っていて、海辺の仲間たちを指し示している。
「ちょっとお父さん、一人帰っちゃって足りないの。入って?」
いやぁ、と気後れしたが、不意に柚木の言葉を思い出した。
「思い出はプライスレスってヤツか」
「何?」
「いや、なんでもない。何してるんだ?」
立ち上がって歩む間に、京香は何か酷く複雑なルールを説明する。どうやらただのビーチバレーではないらしい。苦笑いしながら何度か問い返していると、彼女は不意に立ち止まり、酷く苦しげに咳をし始めた。
「どうした。大丈夫か?」
「うん、みず、変なとこに入っちゃって」
慌てて飲み物を取りに戻り、駆け戻ってみると。
彼女は不意に顔を青白くし、口に当てていた手を、凝視していた。
血が、飛び散っていた。




