第四話 コンシェルジュ
ずるり、と崩れ落ちる八重樫。倒れ込んだ彼の身体からは、更に赤黒い液体が溢れてくる。
まるで、何が起きたのか。理解できない。
完全に混乱し、呆然とする久我。
そしてふと痛む右手に目を落とす。
あの、水色に透き通るガラス質の物体。そこからは、揺らぐ青白い光で出来た刃が、突き出していた。
どれだけの間、棒立ちしていただろう。気がつくと酷い寒気を感じる。いつの間にか手の甲から伸びていた刃は消え失せ、代わりに汗でぺったりと貼り付いた背中が冷え、今度は冷や汗に似た物が溢れ出してきた。
「不味い。何がなんだかわかんねぇけど、これは最高に不味い」
辛うじて呟き、久我はうつ伏せで倒れる八重樫の首筋に、震える指先を当てた。そんなことするまでもない。見ただけでも彼の腹は完全に貫かれ、手の施しようがないのは明らかだった。
それでも、まるで読み取れない鼓動に、久我は叫んでいた。
「クソッ! クソッ!」
そして朦朧としたまま、息を詰める。
部屋中の測定器だか何だかが、深い唸り声を発している。だがそれ以外は何も聞き取れず、辺りにこの異常事態は気づかれていないようだ。
だが、この死体を。どうする? このまま逃げても、オレが犯人だとバレないか?
「そうだ、〈異物〉の横流しは重罪だ。それがバレたら」
「いやいや、何云ってる! 殺人のほうが遥かにヤバいだろう!」
「パーカーのフードは被ってたし、誰かに見張られてないか、完璧にチェックしてた。オレがここに来てるのは、誰も知りようがない」
「待て待て、監視カメラは? このマンションにカメラはあったか?」
「ヤベェ。マジで。自首? 自首するか?」
「馬鹿な。冗談じゃない。これは事故だ」
「事故? あぁ、そうだ事故だ。クソッ! 自首なんてしたら、コイツが何なのか徹底的に調べられて。八重樫以上のマッド・サイエンティスト共に切り刻まれるに決まってる!」
「つか、何なんだ、コイツは!」
完全に混乱し、続けざまに独り言を発し。
そして最後に、そこに辿り着いた。
右手の甲。そこに埋め込まれた、水色のレンズ。
左手で、そっと、触れてみる。冷ややかな感触。固く、ガラスのようだ。
瞳を近づけ、それを縁取っている機械的な物に目を凝らそうとしたその時、不意に何処からか声が響いた。
『コイツは、多目的型ウェアラブル・デバイス六型。他のティップスを聞く?』
京香。京香の声だ。
慌てて辺りを見渡す。するといつの間にか、目の前に。京香が立ち竦んでいた。
そう、京香だ。あの夜と同じ、黒いショートパンツに、白いシャツ。ベストのようなものを羽織り、縞のニットソーを履いている。
そして相変わらず魅力的な、猫目。
まるで久我は声を発せなかった。ここに京香がいるはずがない。だが事実、目の前にいる。
「オレは、頭がどうかしちまったのか?」
呟いた時、京香は軽く首を傾げ、相変わらずなぶっきらぼうな口調で云った。
『診断。神経伝達物質、筋萎縮、異常反射はないよ。ちょっとアドレナリンが多くて心拍数が高いけれど、正常範囲内だと思う』突き刺さるような痛みに、顔を歪める。その様子を眺め、彼女は続けた。『頭痛は仕方がないよ。多目的型ウェアラブル・デバイス六型とインターフェイスした結果、必ず生じる副作用だから』
まるで彼女の云っている事が、理解できない。
それでも久我は震える手を伸ばし、彼女の細い髪に、触れようとする。
しかし、それは空振った。途端に混乱が増し、何度も彼女の、確かにそこに存在するが、触れられない身体を弄った。
「一体、どうなってる」
『何が?』
再び、首を傾げ、尋ねる京香。
久我はその姿をマジマジと見つめ、云った。
「オマエは、何だ」
京香の解答は、明確だった。
『私は、多目的型ウェアラブル・デバイス六型のコンシェルジュ。あなたが多目的型ウェアラブル・デバイス六型を活用するのを助けるのが、私の役目。理解できた?』
まるで久我には、理解できなかった。
待て。落ち着け、久我。
心の中で呟き、汗まみれの顔を両手で拭った。
どうなってる? どうしてここに京香がいる? しかもこの京香は、ワケのわからん事ばかり云う。これはオレの妄想か? いや、オレの妄想なら、京香はもっと京香らしいはずだ。つまりコイツは。
「オマエ、京香じゃないな!」
叫びつつ人差し指を向けた久我に、彼女は呆れた風にため息を吐き、細い両腕を組んだ。
『あなたは混乱してる。山田教官の授業を思い出して、平静さを取り戻して?』
云われた途端、すっ、と、久我の脳内が落ち着きを取り戻した。
山田教官。国防大学の心理学の講師だった。彼から教わった戦場での心理の制御法は、確かに久我の命を、何度も救っていたが。
しかしすぐ、再び混乱に包まれる。
「待て。どうしてオマエ、それを知ってる」
『それ?』
「山田教官だ。それにオレが、元軍人だった事も。オマエは一体、何なんだ」
『私は、多目的型ウェアラブル・デバイス六型のコンシェルジュ』
多目的、と呟き、久我ははっとして右手の甲に埋まった〈異物〉を見つめた。
「オマエは、コイツか?」
再び京香はため息を吐き、繰り返した。
『私は、多目的型ウェアラブル・デバイス六型のコンシェルジュ』
「コンシェルジュ」呟き、久我はパチンと、手を打ち合わせた。「わかった! オマエはWindowsのイルカちゃんだな? コイツの配線か何かがオレの頭の中にまで来てて、オマエが見えるよう、脳味噌に信号を送ってる? そしてオマエの役目は、コイツの使い方を説明すること」
『だいたい正しい。でも正確にはOfficeだね』
「どっちでもいい! じゃあ聞くことは一つだ。〈オマエの消し方〉」
『消えろ、って云えば。消えるよ?』
「じゃあ消えろ」
ふっ、と目の前から、京香の姿が掻き消えた。
久我は息を呑み、彼女がいた場所を手さぐりする。そして何の感触もないのに安堵したが、それでは何も解決しないことに気がついた。
「待て待て! 今のは嘘だ! 出てこい!」
僅かな揺らぎを発し、現れる京香。安堵のあまり久我は大きく息を吐いて、汗で濡れた頭を忙しなく掻いた。
「畜生! 何がどうなってる!」
『もう少し、具体的な質問にしてくれる?』
静かに、そしてぶっきらぼうに云われ、久我は両手を胸の前で合わせた。
そして自分が、まるで落ち着きなく歩き回っていたことに気づく。大きく深呼吸し、僅かに瞳を閉じる。
そして開いたが、まだ京香は、そこにいた。
「オーケー、いいだろう」久我は云って、真っ直ぐに京香を見つめた。「第一の質問。オマエは何だ?」口を開きかけた京香に、慌てて片手を振る。「いや、違う。オマエじゃない。この〈多目的型ウェアラブル・デバイス六型〉ってのは、何だ?」
彼女は久我の手の甲に埋まった〈異物〉に、軽く猫目を向けた。
『多目的型ウェアラブル・デバイス六型は、多目的ウェアラブル・デバイスの六型』
「オーケー、いい答えだ」苦々しく思いながら、頭を巡らせる。「じゃあ、多目的ウェアラブル・デバイスは、何のために作られた?」
『多目的だよ。何にでも使えるよ』
「例えば? 人殺しか?」
未だ、目の隅に転がる八重樫の亡骸。久我がその存在を忘れようとしつつ尋ねると、京香は僅かに首を傾げ、云った。
『それは機能的に可能だけれど、別にそれが主目的ではないよ。ナイフの用途が人殺しだけじゃないのと同じ』
「ハッ! 確かにな。けどオマエは、コイツを殺した。何でだ!」
感情の制御が、十分に出来ない。それで思わず叫んでしまうと、彼女は少し不平そうに口を尖らせた。
『だって、ブチ殺すって云ったじゃない』
「ブチ殺してやろうか、だ! ブチ殺す、じゃない!」
『私はその予備措置をしただけだよ。実際に殺したのは貴方』
「そんな屁理屈」
無駄だ。コイツは何か、マニュアル的な存在だ。
そう久我は頭を振り、切り替えた。
「わかった。じゃあ次の質問だ。そう、次の質問は、えっと」そして閃いた。「そうだ。この〈多目的何とか〉の外し方は?」
『貴方が死ねば、外れるよ』
畜生、なんて答えだ!
久我は歯を食いしばり、何度か足で床を踏みつけた。