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第八話 重力

 柚木はワークステーションのコンソールを前にして、じっと考え込み続けていた。


 ここ二、三日、ずっとそうだった。この研究所に就職してから、ずっと申請し続けてきた重力観測衛星の使用許可。それが五年目にしてようやく叶い、柚木は興奮と戸惑いを混ぜ合わせた極度の緊張のまま、衛星に探査アルゴリズムを投入し、測定結果の到着を待った。


 そして届いた、観測データ。


 柚木はまだ博士課程の学生だった頃から、地球の気候変動と重力異常の関係を考察していた。地球の気象は、気象観測衛星および高度に発達した流体力学、そして統計学のおかげで、かなりの精度を得るに至っている。しかしながらそれはせいぜい一週間の未来までしか予測出来ず、その先となると、かなりの誤差が生じる。まるで宛にならないと云っていい。


「予言と云うと、オカルトか何かだと思われそうだが」そう柚木は、学生相手の講義では必ず一度は云っていた。「科学の進歩は、最終的にはほぼ、正確な未来予測を可能とするために行われてきたといっていい。ボールを投げたらどこまで飛ぶか? 古典力学だ。液体ÅとBを混ぜたらどうなるか? 初期の化学だ。そうして我々は、未来を確実に予言する術を、徐々にではあるが手にしてきた」


 だが予言したい対象の複雑さ次第で、それは酷く困難になる。真空中の物体移動については、数ヶ月、数年先といったレベルで予言可能だ。そうやって人類は人工衛星を、月や火星、はては冥王星まで飛ばしている。しかし、人類にとってより身近であるはずの気象変動。あるいは人類自身の行動については、まるで先行きが見えない。


 そうした存在を、柚木は科学者の一人として許せなかった。そして柚木は予言の確実性を増させる、ほんの僅かな発見でもすることが、自分がこの人類に対して成し得る、唯一の仕事だと信じるようになった。


 たいした理由はない。ただ柚木は以前から、予言というものが楽しくてならなかった。ほんの僅かな知識、僅かな知見さえあれば、ヒトでも気象でも、その先行きをある程度予測出来る。まるで神にでもなったような気分になる。


 柚木も他の人々同様、大学を出て、研究室の職を得るため、様々な苦難に立ち向かわざるを得なかった。そして柚木も他の人々同様に、あの時あぁしていれば、こうしていればと考えることが多くなった。


 だが柚木が他の人々と違っていたのは、その頭脳だった。


 そう、今更過去は変えようがない。


 だがこれから訪れる未来を、より確実に予言出来るようになれば、こうした苦悩は少しでも減るんじゃないか?


 その程度の考えだった。しかし確実な予言を行う対象として、本来の目的である人間社会は複雑すぎた。だから柚木はまず、気象変動について取り組むことにした。


 気象の予言については、既に様々な試みがなされている。大気の流れを観測し、海流を測定し、太陽の状態をも観測する。


 だが、地球そのものの重力の影響については、あまり研究が進んでいなかった。それは重力は、大気や海流といった物よりも、気象に与える影響が酷く低いと考えられていたからだ。


 しかし、本格的な研究は、未だ少ない。


 だから柚木は重力の研究に集中し、その気象に与える影響を調べるべく、世界でも二基しかない重力観測衛星の使用許可を求め、長い長い順番待ちに並んでいたのだ。


 そしてその成果が、ようやく、目の前にある。


 だというのに柚木は、まるで困惑しどおしだった。


 結果を予測する時間は、十分すぎるほどあった。柚木は恐らく、氷床や地盤活動の影響によって生じる重力異常から、ある程度の気象影響を予測できると踏んでいた。


 しかし目の前のデータは、まるで別の面で、理解不能だった。


 測定の中心として選んだのは、北欧のフィヨルド地帯。そこでは氷河の崩壊による重力異常が、ある程度観測されるはずだった。


 確かに、それはそれで観測された。ある程度、予測通りの数値。


 だがそこには、別のデータも存在していた。波のような、渦のような。何かの規則性を思わせる、謎の重力異常分布だ。


「これは理屈に合わない」柚木はついに疲れ果て、言い放っていた。「可笑しい。あり得ない。氷河の崩壊による重力異常は、これほどの範囲、これほどの数値にはならないはずだ。つまりこの波のような重力異常は別の理由によるものだ。だが、それは何だ?」


「いい加減に帰ったら?」


 不意に研究ブースの外から声をかけられ、柚木は文字通り跳ね上がっていた。見上げた先にいたのは、研究室の先輩である天羽。彼女は既に身支度を整えていて、軽くウェーブのかかった真っ黒な髪を掻きあげ、パーティションに肘を付きつつ楽しげに柚木を見つめる。


「天羽さん」柚木は辛うじて云って、時計を眺め、不意に酷い疲れを感じで椅子に倒れ込んだ。「もう十九時か」


「そう。じっとデータを眺め続けて、もう十時間。何かわかったの?」


「それが、まるで理解できない。重力観測衛星の異常、解析プログラムのバグ。全て検討しました。だというのに、問題は何処にもないんです。つまりこの、波のような重力異常は。この時、この氷河周辺に、確かに存在していたとしか思えないんです。だが既知の理論では、このような現象は起こりえない。発生源が、仮にそんなものがあったとしてですが、それもまるで見当たらないんです。一体これは、どうなってるんだ」


「〈先生〉には。相談してみたの?」


 柚木は大きくため息を吐き、頭を振った。


「いえ。相談するにしても、何かいとぐちくらいは欲しくて」


「でないと、無能だと思われて放り出されると?」


 確かにその可能性を危惧していた。それで黙り込んだ柚木に対し、天羽は穏やかな笑みを浮かべた。


「先生は、そんなこと気にする人じゃないわ。重力の研究に関しては第一人者よ? そんな不思議な現象、喜ばれるに決まってる」


 しかし、と口を挟みかけた柚木。対する天羽はハンガーから柚木の背広を掴み、投げ渡してきた。


「ほらほら、そんな行き詰まったままデータ眺めてたって、何も出るはずないでしょう。軽く飲みにでも行きましょ?」


 確かに、それもそうかもしれない。


 柚木もそう思い、上着を羽織り、ネクタイの位置を直し、天羽の後を追った。


「そういえば天羽さん、今年度で離職なされると聞きました。なんでも政府機関に行かれるとか」


 夜の街を歩きつつ尋ねた柚木に、彼女は枯れた風な顔を僅かに歪めて見せた。


「私こそ、そろそろ研究者としては約立たずになる年だからね。管理職でも目指そうかと」


「そんなことはない。貴女は先生の右腕でしょう。貴女がいなくなったら、先生はさぞお困りに」


 と、不意に天羽は表情を曇らせ、口調を落とした。


「正直な話、先生についていけなくなって」まるで理解できずに黙り込んだ柚木に、彼女は苦笑いを向けた。「あの人は確かに天才よ? でも天才だけに、私には理解不能なことが多くて。ここのところの私は、好き勝手に動く先生の研究を維持するため、あちこちに頭を下げまわってる秘書みたいなもの。私がいなきゃ、研究費なんてとっくに底をついてるってのに。感謝の一つもない」


 確かに柚木も、そんな雰囲気は感じていた。それで黙り込んでいた柚木に、彼女は吹っ切れたような笑みを向けた。


「別に先生を嫌いになったワケじゃないけどね。これじゃあ私も先が見えないし。独り立ちしたくなって。どう? 柚木くん。あなたも、私と一緒に来ない?」


 天羽がいなくなると、研究所の先行きは確かに不透明になる。しかし先生が重力に関する研究の第一人者だというのには変わりなく、柚木は行き詰まった挙句、辛うじて答えた。


「考えさせてください」


「そう。まぁまだ時間はあるし、ゆっくり考えて」そして天羽は、一つの看板の前で立ち止まった。「ここ。どう? 今日、私の大学の後輩が出るの」


 ジャズバーらしかった。看板には手書きで、〈織原美鈴トリオ、NY凱旋ライブ!〉とあった。


 一時間後、柚木の脳内には、激しく叩き散らされるピアノの音が渦巻いていた。


 柚木は多少、音楽の心得はあった。ジャズピアノも多少は知っている。だがこのようなピアノは、今までに耳にしたことはなかった。赤いドレスを着た彼女は重い鍵盤を軽々と叩き、リズムなきリズムに乗るようにハイヒールの踵でリズムを取り、鋭くドラムやウッドベースのメンバーを指し、まるで理解できないタイミングでブレークする。その音律はあってなきが如くで、ともすれば適当に掻き鳴らしているだけなんじゃないかと思わせられる反面、ふと落ち着くと全てが繋がっていた。


 そうだ、まるであの、重力異常のようだ。


 そこでふと、柚木は閃いた。


 そうだ、あの重力異常データ。私はアレが、何かの機器の不具合、あるいは何か単一の現象によるものだと思い込んでいた。


 だが、実際は。このジャズトリオのように、幾つかの要素が絡み合い、結果として規則性を見せているだけなのでは?


「柚木くん? 柚木くん?」


 閃きに囚われ、柚木は必死に、頭の中で様々な数式を展開させていたのだろう。気がつくとライブは終わり、人々は暗がりの中、グラスを傾けあっていた。


 目の前の天羽は呆れた風にしつつ、こちらもいつの間にか現れていた隣の女性に、柚木を指し示して見せた。


「ごめん。変人。でも可愛い顔してるでしょ? これでもウチの期待のホープ」


 促された女性。赤いドレスの女性は、営業的な笑みを浮かべつつ、軽く柚木に頭を下げた。


「織原です。今日はありがとうございます」


 ハーフか何かなのだろうか。彫りの深い顔立ちだが、全体としては丸みがあり、声も優しげだ。柚木は先程の激しい演奏とのギャップに多少面白みを感じつつ、思わず半ば歓声を上げていた。


「こちらこそ! 貴女は私の、女神だ!」


 戸惑ったように顔を見合わせる、天羽と織原。


 そして織原が柚木に瞳を戻した瞬間、柚木は激しい頭痛を感じていた。


 途端、脳裏に描かれていた情景に、違和感を感じる。


 これは、夢か? 私は夢を見ているのか?


 意識した時、まるで上位空間からのような声が、耳元に響いてくる。


『柚木くん? 柚木くん?』


 天羽だ。あの時と同じ、天羽の声。


 だがそれはデジタルな歪を伴っていて、張りもやや、衰えている。


 そうだ、あれはもう、十年も前の事だ。今の私は災害予防局に勤めていて、そして今の状況は。


 再び訪れた頭痛。唸りながら頭を振って瞳を開けたが、全体がぼんやりしていて、まるで何処にいるのか、わからなかった。

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