第五話 拉致
柚木と組んで特務班の仕事を始め、もう二月になろうとしている。その間に様々な事があったが、危機に瀕するのは常に久我で、久我が柚木を心配しなければならない事態なんて起きなかった。捜査の基本的な方針を立てるのは彼で、久我はそれに口を挟んでいれば良かった。だからこうして一人放り出されてしまうと、途端に何をしていいのかわからなくなる。
だが、とにかく赤星が何者で、どうして久我たち特務班の情報を持っていて、どうして柚木を攫ったのか。それを調べなければならない。手がかりは今のところ、この、赤星の部屋だけだ。
「おい、イルカ」
予防局の人員が家宅捜索をするのを眺めつつ、久我は思い出してコンシェルジュを呼び出した。そしてぽんと脇に現れた彼女に、尋ねる。
「どうなってんだ。瞬間移動が出来る異物があるんなら、先に云っとけよ!」
『え? 知らないよそんなの。だいたい聞かれなかったし』
「オマエなぁ」基本的に、イルカは受け身だ。それが今回、致命的な問題に繋がってしまった。「とにかく教えろ。瞬間移動。どんな異物だ」
『だから云ってるでしょ。そんな機能のあるウェアラブル・デバイスなんて。知らないって』
久我は僅かに戸惑った。
「待てよ。知らないってのは、そもそもそんな異物、存在しないって話か?」
『知らない。存在しないのかもしれないし、私が知らないだけかもしれない。とにかくデータベース内には、そんな瞬間移動出来るようなウェアラブル・デバイスは存在しない』
一体、どういうことだ?
そう首を傾げていた時、予防局保安部主任である蝋山が近づいてきた。彼はイルカの存在に気づかず、彼女と重なるようにして久我の前に立った。
「ざっと調べましたが、金品の類はないですね。赤星は戻らない覚悟で、柚木さんを攫ったように思えます」
ふむ、と呟きつつ、久我は室内を眺める。コンクリートの床には円形にレンガやアスファルト、あるいは土が嵌った所が無数にあり、彼がその特異な異物の力を繰り返し用いているのは確かだった。
「しかし、テレポーテーション? それって本当なんですか」
渋い顔で尋ねる元歩兵の蝋山に、久我は頭を掻きながら応じた。
「テレポートってのは正確じゃない。じゃあ何と云えば正しいのかは知らんが。恐らくヤツは、自分を中心として半径一メートル半くらいの空間を、他の場所と〈入れ替える〉事が出来る。それも瞬時にだ」
「瞬時?」
「ヤツが路地に消えた数秒後に、オレも飛び込んだが。その時にはもう、ヤツの姿はなかった」
ふむ、と蝋山は唸り、困惑した風に云った。
「しかし、テレポーターを探すっていっても。どうしたらいいもんだか。監視カメラは役に立たないし、ここから群馬の山奥にでも飛ばれていたら、探しようがないですよ」
「いや、手がかりはある。この円形の〈入れ替わった〉床だ。この中のどれかが、柚木と共にヤツが飛んだ場所の物だ」
すぐ、蝋山はため息を吐いた。
「何十とある。それにアスファルトから、それが元あった場所なんて。探せるもんなんですか」
「知るか!」しかし、有力な手がかりの一つなのには違いない。「とにかく、この市内で〈入れ替わった〉所についてはデータがある。あとは全国の警察に、地面が入れ替わっているような現象が報告されていないか照会を。そいつを潰して、残った所をリスト化してくれ。コンクリやアスファルトは厳しいかもしれんが、土壌なら何か手がかりが得られるかもしれん。それと、そのパソコンの中には何か重要なデータがあるようなんだが。調べられるか?」
「エンジニアがざっと見ましたが、初期化されていて。復元を試みるそうですが、あまり期待はしないでくれと」舌打ちした久我に、蝋山はおずおずと云った。「しかし、赤星は柚木さんを攫って。どうしようっていうんでしょう。何か取引を持ちかけるつもりでしょうか」
それもわからない。
「とにかく、ここは任せる。重吉貿易には、誰が行ってる?」
「調査部が。古海女史です」
久我は赤星の家を出て、彼の務めていた会社、重吉極東貿易へと向かった。
柚木が攫われたのだ、もはや慎重を期している場合ではない。会社は既に異物取引容疑で強制捜査が行われていて、入り口は警察、そして予防局の車両に覆われ、大量のダンボールが運び出されているところだった。
陣頭指揮を取るのは、調査部の主任である古海。彼女は元特捜だか何だかの検事で、久我や蝋山と同じく、柚木にスカウトされた口だ。とにかくパリパリテキパキとした女性で、涼夏を彷彿とさせるが、暗さがない所が救いだ。その古海はグレーのスーツで足早に廊下を歩き、部下たちにあれこれと指示をしている所だった。
「よう」
云いつつ歩み寄っていった久我に、彼女は首筋で纏めた長い髪を揺らしながら振り向いた。身長は久我の頭一つ分低く、こちらを見上げる瞳は酷く苛立っている様子だった。
「よう、じゃないでしょ」と、三十そこそこなはずの彼女は、平気で久我にため口をきく。「柚木さんが攫われるなんて。久我さん何してたの」
「オレが悪いんじゃない。オレは逃げろって云ったのに、アイツが無視したんだ」
渋い顔で云った久我に、彼女は深く、これみよがしにため息を吐いて見せる。
「ったく、局長から降りたって云っても、結局、局は柚木さんで保ってるようなもんでしょ。これからどうなんの。私や久我さんみたいなフリーダムなの、柚木さんフィールドがなかったら、即効でクビになっちゃうよ。どうする?」
「どうする? じゃねぇよ。オマエと一緒にすんな」
「似たようなもんじゃん」反論しかけた久我に、彼女は不意に話題を変えた。「で、柚木さんって生きてんの?」
「わからん。とにかく赤星が何を企んでるか、情報が必要だ。何か出たか」
「まだ、これといって。やっぱ赤星ってのが異物の取引を仕切ってて、倉庫からは異物がザックザクみたいですけど、結局異物取引に関わってるような腐れ中小企業ですもん、就職の時の住民票すら見つかりません。あんま情報化されてなくて、紙ばっかだし。ったく、面倒くさい」
「愚痴んな。オマエこそ面倒くさい」そう、こう口を開く度に吐かれる愚痴こそ、彼女の特徴のようなものだ。「とにかく、なんでもいい。赤星がどんなヤツで、とか。この会社で何をやってたのか、とか」
「社長なら捕まえてるけど。話、聞きます? たいして役に立たないと思うけど」
促されてついていった先は、社長室らしかった。草臥れたオフィスエリアとは異なって、酷く成金趣味だった。赤い絨毯、豪華な木製の執務机。金色の小像。壁には様々な海図が、豪華な額縁に納められ、掲げられていた。
社長らしい男は、応接セットに身を小さくして座り込んでいた。五十くらいの痩せてインテリ風な男だったが、こちらもやはり、スーツにネクタイピンにカフスボタンと、全身に酷く金がかかっている。事前に聞いた話では創業二世らしく、特に実力があって社長になった男ではないらしい。
「ってことで」古海は唐突に言い放ちつつ、ソファーの角に腰を載せ、腕を組み、しおらしくしている社長を覗き込んだ。「重吉さん、さっきの話、もっかいしてもらえます?」
「さっきの?」
怯えた風に問い返した重吉社長。古海は軽く顎をしゃくり、久我に促した。
「赤星、って男だ」と、久我は彼の正面に座りつつ尋ねた。「異物の取引に関しては、ヤツが取り仕切っていた。そうか?」
「えぇ、はい、もう、何から何まで彼が」
「何から何まで赤星に押し付ける勢いやね」
冷笑しながら口を挟む古海。すぐに重吉は点頭し、目をパチパチさせた。
「いやいや、実際、彼が言い出したんですよ! 異物の取引は儲かるって。会社は倉庫を貸してくれればいいだけだって。後は自分で全部やるから、って!」
ふむ、と久我は古海と顔を見合わせ、社長に顔を戻した。
「とはいっても、オタクらの貨物船に異物を忍び込ませてたんだろ? 十分共犯だろ、それ」
「いやいや、無理です、そんなの無理!」首を傾げる久我に、彼は勢い込んで云った。「最近はテロだ何だ、北朝鮮の件もあるでしょ? 積み荷のチェックが厳しくて、そんな危ない事、出来ませんって!」
「じゃあ、異物はどうやって持ち込んだんだ」
「知りません? 全部、赤星がやったことです」
「どんなヤツだった」
「いやもう、とにかく胡散臭くて。やたらやる気アピールばかりで! 優秀な社員を演じるのが得意なヤツでしたよ。それで私も、コロッと騙された」
「給料は?」
「え?」
「給料だ」苛立って、久我は口調を強めた。「幾ら、ヤツにやってた」
「それは、だいたい。六百から七百くらいだったかと」そこで社長は、更に唾を飛ばし始めた。「いや、でも、異物の取引にしろ、私も良くわからなかったから。かなり上前を跳ねてたに違いないですよ! それくらい、するヤツです」
これは駄目だ。
そう思い、久我は早々に話を切り上げ、廊下に出る。途端に古海は口元を歪めて久我を見上げ、ほらね、というように首を傾げて見せた。
「ま、あんな風でさ。逃げ切る気、満々。たいして役に立たないでしょ?」
「とにかくオマエ、元検事だろ。何でもいい、赤星に関する情報を探せ。ヤツが行きそうな所、ヤツが隠し持ってる資産。それに友人関係。ネットの利用歴とか。得意だろ、そういうの」
「もう実家方面には下っ端を派遣してるけどね。何も出ないと思うよ。頭良さそうなヤツだから。ネット関連は当たってみるけど、柚木さんほどすぐには出ないよ? 私ら、久我さんらと違って凡人なんだから」
「凡人云うな」そこで思い出し、久我はパチンと手を叩いた。「そうだ、調べるなら、昨日の夜。二十一時前後の通信記録を知りたい。あと、捜査上に整体師の女が出てきたら、徹底的に洗え」
「整体師ねぇ」古海は携帯にメモを取り、興味深げに顔を上げた。「それって、赤星の女?」
「わからん。オレも調べてみる」
「そういや特務班は、女難の相が多いねぇ。久我さんもバツイチでしょ? 柚木さんの嫁さんに、失踪の情報行ってるのかな」
久我は踵を返しかけていたが、無理に立ち止まり、クルリと古海に振り向いた。
「柚木の、嫁? アイツ、結婚してないって云ってたぞ」
「え? そうだっけ?」
軽く応える古海に、久我は一歩、歩み寄った。
「それって、誰に聞いた。何情報だ?」
「何だったかなぁ」そう彼女は首を傾げた。「なんかあの人の嫁さんがスゴイ美人だとか、聞いた覚えがあるんだけど。でもかなり前。検察の頃だったかも」
「思い出せ。そして知らせろ」
押し込んで踵を返した久我の背中に、古海は呆れた風に云った。
「何? それって柚木さんが攫われた事に、関係あんの?」
「ある!」
叫び返す久我。それは柚木の女関係なんて、彼が攫われた事とは直接関係しない。だが、彼の異物〈スリー〉のコンシェルジュである、あの赤いドレスの女の正体。そして彼女と柚木との関係を知ることは、彼の謎に包まれた過去を知るためには、非常に重要だとしか思えなかった。