第三話 事故
久我はとにかく、足を踏ん張りながら、叫んだ。
「おい、ふざけんな! オレを実験台にしようってのか!」
「実験台も何も、コレはキミにだけ、意思を示したんだ。こんな機会、もう二度とないかも」そう何度か滑る手で操作を失敗してから、八重樫はファインダーを久我に向けた。「久我クン、抵抗しないで。そのまま、〈異物〉に」
クソっ! 何てことだ!
「テメェ、絶対、ブチ殺してやる!」
久我が叫んだ時、その身体は完全に制御を失っていた。足がズルリと滑り、まるで綱引きに負けた時のように、あっという間に右手が〈異物〉に吸い寄せられていく。途端に放電は激しくなり、あまりの眩さに目を閉じ、一瞬だけ、オゾンの匂いを感じる。
そして久我は、叫んだ。
上下がわからなくなり、身体の感覚も、さっきまで感じていた右手の痛みも、完全に失われていく。意識が遠のいてきたその瞬間、久我はふと、一つの声を聞いていた。
『お父さん、面倒?』
「京香?」
呟いた直後、久我は全く、別の場所にいた。
はっと我に返り、久我は辺りを見渡した。
橙色の照明。クリーム色の壁。机の上にはディナープレートが広げられ、その向こうには、少し神経質そうな少女が座っていた。
涼夏と似た、広い額。髪は細く、頭のラインが綺麗に見える。大きな瞳は少し釣り上がっていて、彼女自身は〈猫目〉と誂われるので嫌っているらしかったが、久我はその瞳が大好きだった。
「お父さん?」
そのキツく見える瞳で尋ねられ、久我は軽く、頭を振った。
「あ? いやいや」久我は慌てて笑みを浮かべつつ、珈琲カップを手にとった。「面倒? 何がだ。どうしてそんなこと聞く」
「だって」と、彼女。京香は僅かに、口を尖らせた。「全然、会ってくれないんだもん。それに会っても、ずっと黙ってるし」
京香は相変わらず、正直だ。それだけは涼夏の良い所を学んでくれている。
久我はすぐに哄笑し、テーブルに身を乗り出させた。
「そうじゃない。面倒なもんか! オレだっていつも、オマエと会うのを楽しみにしてる。けどな、大人になっちまうってのは、色々と面倒でな。金は稼がなきゃならないし、オマエと合う話も出来なくなる。大好きな事をするのが、凄く難しくなるんだ」
ふぅん、と、不機嫌そうにメロンソーダのストローを咥える京香。
久我はそれを見つめ、云った。
「学校はどうだ?」
「別に。普通」
「クラブは? まだ吹奏楽、やってるのか?」
「うぅん。お母さんに、中学受験の勉強しなさいって」
相変わらずか、と苦々しく思う。
久我は京香に、とにかく子供らしくあってほしかった。赤子は赤子らしく、幼児は幼児らしく。そして小学校五年生には、遊んで、笑って、いてほしかった。
だが涼夏は全く別の考えを持っていた。幼稚園の受験。小学校の受験。六歳だか七歳の頃から化粧水を使わせ始め、綺麗に眉の形を整えさせた。
「相変わらず、か」久我は呟き、ため息を吐いた。「まぁ、お母さんは、頭がいいからな。なにしろMBAだ! オマエにも、そうあって欲しいんだろう。オレは、オマエには。もっと楽しんで欲しいが」
云った久我に、京香はパッと顔を上げた。
「私、お父さんと暮らしたい」
「あ? どうしてまた」
「だってお父さんなら、吹奏楽やめろとか、あの娘と付き合うなとか。勉強しろとか。そんなこと云わないでしょう? それに大人になったら、好きなこと出来なくなるんでしょう? なら私、もっと楽器やりたい!」
久我は深く、ため息を吐いた。
「勉強しろ、くらいは云うぜ。でもな、お母さんは、オマエの事を考えて、そうしてるんだ」
「お父さんは? お父さんは、私のこと。考えない?」
「考えてるさ。けどな、オレは」
久我は口ごもった。
そう、オレは裁判所によると、ダメ人間らしい。
だがそれを京香に云った所で、どうなるものでもない。それに彼女には、両親の不和を、出来るだけ知らないでいてもらいたい。どうせそんなドロドロしたものは、大人になったら嫌というほど味わうのだ。なら、子供の頃くらいは。世界は幸せに包まれていると、思っていてもらいたい。
「とにかくオマエは。お母さんの云うことを良く聞いて。いい子でいるんだ」
「いい子? いい子って、何? 友だちから離れて、ずっとやってた楽器を辞めるのが、いい子なの?」
「いやぁ、そうじゃなく」言葉を探す久我。そして顔を拭い、珈琲に瞳を落としながら云った。「とにかく、困ったことがあったら相談に乗る。だが今はな、大人の云うことを聞け」
駄目だ。京香は賢い。こんな適当な言葉じゃ、誤魔化せるはずがない。
だいたい、大人の云うことを聞け、だって? そんなの、オレが餓鬼の頃だって。大嫌いな言葉だったはず。
「いや。そうじゃないな」そう、久我は前の言葉を取り消した。「とにかく、オレはオマエを愛してる。出来ることなら、一緒に暮らしたいと思ってる。それだけはわかってくれ。だがな、この社会じゃオレは、お母さんほど良い人間じゃあないらしい」馬鹿な事だ、と頭を振る。「ま、そりゃそうだ。〈異物〉をクスねては売ってるし、サボる事しか考えてない。オマエがオレと一緒に暮らせば、オマエだって駄目になる。だからオマエは、お母さんの云うことを聞いてるのが一番なんだ」
沈黙。
そしてテーブルの向こう、気配だけ感じる京香が、云った。
「本当に、そう、思ってるの?」沈黙する久我に、彼女は重ねた。「ホントに私、お母さんと一緒に暮すのが、一番だと思ってる?」
久我は僅かに躊躇い、云った。
「あぁ。それが一番だ」
違う!
途端、久我の心が叫んだ。
そうだ、これは前に一度、あったことだ。そう、最後に京香と会った時の会話。これは夢か? そう、夢に違いない。だとしてここで、オレが素直になっちゃいけないって理由があるのか? 何も考えず京香を自分のものにして、連れ帰って。一緒に暮らす夢を見ちゃいけない理由が。あるとでも?
いや、そんなものは、何処にもない。
そう悟った久我は唐突に立ち上がり、京香の腕を掴んだ。
「わかった。もうお母さんの所には、戻らなくていい。オレと一緒に暮らすんだ」そして彼女を外に引っ張り出しつつ、まるで熱病に浮かされるように、云った。「クソっ! あんな女に育てられちゃ、この腐った社会ってヤツをネジ曲がった性根で渡り歩く事しか出来ない、クソ女になるだけだ! いいか、受験勉強なんてしなくていい! 納得が行くまで吹奏楽をやって、好きな友だちと付き合え! だがな、オレの云うことは聞け。納得できないことがあったら、お互い納得が行くまで、話し合おう。それがルールだ。わかったか?」
その時、不意に京香の言葉が、硬質になった。
「了解しました。セットアップ・ウィザード完了。作動モードをビギナーに設定します」
彼女の身体が重くなり、それに引っ張られるようにして、久我は立ち止まり、振り向いた。
「京香?」
彼女は久我の右手を固く握りしめ、その力を次第に強くしていく。そのあまりの強さに、久我は恐怖を感じ始めた。
「京香? ちょっと、痛い、んだけど」
「光速、電荷、プランク定数および真空誘電率測定。完了。エネルギー充填率、二十%。初期展開に問題なし。チューリングマシン、作動開始」
いい終えた瞬間、彼女の指先が、久我の右手に食い込んだ。激痛に呻いたが、京香の指先は力を強め、徐々に手の甲に沈んでいく。
第一関節、第二関節。そして彼女の細く尖った指は、久我の手の甲を、貫き通した。
激痛、そして混乱。
何だ? 一体、何が起きている?
「おい、どうなってんだ!」
叫び、激痛に瞳を閉じた瞬間。久我は別の瞳を開いていた。
橙色の、弱々しい光が感じられる。頭が、背が、不快な汗で、べっとりとしている。
そして右手の、鈍い痛み。
一体、何が。どうなって。
辛うじて思いながら身を起こすと、久我は自分が、八重樫の研究室にいることを思い出していた。
京香とのディナーは、夢か?
そうだ、夢だ。そしてこれは、確かに現実。
それにしても、どうして急に、夢なんて。
再び右手に鈍い痛みが走り、顔を顰めながら目を落とす。そして久我は、思わず声をあげていた。
「な、なんじゃこりゃあ!」
右手の甲に、何か機械質な物が張り付いている。中央には水色に輝く、半透明のガラス質の物。その周囲は鈍い銀色の金属で縁取られていたが、皮膚に滲む血、そしてズキズキした痛み、それに内部に感じる違和感から、かなり深く食い込んでいる感じがした。
身体中が熱かった。額から汗が垂れ、ポツン、と手の甲に滴る。
「ど、どうなった?」
不意にかけられた声に、弾かれるようにして顔を向ける。そこには顔を真っ赤にした八重樫が立ち竦んでいて、ブルブルと震えながらカメラを構えていた。
「こ、この野郎!」不意に怒りがぶり返してきて、久我はテーブルの上から飛び降り、彼に右手を突き出した。「どうなってんだ、オイ! こりゃ何だ!」
「見せてくれ! 良く見せてくれ!」カメラを投げ出し、震える手で久我の右手を掴む八重樫。「これは。何かのウェアラブル・デバイスか? 情報装置? それとも武器? キミは何か、感じないのか?」
右手から頭にかけて、鈍痛が走る。それに久我は顔を顰め、頭を振り、左手で八重樫の胸ぐらを掴んだ。
「フザけやがって。どうして止めなかった! こりゃどうなってんだ!」
「待て! 落ち着け! キミにはわからないのか、この重大さが! 十年。十年だ! それだけの間、何も反応を示さなかった〈異物〉が。初めて意思を示したんだぞ!」
「オマエ、マジでイカれてるな! マジでブチ殺してやろうか!」
その時、久我の頭の中に。京香の意思が、響いた。
『ブチ殺す。了解』
不意に、ぱっ、と、赤黒い液体が吹き出した。それは久我の顔に飛び散り、胸ぐらを掴んでいた八重樫が、急に、力を失った。