第四話 危機
赤星というドライバーらしき男。彼は午後いっぱいを異物のオークション会場で費やした。七時を過ぎて、従業員たちがぱらぱらと倉庫から出てくる。赤星はその最後に姿を現し、厳重に鍵を掛け、セキュリティ・システムを作動させる。そしてやや草臥れた軽ワゴンに乗ると、社に戻らず、横浜方面へと向かった。
たどり着いたのは、繁華街の外れにあるボロボロのマンションだった。赤星は駐車場に車を停めると、薄暗いロビーに足を踏み入れる。
久我はそれを眺め、ヘルメットを脱ぎ、回線の向こうにいる柚木に云った。
「異物の取引に関わっている割に、あまり金はなさそうだな」
『私も疑問に思い始めていた所だ』
「っていうと?」
『彼に関して、幾つかわかったことがある。彼はここ一年で、十数回に渡って海外に出向いている。どれだけが仕事でどれだけが趣味かは不明だが、彼はかなりの立場にあり、かなりの出費があるのは確かだろう』
「旅行が趣味と云ったな。それのために他は倹約してるのかね」
『そうは思えないな。どうやらここには、一月ほど前に引っ越してきたらしい。以前凄惨な殺人事件があった事故物件で、住民は数世帯しか残っていない。結果、家賃は破格だ』
確かに見上げてみても、かなりの部屋数がありそうなのに、灯りが点いているのは一部屋だけだ。
『加えて、彼のスーツを見たか? 恐らくオーダーメイドで、十万以上はするだろう。他にもある。彼は先日、車を買い換えている。以前乗っていたのはミニ・クーパー。市場価格で四百万ほどする』
久我は口元を歪め、首を傾げた。
「以前は金遣いが荒かったが、急に金が必要になって、安部屋に引っ越し、車も安いのに買い換えて、財布の紐を締めてるのか」
『そう思える』
「ヤツは一月前から、急に金欠になった。加えてミニ・エグゾアが発生しはじめたのも、一月ぐらい前から、と」何か、関連があるとしか思えない。「どうも良くわからんな。寄生されると金欠になる異物? 何だそれ」
『異物と彼の家計の変化に関係あるのかは不明だがね。とにかく我々は、彼が何者で、どんな能力を持っているのかを探る必要がある。手っ取り早いのは彼の不在時に屋内を探ることだが、それは明日、彼が出勤している時間帯にキミが』
柚木がいい掛けた時、不意に赤星がロビーに姿を現した。彼はスーツから普段着に着替えていて、足取り軽く玄関を出て、徒歩で繁華街方面に向かっていく。
久我はそれを眺めつつ、柚木に云った。
「いきなりチャンス到来だな。オレはヤツの尾行をするから、後は頼む」
すぐ、柚木は当惑したように答えた。
『どういう意味だ? 私に空き巣の真似事をしろと?』
「そういう方針を立てたのは、アンタじゃないか」
『しかし、そういうのはキミの専門で』
「空き巣に専門もクソもあるか」苦々しく云いつつ、久我はバイクから飛び降り、小走りで赤星を追った。「調査部のマニュアルは読んだのか? ちゃんと鍵の開け方が書いてあったぜ?」
『それは私も、訓練は受けた事はあるが』
「じゃあ、たまには手伝え。それともアンタがヤツを尾行するか?」
『そのほうが、まだ適性があるように思える』
「あぁもう、グダグダ云うな! 云っておくが、中にパソコンがあったとして。オレにはハッキングなんか出来ないぜ?」
ようやく、渋々といった風に、彼は応じた。
『確かに。私もこういう事態に、慣れておいた方がいいかもしれない』
「よし。ヤツの動きは、逐次報告する」
久我はインナーイヤホンから手を離し、角を曲がっていく赤星を追う。彼はブルゾンのポケットに手を突っ込み、足早に繁華街へと向かっていた。歩くこと十分ほどだろうか、赤星は居酒屋やバーが軒を連ねる一帯に入り込み、肩をぶつけそうな混雑のなか、喫茶チェーン店のドアを潜った。
カフェラテを頼み、席に腰を降ろし、携帯を取り出す。
チャットか何からしいが、一体誰と、何の会話をしているのか。確かにこうなってしまうと、柚木の方が適性が上になってしまう。
「なぁ、ハッキングとか何とかが、アンタくらいの腕前になるには。どれくらい勉強しなきゃならねぇんだ?」
虚ろに尋ねた久我。柚木は何故か酷く焦った風に、押し殺した声を返してきた。
『驚かさないでくれ! こっちはピッキングの最中なんだぞ!』
「ハッ、ビビリだなアンタは。って、まだ開けられてないのか? んなもん、十秒だろう」
『そうは云われても、研修の時はもっと明るかった。こう暗い中だと』ふと、彼は詰めていた息を吐き出した。『開いた。入っていいのか?』
「オレに聞くなよ」思わず笑いつつ、久我は答えた。「まず、ドアの隙間にセンサーらしき物がないか確認するんだ」
『何もなさそうだ』
「何もなきゃ、入ればいい。おっと、監視カメラがあるかもしれん。顔は隠せよ?」
『しかし、ドアの裏側にセンサーが付けられていたら?』
「んなもん、疑い続けたらきりがない。後は臨機応変だ」
柚木は深いため息を吐き、云った。
『わかった。努力してみるとしよう』
「こっちも動きがあった。少し黙るぞ」
斜め前の席に座る赤星。彼の前に、一人の女性が現れていた。
彼と同年代、アラサーといったところだろうか。顔は赤みがかった色白で、ショートカットの髪を茶色く染めている。とはいえ化粧は薄めで、多少ぽってりとした風な顔つきからは、あまり擦れた感じはしなかった。
彼女は小さな手提げカバンを持ち、青いカーディガンを羽織っている。その下は何か、医療系の作業服のように見えた。青白い上下で、つっかけには文字が書かれている。
三浦カイロプラクティック、と読み取れた。
整体師か?
そう思って彼女の横顔を眺めてみると、その厚い瞼の下の視線は、少し奇妙だった。目の前の赤星を視野の中心から反らして捉え、コーヒーカップを取ろうとする時も、僅かに斜めに眺める。
盲目ではないが、視野に問題があるらしい。どうやら休憩時間中に抜け出してきたらしい彼女は、赤星と何事かを談笑していた。
これも柚木ならば、携帯をハッキングするか何かして聞き取れてしまうのだろうが、久我にはそんな技術はない。それで空調を気にする風を装って、彼らの隣に席を移そうとした、その時だ。
『これは』
柚木の声がイヤホンから響き、仕方がなく久我は腰を戻した。
「何だ。今、こっちもいいとこなんだが」
『いや。この謎が解けるまで、赤星にはあまり、近づかない方がいい』
「謎? 何だ」
不意に久我の携帯が震え、一枚の画像が送られてきた。
どうやら赤星の部屋らしい。事故物件ということもあり、中身は綺麗にリノベーションされている。壁も床もコンクリート打ちっぱなしの小洒落た感じになっていて、その広々としたリビングには、無数の模様が描かれていた。
模様? いや、違う。
レンガだ。コンクリートの床、その一部に、円形にレンガが埋め込まれているのだ。それも一つや二つではない。空虚なリビングの床に、無数に、その異常は存在していた。
「待て。こりゃあ。あのミニ・エグゾアか?」
『そのようだ。しかしこちらは、コンクリートがレンガになっている。一体どういうことだ?』そして僅かな沈黙の後、カチャカチャとキーを操る音がした。『パソコンの内部を確かめる』
「待て、柚木。まるでワケがわからん。こりゃ、一旦出直した方がいいぞ」
『いや、もう少し』
沈黙。そして苛立った久我が状況を尋ねようとした時、柚木は混乱したように、声を高めた。
『いかん。これはどうなってる』
「どうした。何があった」
更なる沈黙。そして彼はまるで、恐れを押さえ込むように、云った。
『わからない。わからないが、これは非常に危険だ。彼は私たち。私とキミの情報を手にしている』
まるで彼の云っていることが、理解できなかった。
「オレたちの、情報? それって」
『住所、氏名、年齢、そして災害予防局で異物捜査特務班に所属していること。加えて数枚の写真。まだある。キミの家族。涼夏さんのこと、京香さんのこと。何もかも。それに』
「待て。おい、どういうことだ?」久我は顔を隠そうと、慌てて椅子に深く沈み込んだ。「どうしてヤツが、そんな情報を手にしてる。どうなってんだ!」
『わからない。一体何が、どうなってる』
そして、ギシリ、と彼が椅子で身じろぎする音に続いて、彼は不意に押し殺した叫び声を上げた。
『しまった!』
「何だ! どうした!」
『わからないが、机の引き出しに何かセンサーが付けられていたようだ! その線を切ってしまった! どうしたらいい!』
なんてことだ!
思った瞬間、赤星が慌てたように立ち上がっていた。そして目の前の女性に何事かを言い含め、喫茶店から飛び出していく。
「クソッ、柚木! 早く逃げろ! ソイツは赤星の監視装置だ! すぐにそっちに行くぞ!」
久我も喫茶店から飛び出し、赤星の後を追う。
すぐ、家に駆け戻るつもりだろう。
当然久我はそう考えたが、彼は不意に路上で立ち止まると、焦った風に左右を見渡し、まるで別の方向へ駆けていく。
「どうなってんだ」久我は呟き、インナーイヤホンのボタンを押した。「柚木? どうなってる?」
『待ってくれ。このデータは危険だ。彼がどれだけ我々の事を把握しているか調べないと』
「いいから、早く逃げろ!」
『そうもいかない。そこからここまで、十分はある。それまでに』
角を曲がり、暗がりに駆け込んでいく赤星。
向こうはこっちの顔を知っている。あまり人通りの少ない所での尾行は危険だ。
だが今は、追うより他に手がない。久我は舌打ちしつつその後を追って、角を曲がる。
しかしそこで、久我は完全に当惑し、立ち止まっていた。
ほんの数秒前に、駆け込んだはずの赤星。だがその姿形が、どこにも見えなかった。
「クソッ、何処に行った」
無数にある、狭い脇道。そのどれかだろうと足を踏み出した時、久我はふと、地面の感触が違うのに気づいた。
無意識に見下ろす。
レンガ状の、小洒落た歩道。
しかし久我の片足が踏んでいたのは、コンクリート、だった。
「まさか」
はっとして、思わず呟く。歩道がコンクリートに変わる、ミニ・エグゾア現象。それがここにあり、そして赤星の家にもあった。
その二つを繋ぐのが赤星だったとして。彼が家とは反対の、この人気のない路地に向かった理由があったとして。その彼の、能力とは。
「不味いぞ柚木! そいつはテレポーターだ!」
叫んだ瞬間、イヤホンには、柚木のくぐもった悲鳴が響いてきた。