第十話 邂逅
一週間ほどの後、久我は日曜のファミリーレストランで、苛々と貧乏ゆすりをしていた。
クォンタムに対しては、予防局、そして検察庁合同で正式な調査が開始されていた。伝え聞く限りではクォンタムは早々に白旗を上げ、担当部署の重役の首を切り、何とか首脳陣の生き残りを図っているらしい。だが涼夏の告発と彼女の手にしていた資料から会社ぐるみでの陰謀なのは明白で、クォンタムという会社自体が消えてしまうかもしれないという。
だが、それだけ、涼夏の役割は重い。柚木と涼夏の話し合いの結果、彼女は暫く日本を離れた方が良いということになったらしい。それは危険性だけの話ではない。誰彼から注目を浴び、まともに仕事も出来ないような状況は、涼夏自身、尤も嫌う所なのだ。
そして京香は、久我が引き取ることになった。
戦場でも、ドライバーと戦う時でも、これほど緊張したことはない。何しろ京香と一緒に暮らすのは、久我の一番の望みと云っていい。だがそれだけプレッシャーなのも確かで、涼夏がいつ気を変えて、一緒に海外に行くと言い出さないか、気が気ではなかった。
それは未だに、続いている。
「ったく、もう時間だろ。何やってんだ」
思わず呟いた時、窓の外に涼夏と京香の姿が見えた。久我はすぐに背筋を伸ばし、髪を整え、待ち構える。
そして現れた二人。涼夏は軽く口の端を歪めただけ。一方の京香は薄く笑みを浮かべ、それでも母親の前で父親と馴れ馴れしくすることに微妙な空気を感じ取っていて、黙り込んでいる。
「お。おう。元気か?」とりあえず云った久我に、頷く京香。「忘れ物はないか? あぁ、業者が後で運んでくるんだったな。オレも綺麗なとこに引っ越したからな、ちゃんとオマエの部屋もある」
ただ、笑みを浮かべるだけの京香。それに涼夏は小さくため息を吐き、云った。
「いい? お父さんの云うことを良く聞いて。ちゃんと勉強するのよ?」
少し怯えたように、頷く京香。そして涼夏は久我に目を向け、促した。
「ちょっと、いい?」
「あ。あぁ」
久我は京香にジュースをあてがい、涼夏と店の外に出る。彼女はガードレールに腰を下ろすと、対面に立つ久我に云った。
「ホント、頼むわよ。あの娘のこと」
「あぁ。任せろ」
「塾も習い事も、続けさせて。連絡先はこれだから」と、メモを差し出す。「あと、アレルギーがいくつかあるから、それも書いてる。それに何だか最近夜更かしするから、あんまり甘やかさないで。それと」
「任せろって云ってるだろ」
呆れて云った久我に、彼女は大きく息を吐いた。
「私があの娘に、どれだけのリソースを注ぎ込んできたのか。わかってたら、そんな簡単に云えない」
「オレだって、かなりを注ぎ込んだ」
云った久我に、涼夏は久我が手にしている先程のメモを指し示した。
「貴方のお金は、全部その月謝」
「何? 習い事の月謝に、そんなかかるはず」
「全部、一流の先生だもん」
久我は再びため息を吐いて、云った。
「もう、こんなことで喧嘩したくないが。オマエは京香に詰め込みすぎなんじゃねぇのか?」
「そうね。どうせわかりあえないし、喧嘩したくないから、その話は止めましょう。でも塾と習い事だけは絶対に続けさせて。お金は入れるから。いい?」
渋々、久我は頷いた。
「わかったよ。で、何処に行くつもりなんだ?」
「そうね。とりあえずはマレーシアに知り合いがいるから。そこで雇ってもらうつもり」
「さすがMBAだ。仕事には事欠かない」
「それより、京香の。あの問題。何か目処は立ったの?」
これは正直に話すしかなかった。
「いや。まだ何も」
「予防局は本当に、医療型を探してくれているの? 貴方、それを出汁に、いいように使われてるだけじゃんじゃ?」抗弁仕掛けた久我を遮り、彼女は続けた。「貴方、予防局のこと、どれだけ知ってるの?」
「どれだけ? どれだけ、って。何だ」
涼夏は軽く周囲を見渡し、人通りが絶えている事を確認してから、云った。
「予防局は、クォンタムに投資していた。知ってた?」
まるで何を云われているのか、久我は理解出来なかった。思わず苦笑いしつつ、問い返えす。
「予防局が? クォンタムに? 一体何の話だ」
「そもそも私を襲って、貴方が捕まえた海坊主ってドライバー。彼は予防局側から、クォンタムに研究材料として渡されたの」
「はぁ? なんだそれ。柚木はそんなこと、一言も」
「私が予防局に提出した証拠から、その部分を抜いておいたからよ。もし私がそれを知ったと予防局に知られたら、クォンタムからだけじゃなく、予防局からも追われかねない。そう思って」
更に彼女は、目にした資料の内容を説明する。
どうやら彼女の表情、そして声色からも、本当の事としか思えなかった。
だが久我も、薄々と感じてはいた。
柚木は全てを、久我に話していないと。
「それ、他に知ってるヤツは?」
「わからない。クォンタムは、予防局の聴取を受けて。昔の事情を話しているとは思うけど」
「とにかくそれは、隠し通せ。いいな? 後から予防局の事情聴取があっても、絶対口にするな」頷く涼夏。「それと、柚木からも聞かれたと思うが。あの八重樫って男に関しては、何か内部情報なかったのか?」
「そんな事まで調べてる暇なんて。なかったわ」
「そうか。まぁいい」云って、久我は慎重に、彼女に宣言した。「とにかく、そっから先は、オレが調べる。京香のためにも、な」
◇ ◇ ◇
再び柚木は、あの部屋の前に来ていた。
しかし今日に限っては、扉を前にしても、首や背中の痛みを感じなかった。ただ夢中なまま、それでいて脳内で完璧な論理を組み上げ、扉を押し開く。
いつも通り、彼女は遠くの席に腰掛けていた。軽く瞳を上げ、柚木を眺め、対面の席に促す。だが柚木はそれを無視し、ずかずかと彼女に近づき、手にしたファイルを机の上に叩きつけた。
「このようなやり方、気に入りません」
言い放った柚木に、彼女は僅かに、笑みを浮かべた。
「どうしたの、急に」
「クォンタムが厚木に隠していた。放置していた、偵察型異物を装着したドライバー。あの倉庫はクォンタムが、証拠隠滅のために放火したんじゃあない。我々が辿り着く前に貴方が彼を確保し、火を放ったんだ」
クォンタム側の証言、そして様々な証拠が、それを完璧に裏付けていた。
ばれたか、というように、俯き、苦笑いする彼女。だがすぐに彼女は顔を上げて、柚木を見つめた。
「そう顔を赤くしないで。私がそう指示しても、貴方は反対していたでしょう?」
「〈そう指示〉とは、何ですか。〈カメレオン〉を秘密裏に予防局が確保し、クォンタムが投げ捨てた人体実験の続きをしろという指示ですか?」
「いい? 彼らの開発した携帯型ステルス装置は、今のままでは量産出来ない代物なの。〈カメレオン〉から抽出される体液に様々な処理を加えて、ようやく完成する代物。加えて一度何者かに使用されたら、もうそれ以外の人は使えなくなる。現品は三個しかなく、うち一個は行方不明。わかる?」
「わかる? 何がですか。高度なテクノロジーのためならば、非人道的な行為も厭わない、という事ですか?」
「わかってるくせに」彼女は小さく、息を吐いた。「貴方には必要な物がある。私もそう。それを手に入れるためには、手段を問う事は出来ない」
「私は手段を問います」
「貴方に出来ないことは、私がやる。私に出来ないことは、貴方がやる」僅かに呆れたように、彼女は椅子に寄りかかった。「そういう分担で、ここ十年。上手く行っているものとばかり思い込んでいたけど?」
それを云われると、柚木も辛い。
僅かに口籠り、正直に云った。
「私は次第に、それが疑問に思えてきた。私は貴方の。天羽さん、貴方の恐るべき行為を見過ごし続けていていいのか。果たしてそれで、先生が喜ぶのでしょうか」
ハッ、と彼女は、笑い声を上げた。
「先生は死んだ。喜ぶことはない。違う?」
違わない。
だが、云うべきことは云った。今はこれ以上、何も出来ない。
黙り込んだ柚木に、彼女は続けた。
「それより重要なのは、クォンタムが湯島で確保した異物よ。その性質はクォンタムから聞いたでしょう? アレこそが、先生の探し求めていた〈シャード〉だったのかもしれない。その後の捜査の状況は?」
「残念ですが、八木の行方は不明です。引き続き捜索しますが」
彼女、天羽は、深い深いため息をついた。
「本当、惜しいことをしたわ。これでまた十年、棒に振ってしまったのかも」
柚木は軽く頭をさげ、踵を返し、埃っぽい廊下に出る。
「スリー。私は一体、何をどうしようというのだろう」
不意に呟くと、隣に赤いドレスの彼女が現れ、云った。
『もう少し、具体的に云っていただけますか?』
そうだ。彼女の擬似人格は、私が封鎖してしまったんだ。
思い出し、柚木は軽く片手を振った。
「何でもない。消えてくれ」
◇ ◇ ◇
マレーシアを含めた東南アジアは、ここのところ発展著しい。主に安価な人件費を梃子にした二次産業が主力だが、そこで得た利益を投資に回そうと云う機運も大きい。だが彼らの国は金融の歴史が浅く、それだけ人材も必要とされる。
涼夏が訪れたのは、そうした東南アジアの国々を対象とした投資会社だった。年利二十パーセントという驚異的な利回りを実現する投資信託を複数抱え、この業界では静かな話題となりつつある。
一方で、そのオフィスは酷く簡素なものだった。
簡素? 違う。スラム街の縁辺にあり、今にも崩れ落ちそうな外観のビルだ。タクシーでそこに乗り付けた涼夏は、息を詰めて臭いを我慢し、汚水の水たまりを飛び越え、階段を登っていく。
錆びついた扉に、やけに新しい看板が貼り付けられていた。
ダイダロス投資会社。
ノックして現れた男は、涼夏の記憶とはまるで違っていた。身体の肉も、顔の肉も、半分。白髪混じりの髪は綺麗に波打っていて、一見するとコーカソイドの血が入っているように見えた。
写真で見た時は、ただの暑苦しいデブとしか思わなかったが。
「わぁ、ホントに来たんだ」彼は瞳を大きく見開き、笑みを浮かべ、涼夏を中に促した。「さ、どうぞどうぞ、奥さん」
「それより」涼夏はドアの前に立ったまま、云った。「要点を。八木さん、貴方は医療型のウェアラブル・デバイスの在り処を。知っているの?」
彼は僅かに困惑した風で、肩を落とした。
「事情はメールで読んだよ。可哀想な話だよね。でも私も、知っているといえば知っている。知らないといえば知らないんだよね」
「それって」
「待ってよ奥さん! そりゃあ一人で私の居場所を突き止めたのは凄いけどさ。ここはマレーシアだよ? 予防局に通報されたって、こっちは稼ぎを上手く散らして逃げるだけだもん。何でそんな脅されるような感じになっちゃうワケ?」
「ごめんなさい。そんな風に聞こえたら謝るわ。でもね、私たち、お互いに協力出来るんじゃないかな、って思うの。貴方に分裂する能力があっても、使うにはまた太らないといけない。加えて特別な戦闘能力があるワケでもないし、仲間も八人の自分たちだけ。それでどうやって、事を進めるの?」
八木は僅かに唇を尖らせた。
「ふぅん。随分調べたんだねぇ。確かに久我ちゃんみたいな力のある仲間なら、幾らでも欲しいけど。貴方、経営学の人でしょう? 悪いけどお金に関しては間に合っててさ」
そこで八木は、大きく目を見開いた。
涼夏が左腕に、ブレスレットを装着したのだ。
彼は目を凝らし、透明になった涼夏に対し、痩せた手を伸ばす。涼夏はその手首を掴みつつ、ブレスレットを外した。
「どう? これでも久我の方が、役に立つって云う?」
ゆっくりと、彼は顔に笑みを浮かべた。
「いやいや、〈カメレオン〉をコピー出来たって聞いて、半信半疑だったんだけど。ホントだったんだ!」
「貴方の一人、八重樫。資料で見たわ。彼はクォンタムで〈カメレオン〉を研究していたけれど、ドライバーを切り刻もうとして逆襲されて、記憶を失ってしまった。でしょう?」
「あぁ。アレは嫌な事件だった」肩を落とす八木。「八重樫は最初の分身だったんだけど。彼は自分がドライバーの分身だってことも忘れちゃうし、かといって殺すワケにもいかないし。辛かったよ」
「私には、この唯一の完成品。それに〈カメレオン〉の研究資料がある。それがあれば貴方も、コレの量産が出来るんじゃない?」
彼は涼夏の提案を吟味するよう、僅かに唸る。そして不意に、パチンと手を叩いた。
「いいじゃない。悪くない。でも奥さん、どうして私なんかを頼ろうとするの? 医療型を探すったって、予防局に久我ちゃんがいるじゃない」
「予防局は手段を問う組織でしょう。彼らじゃ、どれだけ時間がかかるかわからない。それに彼らには、何か別の目的がある。知っているでしょう?」
それだ、というように、彼は人差し指を向けた。
「その通り。私も良く知らないけど、予防局。アレは胡散臭い。よし! とにかく話をしようよ。奥さんの力があれば、色々と楽出来そうだ」
そう部屋の中に促そうとした八木を遮り、涼夏は云った。
「それより、答えは? 貴方は医療型の在り処を、知ってるの?」
「あぁ。それか。それが答えが、難しくてね」不意に彼は満面の笑みを浮かべ、涼夏に再び指を突きつけた。「全てはね、交点にある。それは確かなんだ。私の目的は、そこを突き止める事と云っていい」
「インター、セクション?」
問い返した涼夏。八木はその肩を掴み、室内に促した。
「そう。インターセクションには、エグゾアの謎が全てある。医療型も、そこには必ず、存在すると思うよ」




