第九話 分裂
結局久我と柚木は、市ヶ谷にある予防局局舎に戻るまで、正確な状況を掴むことが出来なかった。とにかく看守の説明が要領を得ず、また涼夏が同乗していることで機密を大っぴらに話すことも出来なかったからだ。
地下駐車場に乗り込んだキャブコンから降りると、保安部のリーダー格である蝋山が待ち受けていた。彼も元軍人だが、工兵の久我と違って元歩兵だ。そのため久我よりも体格が良く、腕力では到底及ばない。しかし彼はどことなく優しげで気弱な風があって、皆から慕われている現場指揮官だった。その彼は酷く当惑した様子ながらも、涼夏を部下に預け、久我と柚木をエレベータに促す。
「全く、申し訳ない」と、蝋山は二人に頭を下げた。「とにかく私もまだ状況が掴めていなくて。何が起きたのか、良くわかっていません」
「一体、何なんだ。相手はデブ一人だろう。どうして逃げられるような事になった。何か特殊能力を使ったのか?」
蝋山が応える前に、エレベータの扉が開く。久我はあまり来たことはなかったが、この予防局地下には収集された異物が保管され、研究されている。基本的に異物はここから持ち出せない決まりになっていて、常に保安部が唯一の出口であるエレベータを見張っていた。
エレベータの前には、一本の通路。そこが干渉帯のようになっていて、先には鉄格子の嵌められた扉がある。普段は二人の保安部人員がいるだけの殺風景な場所だが、今は蝋山の部下数人が血まみれで倒れ込んでいて、駆けつけた医師が応急処置を続けていた。
「なんだ、こりゃあ」
思わず呟いた久我に、蝋山は先に促しながら云った。
「残念ながら、ドライバーと呼ばれる特殊人員を隔離しておくような専門施設はなかったものですから、ありあわせでここの一室に監禁していたんですが」
「それは私の指示だ」と、柚木が久我に説明する。後は再び、蝋山が引き取った。
「八重樫。八木というドライバーは、連行される間も何か騒いでいましたが。特に危険な様子はありませんでした。だからといって気を抜いていたワケではありませんが。一室に監禁した後、見張りを置いてはいたのですが。不意に八木が苦しみだしたらしく、様子を確かめようと扉を開いた途端、襲撃されたようで。あとはもう、次々と。ただ私も外に出ていたものですから、正確な状況はまだ」
「あのデブ一人に、オマエら全員、なぎ倒されたのか。あぁ見えてヒョードル並の殺人マシーンだったってのか?」
ありえない、と思いつつ云った久我に、蝋山は苦々しく云った。
「それが、一人じゃなかったらしくて」
「何?」
意味がわからず問い返した久我は、目の前の状況を見咎め、思わず足を止めていた。一本通路の先の、開けたエリア。確か右手は研究施設が固まっていて、左手は異物の保管庫になっていた。当然各々の扉は電磁ロックされているはずだが、それが今は全て開け放たれていて、什器に積まれた異物格納ボックスの山が窺える。
「待て、異物を盗まれたのか?」
僅かな沈黙の後、蝋山は申し訳なさそうに云った。
「恐らく。ただ何が盗まれたのか、よくわかっていなくて。現在調査中です」
ここにも、数人の保安部員が転がっている。彼らを手当する人員、状況を確認している人員を掻き分けて向かった先は、一番奥の一室。六畳ほどの、ベッドと下水があるだけの部屋だ。しかし堅牢そうな扉は歪み、ベッドは半ば半分に折れ曲がっている。
柚木も困惑しているらしく、半ば口を開け放ち、一歩、足を踏み入れる。
軽く彼は室内を眺め、天井を軽く指し示した。
「監視カメラは?」
「ご覧のように、破壊されてしまっていて。これからデータが取れないか、試してみようかと」
「私がやる」
云って、半壊したベッドの上にノートパソコンを広げる柚木。久我は蝋山に手を貸してレンズが壊れた監視カメラを取り外すと、パソコンの脇に置き、柚木の作業を見守った。
「ふむ。キャッシュは残ってる。破壊される五分前」
ぱっ、と画面が開き、この部屋を斜め上から見下ろしている映像が映し出される。
中央には、八木の巨体があった。上から見ると、久我二人分ほどの大きさだ。その彼はウロウロと室内を歩き、不意に思いついたようにして扉の小さな窓に顔を近づける。
『なぁ、私は昼から、何も食べてないんだ! 何か食べるものはないか!』
何事かを応える、扉前の守衛。八木は呆れたように身を反らし、腰に手を当てた。
『消費カロリーが半端じゃないんだよ私は! 餓死してもいいっての?』そして僅かに考え込み、続ける。『久我くんは? 尋問とかは、まだなの? 退屈だよ!』
守衛から、大人しくしていろ、という叫び声が届く。それを受けて八木は大きくため息を吐き、更に云った。
『もう、しょうがないなぁ。久我くんには挨拶しておきたかったけど、こんな退屈な所だとは思わなかったから。待ってられないよ』そして彼は、再び扉の窓に顔を近づけた。『ねぇ、私が何キロか、書類に載ってる? ないか。身体測定とか、まだだもんね。じゃあ代わりに教えてあげる。現在百三十キロ! 結構大変なのよ? この体重維持するのって。何しろこう見えて、私の体脂肪率は三十パーセントしかない。その辺の相撲取りより、筋肉質なんだ。つまり私は、ただのデブじゃない。代謝が高いから食わなきゃすぐ減っちゃうし、運動しなきゃこの体脂肪率は保てない。これが結構辛いのよ。でもね、辛くても、私はこの体型を維持しなきゃならないんだ。どうしてか、わかる?』
恐らく守衛は、ただのデブの戯言だと思っているのだろう。まるで応じない相手に八木はニヤリと笑い、ふと、監視カメラを見上げ、軽く片手を振った。
『久我くん!』と、彼は楽しげに云った。『それに、えっと、柚木さんだったかな。悪いね嘘吐いて。私のジェミニはね、戦術支援型なんかじゃない。コンシェルジュの云ってる事が良くわかんないんだけど、多分、後方支援型、って云うのかな? 要するに兵站だよ。補給とか、そんなのが担当みたい。その能力はね。まぁ思わず〈ジェミニ〉って云っちゃって、バレちゃったかなと思ったんだけど。まぁそんな風でさ』
八木は焦らすように黙り込み、軽くカメラに向けて、人差し指を向け。
そして不意に、床に蹲った。大きな身を捩り、苦しげな喘ぎ声を上げる。それはやがて絶叫になった。床を転げまわり、シャツは裂け、そのままベッドに激突し、マットの下敷きになる。
あまりの様相に、守衛は不安になったらしい。それでも冷静に援護を呼び、二人の追加人員がやってきたところで、慎重に扉を開く。
室内の騒ぎは、既に収まっていた。ただマットの下になった八木が、もぞもぞと動いている様子だけが窺える。
ドアノブに手をかけたまま、半歩、足を踏み入れる守衛。
『おい? どうした?』
彼が云った直後、マットの下から、一つの人影が飛び出していた。あまりの速度に目が追いつかない。だがその男は守衛の腰にタックルすると、倒れ込んだ彼に馬乗りになり、高速で拳を浴びせていく。当然、すぐに残りの二人が引き剥がそうとする。だがそこに、ベッドの下から、また別の影が突進していった。二つ目の影は左右の腕で二人を抱え、あっという間に押し倒す。その時には一人目を失神させていた影が加勢し、完全に腰が落ちている守衛二人に、無慈悲な殴打を浴びせかけた。
ほんの数秒で、全てが終わる。
そして立ち上がった、二つの影。身長は久我と同じくらいだろうか。二人共酷く筋肉質で、引き締まっていて、プロの格闘家のような体型をしている。
そして全く、同じ顔。痩せた頬に、鋭い瞳。
確かに見覚えがあるが、酷く違和感のある瞳。
それを互いに見合わせ、ニヤリと笑い、次いで監視カメラに瞳を向けた。
ジェミニ。双子。
八重樫と、八木。
『久我くん!』と、片方の男が云った。『まぁそんなワケで、私らは分裂する能力があるんだ。厄介な能力だよホント、何もかも半分になっちゃうもんだから、骨とか肉とかのバランスを考えて太っておかないといけないから。大変なのよこれ!』
『でもいいこともある』並ぶ瓜二つの男が、ポン、と額を叩いた。『記憶は完璧に、分裂した時にコピーされる。つまり私を、コピーできるんだ。最大八体までね』
『気づいたと思うけど、八重樫。アレはね、私の兄なんかじゃなく。いや、実際兄はいたんだけど、随分昔に殺しちゃってさ。八重樫は私のコピーの一つなんだ。でも分裂した後に事故があってね、何年か分の記憶を失っちゃったもんだから、あぁして研究担当させておくくらいしか出来なかったんだ。可哀想な私だったよ』
『あぁ、そういや私、名前何にする?』
『マスターがキミだろう?』
指し示された男の胸元には、八つのレンズが光っている。それを見下ろし、彼は云った。
『じゃあ私が八木だな。キミは?』
『キミが八木でしょう、八重樫は死んじゃったから縁起が悪いし、今いるのは、八代、八王子、八田、八角、八島、八幡。あと誰かいたかな?』
『八神がいる』
『あぁ、八神。彼も面白いヤツだよね! じゃあ、そうだな、私は八雲にしようか』
『いいね! よろしく八雲ちゃん』
『こちらこそ』
がっちりと握手する二人。そして彼らは再び監視カメラを見上げると、どちらともなく云った。
『じゃ、そんなワケで。私は。私たちは失礼するよ。あ、来シーズンは誰が勝つと思う? 私はホンダ・ペデロサに一票だな。終盤の速度、あれは本物だよ!』
『あ、キミもそう思うか! 私も絶対、ペデロサが来ると思うねぇ』
『だろう! やっぱり私らは気が合うね! ところで』
そう話し込みつつ、片方がカメラに何かを投げつける。途端に画面は暗転し、途切れた。
暫し、呆然とする三人。最初に声を上げたのは柚木だった。
「ジェミニ。迂闊だった。その名を聞いて、気づくべきだった」
「そりゃ無茶だろ。誰にもわかりようがない」久我は云いつつ、伸び始めた髭を擦った。「だが、八木はどうして、わざわざ捕まったんだ? あの八木の襲撃は自作自演だろう! 自然に捕まるために、自分で雇ったんだ。どうしてそんなことをする?」
はっ、と気づいたように、柚木は椅子から立ち上がった。そして右足を引き摺りながら通路に出て、一際厳重そうな扉に近づいていく。
開け開いた先は、かなり小さな格納室だった。それでも収められているのは重要度が高い物ばかりらしく、他の異物よりも丁寧な梱包が施されている。
完全に焦った風な柚木は、迷いなく一つのパネルを押す。すぐに迫り出してくる格納庫。だがそこは、空っぽだった。
「クォンタムが湯島で発見した。彼らが海坊主を使い、自作自演してまで確保しておこうとしていた、例の異物だ」
「八木は最初から、予防局に確保されたアレを、奪い取るのが目的だった」呟き、久我は眉間に皺を寄せた。「だが、アレは一体、何なんだ? 調査中と云っていたよな?」
どうやら柚木は、酷いショックを受けているようだった。暫くの沈黙の後、酷く力のない調子で、答えた。
「わからない。私にも、わからないんだよ」