第四話 カメレオン
坂本涼夏は懐から社員証を取り出すと、クォンタム本社のカードリーダーに翳し、足早に小奇麗なオフィスに向かっていった。
全く、どうしてこんな面倒なことに。
胸の内で舌打ちする。ここ何年か、涼夏の生活はだいぶ落ち着いていた。京香も手がかからなくなってきたし、産休のブランクがあっても早々と部長という職に辿りつけたし、マンションのローンももうすぐ完済する。
何の問題もない。厄介なのは元夫の存在くらいだったが、適当にあしらって、京香に変な影響を与えないか監視していれば、それ以外は無視できるはずだった。
だっていうのに。
京香が、余命一年、だって?
そんなの、とても座視できるはずがない。京香のために、どれだけの物を犠牲にしてきたというのか。彼女が生まれるまでの一年、そしてそれからの十一年、京香の人生の半分近くを、彼女に注ぎ込んできたのだ。久我が彼女に与える悪影響を恐れ、かなりの労力を使って離婚もした。京香の存在がなければ執行役員に名を連ねていたかもしれないし、ひょっとしたら久我とも、まだ続いていたかもしれないのだ。
京香には、私が失敗した色々なことを、完璧に遂行してもらいたい。
それが涼夏の望みだった。教育に不熱心だった両親のおかげで、涼夏は大学に入るのも、資格を取るのも、かなり苦労させられた。彼らは容姿に関しても無頓着だったから、大学を出る頃まで、まともなセンスも身につけられなかった。
それで私がどれだけ、惨めな思いをしてきたことか。
京香には、あんな思いは、一切させたくない。色々遠回りしてしまった私に代わって、もっと幸せな人生を歩んでもらいたい。
それこそが涼夏の、希望だったというのに。
「で?」
ガラスで仕切られた、執行役員の執務スペース。壁を叩きながら足を踏み入れた涼夏に対し、営業経営本部の役員である中多は尋ねた。
面長で痩せた顔つきをしている。ちょっと頭の回転は鈍かったが、彼は諸事調整が得意で、沈着冷静に考えた結果弾き出される方針は誤りがなく、次期社長とも云われている。
そう、思っていた。十分に信頼できる、誠実な人物だと。
だがどうやら、それは彼の一面に過ぎなかったらしい。
中多は涼夏に、かなりの事を云っていない。それはつまり、彼は涼夏の敵であるということに、他ならない。
そう考えた涼夏は、予め考えてきた台詞を口にした。
「予防局は確かに、ウチがレリックを使ってなにかをしているんじゃないかと疑っているようですが。具体的に特に何かを掴んでいる風はなかったです」
中多はじっと涼夏をみつめたまま、両手を机上で組んだ。
無言。それが中多の特徴だった。言葉を発する前に、十分な検討を行う。
「レリックとは、何だ?」
完璧に壁を作っている。涼夏は苛立たしくため息を吐き、机に身を乗り出させた。
「止めてください。技術本部で調査している〈異物〉の事です」
「坂本クン、前にも云ったが、そういうことはキミは知るべきじゃない事だ」
ハッ、と涼夏は声を上げた。
「それでどうやって、予防局の情報を得ろって云うんです? 私が何も知らないんじゃ、彼から何を探り出していいのかもわかりません。違います?」
「知らないまま探ってもらった方がいい。それで? 予防局は我々に、これから何らかの手を打つつもりなのか?」
涼夏は口籠り、仕方がなく云った。
「今のところは、疑いの範囲を出ないようです。調査中、という事のようで」
ふむ、と唸り、考えること数秒。不意に中多は立ち上がり、ジャケットの襟を正してネクタイの位置を改めた。
「わかった。詳細はメールしておいてくれ」
そして鞄を掴み、秘書に何事かの指示をし、去っていく。涼夏はそれを口の端を歪めながら見送り、次いで自分のブースに向かい、パソコンを叩いた。
私が持っている唯一の手がかりは、これだ。
胸の内で呟きつつ、一つの技術資料を開く。
カメレオン、と社内で呼ばれている新技術だ。その名の通り、ステルス技術に関連する。ステルス自体は戦闘機の分野で先進し、今では軍艦や戦闘車両にも応用されつつある。クォンタムではステルス兵器そのものは設計していないものの、対抗するステルス無効化レーダーの開発を以前から続けてきた。そしてそれが革新的フェイズド・アレイ・レーダーとして完成されると、続いてそこで培ったデータを元に、フェイズド・アレイによっても捉えられないステルス技術の開発にとりかかった。
そう、聞いている。
そしてそれがある程度実用的と思われる段階に達した物が、〈カメレオン〉。
だが涼夏はそれがどんな技術なのか興味がなかったし、聞いても理解できるとも思えなかった。職務上必要だったのは、それにどれくらいの需要があって、その開発に幾らかかって、何年で元が取れるか。そうした経営上の数値だけだった。
けれどもそれが、〈カメレオン〉の謎に辿り着く事に繋がった。
予想される収益に対し、開発費が異常に低かったのだ。
技術には金がかかるものだと、涼夏は理解している。素晴らしい発想が出来る人物を雇い続けるのには金がかかるし、研究開発の機材を揃えるのも、試作機を作るのにも、莫大な金がかかる。でなければ〈カメレオン〉にしても、似たような物がとっくに他社で完成しているはずなのだ。
いぶかしんだ涼夏は、技術本部の人間に尋ねた。しかしそれは曖昧に誤魔化されるだけで、何かしらの不正やコンプライアンス違反的な物を感じさせられた。それも部長、課長レベルではない。役員レベルが認識している問題だ。
もし、そのまま放置しておいて。後から重大な情報漏洩などあっては、クォンタムが吹き飛んでしまうかもしれない。
そう考えた涼夏は、中多にも黙ったまま、技術本部の古い知り合いに当たった。結果として得たのがこの技術資料だったが、それは〈カメレオン〉の性能を表した内部資料に過ぎなかった。
しかし断片的に、開発チームの外に出てこないであろう言葉が、現れる。
レリック。そう呼ばれる、〈カメレオン〉技術のオリジナル要素を持った〈何か〉があるらしい。
それはわかった。
だが、その正体がわからない。
きっとそれは、久我が云っていたように、エグゾアと呼ばれる例の異常現象が発生する場所で発見された、オーパーツなのだろう。
ひょっとしたら、それが京香を救える力を持っているかもしれない。〈カメレオン〉のオリジナル体でなくとも、他に収集されたレリックの中に、そうした力を持つ物があるかもしれない。
それは一体、何処にあるのか? 〈カメレオン〉は何処で開発されているのか?
わからない。だがヒントはあった。
先日の事故の時、あの二人の運び屋を乗せ、向かうように云われた場所。
都心から少し離れた西方にある、厚木市だ。
だが涼夏の知る限り、クォンタムの研究所は、厚木にはない。
そこで涼夏は経営資料を開き、厚木市内の不動産に関わる支払いがないか、調べてみることにした。
社内の経理システムに接続し、情報を検索していく。すると、該当しそうな取引が、一つだけあった。五年ほど前から、研究開発関連物品の仮置き場として一つの倉庫が借りられ、以来、そのままになっている。
次いで涼夏は、通信会社との取引を調べた。今では会社の拠点があるのであれば、それはどんな小さな場所であっても、必ずネットワーク接続が必要になる。
やはり、あった。涼夏はそのデータを携え、隣の島にある情報システム部門に向かう。
「ねぇ、ちょっと」見知ったエンジニアを捕まえ、回線契約情報を表示させたパッドを突き出す。「この回線なんだけど、何? この場所はただの資材仮置きの倉庫みたいなんだけど。何で回線がいるの? 経営監査で突っ込まれたんだけど」
彼は軽く首をかしげ、社内ネットワーク図らしいものを開き、その経路を改めた。
「かなり古い回線なんで、良くわかんないすね。ちょっと叩いてみます」
「叩く?」
「あぁ、向こう側に何があるか。見てみますってこと」彼は様々なツールを開いて何事かをやっていたが、数分すると、うぅん、と唸り声を上げて頭を掻いた。「なんだこれ。変だな」
「何が?」
「向こうからこっち向きの通信はオッケーなのに、こっちから向こうの通信は全部遮断されてるんすよ。変だなぁ、ネットワークポリシー的に、そんなのあり得ないんだけど」
「どういうこと?」
「だって。本社のシステムが大事で、拠点側は危険。でしょ? ちゃんと監視出来てない場所かもしれないから。普通は、こっちから向こうの通信はオーケーで、逆は本当に必要なのしか許可しない。そうなってないと駄目なのに」
「どうしてそうなってるか、調べられる?」
うぅん、と彼は渋そうな声をあげた。
「ちょっと現地行ってみないと、わかんないすね。何処が借りてるんです?」
技術本部。だがそれを云ったら、彼が向こうに問い合わせを入れ、警戒される恐れがある。
「いいわよ。私も現地行ってみるつもりだったから。ちなみにそこって、入退室管理ってどうなってるの?」
彼は再び幾つかのファイルを開き、答えた。
「本社システムと連動してるっぽいですねぇ」
「じゃあ私のカードでも入れるわね」
「部長以上は全オッケーだから。行けるはずですよ」そして彼は、再び首をかしげた。「変なとこだなぁここ。倉庫じゃなかったんすか? 何でウチの入退室管理システムに繋がってるんです?」
涼夏は適当に誤魔化し、ジャケットを掴んでオフィスを出た。とにかく今の状況では、現地に行ってみる以外になさそうだった。
全損したアルファ・ロメオに代わる代車を走らせ、一時間ほど。たどり着いたのは田園の中にぽつんとある倉庫で、学校の体育館ほどの大きさがある。事務所らしい部分の窓が幾つかあったが、全てブラインドが下ろされていて中の様子は窺えない。車を陰に停めて暫く眺めていたが、人の出入りも全くなかった。
既に日が陰り、瞬く間に暗闇に包まれてくる。それでも明かりが灯る気配はなく、倉庫は完全に、闇に飲まれていた。
そう、涼香の推理が正しければ、ここはクォンタムのレリック研究所なはずだ。であればもっと人の出入りがあっていいはずだし、警備も厳重なはず。
そこでふと、中多の言葉を思い出した。
『危ないとは思わなかったんだ。他にも〈異物〉を調べてる所があるなんて考えてもみなかったし、他に秘密の守れる人物を探す暇もなかった』
つまり、クォンタムはレリックを重要と考えていても、それほど厳重な警備が必要とは考えていなかった?
それはそうだ、涼香だって、まさか企業秘密を盗むために、車で突っ込まれ。人一人殺されるような事があるだなんて、考えてもみなかった。
そして、昨日の今日だ。まだクォンタムは、レリックの警備を、固められていない。
だとすれば今をおいて、ほかにチャンスはない。
涼香は思い切って扉を開くと、心細さを感じつつ、車ばかりが行き交う道路を渡り、倉庫に歩み寄っていく。未だに人の気配はまるでない。監視カメラも見当たらない。目についたのは、クォンタムの入退室管理システムのロゴが貼られたカードリーダーだけ。
涼香は軽く辺りを見渡し、人影がないことを確認してから、思い切って社員証をリーダーにかざす。
ピッ、という聞きなれた電子音。次いで扉の錠が外れる音がして、涼香は戸惑いつつも、ノブに手をかけた。
内部は更なる暗闇。携帯を取り出し画面を明るくし、照明代わりにする。
殆ど人が出入りした形跡はない。床に埃が積もっていて、僅かに幾つかの足跡が続いている。それを辿って通路を進んでいくと、全てが一つの扉の前で途切れている。
恐る恐るドアノブに手をかけ、回す。鍵はなく、向こうは倉庫の本体らしかった。
高い天井。広々とした暗い空間。無数の什器棚が並べられ、無数の段ボールや剥き出しの機械が積まれている。
ここに何があるにせよ、これでは探しようがない。
そう当惑したが、無為に足を進めていると、奥の方は多少の空間があり、綺麗なボックス型の格納庫があるのに気が付いた。
小さなプレハブほどの大きさがある。そこにもやはりカードリーダーが付いていて、問題なく涼香の社員証に反応した。
コン、と小さな音を発し、スルスルと横に開いていく扉。そして不意に内部の照明が自動的に灯り、涼香は驚くと同時に、慌てて辺りを見渡した。
だが、それ以上の変化はない。グッと唇を噛みしめ、格納庫に足を踏み入れる。見渡すほどの広さもない。ただ全面が陶器のような材質で覆われ、しっかりとした構造だった。
それ自体が、収納扉になっているらしい。開閉用のボタンらしき物を見つけ、軽く手を置く。やはり、コン、という小さな音を発し、壁は左右に分かれていった。
そして灯る、内部の明かり。
途端に涼香は驚きに息をのみ、ひっ、と声をあげてしまっていた。
そこにあったもの。それはアクリル容器のようなものに包まれた、下着姿の男、だった。
すぐにそれは完全に硬直し、意思を持っていないことがわかる。瞳は完全に閉じられ、顔は青白く、蝋人形のようにも、死体のようにも見えた。
だが何れにせよ、尋常な物ではない。右腕には何かのチューブが差し込まれ、左腕にはガラスのような物体が付いた機械が装着されている。
涼香はとにかく、震える手で携帯を操作し、シャッターを切りまくった。
何が何だかわからないが、この証拠さえあれば、中多もシラを切れなくなるはず。
夢中で、可能な角度から、ひたすらに画像を確保し続ける。
どれくらい経ったろう。携帯の画面を凝視していた涼香は、不意な異常が起きていることに気が付いた。
半裸の、三十代くらいの、これといった特徴のない顔の男。
その姿が不意に揺らぎ、薄れ、透明に、なっていく。
完全に消え去る男。ただ、何もない空間を、茫然と見つめる涼香。しかし変化は再び現れ、空間が揺らぎ、男は次第に、実体を表し。最後は元通りの姿を晒していた。
カメレオン。
涼香はその一部始終を動画に収めると、不意に我に返り、辺りを見渡し、足早に倉庫を後にした。




