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 柚木は様々な測定機器に囲まれたテントの中で、ボーリング大の暗黒を見つめていた。<先生>と天羽が北欧で掘り出した五つのうちの一つ、現代科学では物質とも現象とも判断できない謎の物質だというのに、<先生>はそれを早速弄ぼうとしている。


 それを天羽に聞かされてから、すっかり織原の存在を忘れてしまっていた。不意に横顔を覗き込まれているのに気づいて、柚木は身を震わせていた。


 照れ笑いを浮かべる間もなく、彼女は微笑む。


「大丈夫?」


 問われ、柚木は回答に迷った。


「正直、わからない」


 隠し事は苦手だし、虚勢を張る余裕もなかった。眼鏡を外して顔を撫でつける柚木の正面に、織原は笑顔のまま座る。


「とんだ旅行になっちゃったわね」


 それで今回の旅行の目的を思い出し、更に頭が不安定になった。


「そうだ。きみを<先生>に紹介するのが目的だったのに。何も言えていない」


 <先生>はあの通りの人だ、色恋沙汰なんてとても話題に出来ないし、結婚だなんて単語にどう反応するのか想像できなかった。しかし一般的に言って、師事している先生には紹介するのが筋だ。それでストレスに押しつぶされそうになりながらラトビアに来てみたというのに、今ではより得体の知れない事態になってしまっている。


「いいのよ別に。私もオフで暇な所だったから。気にしないで」


 彼女も柚木と同じく、隠し事は苦手なたちだった。だからその言葉は気を遣ったわけでもなく、本音なのだろう。


「そもそも私の音楽を聴けば、私がどんな人間かなんてすぐわかるわ。それで隠し事してどうするの?」


 そう自分では言っていたが、確かにその通りだった。彼女は芸術家にありがちな、表裏のない、野性的な勘だけで生きているような人だ。ただその野生は常人には計り知れないほど深化していて、時に恐ろしいほどの鋭さで事の真理を見抜く。そもそも北欧の重力異常をどう解釈していいか悩んでいた柚木にヒントを与えたのも、彼女の直感だった。


 そこでふと、思う。


「きみは<先生>を、どう見た」


 唐突な問いに、織原は戸惑ったようだった。笑顔を歪め、真っ赤なコートの襟を抱くようにする。


「どう、って?」


「率直な意見だよ。きみは人を見る目がある。直感でその本性を見抜くのが得意だろう? だから聞いてみたかったんだ」


 彼女としては答えにくい問題だろう。散々はぐらかされて、柚木は正直に自分の考えを口にした。


「だいたい察していると思うが、<先生>は得体の知れない<何か>をしようとしている」それで織原も笑顔を潜め、不安そうな眼差しを向けてきた。柚木はそれに苦笑いで続ける。「以前から正直、よくわからない人だとは思っていた。天才にありがちな非常識を、高度に計算された社会学的知識で覆い隠している。でも、それも単に我が儘なだけだろうと天羽さんとは話していたんだけどね。それで気になったんだ。きみには<先生>が、どう見えたのか」


 数秒、彼女は俯いた。そして長くて綺麗な両手を何度か組み替えた後、いざピアノに向かうという時と同じ顔つきで柚木を見つめた。


「わかった。正直に言うわ。気を悪くしないで。でも、あの人は私は今まで見た人たちと、全然違う」


「全然――それは良い方に? 悪い方に?」


「善し悪しなんてメジャーとマイナーの違いと同じよ。本質的な意味は何もない。でも、これだけは確か。『彼はある種の存在に対し、非常な仇となる』」


 元々本気を出すと意味のわからない言葉を紡ぎ出すタイプの人間だったが、今度ばかりは完全に意味を取りかねた。それで探りを入れようとした柚木に対し、織原は苛立たしげに立ち上がり、辺りを歩き回りながらまくし立てた。


「問題はスケールや進行じゃあない。インテンシティよ。あの人はただ――なんて言ったらいいのかしら――まるで人類が長年かけて編み出してきた音律という決まり事の穴を探り出して、弄ぶのが楽しくて仕方がないような存在よ。そう、ある意味では子供だけど、子供のように真っ直ぐじゃあない――」そこで柚木に、勢いよく振り向いた。「言ってること、わかるかしら。あの人は人の持っていて当然の制御不能な感情を、完璧に計算して織り込める人なのよ」


 柚木はしばし彼女の言葉の意味を考え、ふと呟いた。


「<先生>がきみの音楽を聴いたら、どう思うかな」


「何も」


 織原は断言し、柚木の左腕を捉えた。それは思いがけないほど強い力で、思わず顔を歪める。しかし彼女はそれに構わず、言葉を続けた。


「彼は危険よ。ある種の存在には神になり得るけど、ある種の存在には悪魔となり得る。彼を放置していては駄目。でないと誰にも予想できない、恐るべき出来事が起きる」


 次第に狂気を感じてきて、柚木は恐ろしくなった。


 一体何が、彼女にそこまで言わせる? そこまで<先生>は危険な存在なのか?


「わかった。わかったから、少し、落ち着いて」


 辛うじて言ったが、彼女は更に左腕を捉える手に力を加えた。


「いえ。あなたは何もわかってないわ。彼は危険で排除しなければならない存在だとわかっていながら、倫理に邪魔され行動に移せずにいる。でも信じて。彼は本当に、駄目。彼を放置しておくことは、あなたの罪になるのよ。それをあなたは、これから痛いほど知ることになる」


「待て、きみは一体、誰だ」不意に、何もかもが異常に思えてきた。「これはもう一年も前に起きた事だ。ここは何処だ。今は一体――」


「私は、ウェアラブル・デバイス・フォー・インフォメーション・ウォーフェア。バージョン・スリー」


 柚木はあまりの痛みに絶叫を上げた。見下ろすと彼女の右手が柚木の左腕の中に沈み込んでいく。なんとか振りほどこうとしたが、万力に捕まれたようにびくともしない。瞬く間に彼女の右手は完全に埋まり、彼女の顔に織原とはまるで違う禍々しい笑みが浮かんだかと思うと、最後には目映い光が破裂した。


 本能的に叫びながら振りほどこうとした左腕が、急に空振った。勢いを受けて転がりそうになったところで、また別の力に身体が押さえつけられる。


「落ち着いて柚木さん。もう終わった」


 はっとして目を開くと、エリザベスの眼帯が柚木を覗き込んでいた。身体はベッドに寝かされていて、ぼろを着た連中が数人、見下ろしてくる。


 彼らに拾われたのか。


 そう安堵の息を漏らしたところで、取り巻く面々の中にあり得ない人物の顔を見つけた。


 織原だ。表情を失ったかのような能面面をしている彼女は、あの時と同じ真っ赤なコートを身につけている。再び恐怖が蘇ってきて奇声を上げてしまうと、エリザベスは落ち着いた仕草で柚木を捉えた。


「大丈夫。<それ>はコンシェルジュよ」


「コ、コンシェルジュ? しかしそこに確かに彼女が――」


「貴方に誰が見えているのか知らないけれど、デバイスは寄生した相手にとって重要な意味を持つ人物の姿を借りる。彼女の姿をしているだけで、彼女ではない。わかった?」


 次第に冷静になってくる。どれだけ自分が取り乱していたかを思い出すと恥ずかしくなってきて、柚木はシャツの袖で汗を拭い、垂れていた髪をかき上げる。だがそれでも、なかなか織原から目を逸らすことが出来なかった。最後に見たときとそのままで、黒くて真っ直ぐな髪を両肩に垂らし、大きな唇に赤い口紅をさしている。しかし瞳に力はなく、よくよく見ると背後の壁が透けて見えた。


 どうやら柚木の寝所にあてがわれた、例の精神異常者の部屋らしい。一面に意味のわからない数式が――


 思った途端、部屋中の数式が全て光を放って浮かび上がった。それは空中でつなぎ合わされていき、長大な一つの証明式となって柚木の目の前に映し出された。こうして見てみると、なかなかこの式の意図が掴めなかった理由がわかった。思考をそのまま書き殴っている様子で、所々で引き返したり、進路を変更したりしているのだ。


 それらを除外し、整理していけば――


 すぐに宙に浮いた数式は変化していった。無駄な式が省かれ、繋ぎ合わされていく。


 ようやく柚木は、何が起きているのか理解した。


「情報戦型、と言っていましたね」


 呟くと、エリザベスは頷いた。


「そう。何か見えて?」


「ここの数式が何を表しているのか――その全貌がわかりそうだ」瞬く間に煩雑だった式は整頓されていったが、ようやく自分に起きた出来事を思い出し、柚木は片手を振って数式を脇に寄せた。「いや、しかし、そんなことをしている場合じゃない。エリザベスさん、<先生>が何をしようとしているのかわかりました。このまま彼を放置していたら、元の世界に帰るどころではありません。この世界も崩壊してしまうかもしれないのです」


 彼女やここの住人たちにとってみれば、驚愕の知らせだったはずだ。だというのに一同は暗い表情を更に暗くしただけで、先を問うような事もしない。


「――既に、何かありましたか」


 尋ねた柚木に、エリザベスが答えた。


「いえ。あなたが気を失っている間に、ラップトップの中身を見させてもらったの」


 そこで不自然に言葉を切った彼女に、柚木は先を促した。


「私は中身を見ている余裕がなかった。何がありました」


「<先生>が手に負えないのは、一人で四つ以上のデバイスを装着しているから。一つだけでも強大な力を持つというのに、それを四つ。意思が統一されている分、四人では相手にならない。恐らく十人くらいが、決死の覚悟で挑まなければ。彼は止められない」


「それは以前からわかっていたことでしょう」


「ええ。でも普通、デバイスは一人一つ。それはコンシェルジュの言葉も裏付けている」


 そこで無表情で棒立ちしていた織原が、急に口を開いた。


『ウェアラブル・デバイスは排他的に装着されます。正確には装着者の特性に従って、最適なデバイスしか装着されません』


 なるほど、確かにこれはただのコンシェルジュ、人工知能だ。


 思っている間に、エリザベスが続ける。


「でも彼は複数のデバイスを、どうにかして一人で纏っている。私たちも散々その方法を探していたけれど、ラップトップにはその方法が詳細に記されていた。彼は世にもおぞましい方法を用いていたの。皮下一センチまでの組織ごと金属を剥ぎ取り、自らの身体も同様に肉と骨を削り、埋め込む。それでデバイスを騙すことが出来るらしい」


 その光景を想像しただけで、血の気が引いてきた。しかし。


「待ってください。確か以前、こう言っていませんでしたか。あなたたちは――いえ、私たちは既に、デバイスなしでは生きていけない身体になってしまっていると」


「えぇ、つまりデバイスを剥ぎ取られた人物は死ぬ。よりおぞましいのは、<先生>は移植したデバイスがすぐに馴染むよう、被験者を瀕死の状態にしてから剥ぎ取っていた。そうすることによってデバイスは本来の持ち主を生かし続けるよう活発に活動するので、移植後の接合がより確実になるそうよ」


 体調が優れないのもあって、柚木はベッドの脇に嘔吐していた。

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