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 レーザー装置を固定し、放たれたレーザーが分離されるようプリズムを設置し、それぞれが鏡で反射されフォトダイオードに集約されるよう調整する。しかしダイオードが検知した信号を表示するためのオシロスコープは、ディスプレイが壊れてしまっていた。仕方がなくオシロスコープの信号をパソコンに取り込もうとしたが、今度はコンバーターが見当たらない。手元にある基盤類でなんとかしようと四苦八苦している間に、五時間たってしまったらしい。再び現れた先生に、ついさっき出たばかりの数値を指し示して見せる。


「光速は――我々の知る光速は約三十万キロメートル毎秒ですが、ここでは二十四万キロメートル毎秒、誤差はプラマイ三パーセントといったところです」


 <先生>は顎髭を撫でながら装置の出来映えと各種数値を改め、結局は妥当だと判断したらしい。柚木が測定した五桁の数字をメモ帳に書き留めると、相変わらず核サイロの中央で蠢いているヴォイドに向かった。


 ヴォイドの周囲は、円形に繋がれたパイプで仕切られていた。直径十センチ程度のもので、等間隔に電磁コイルのような物が巻かれている。


「これはまさか、粒子加速器ですか」


 見覚えのある形状に尋ねると、<先生>は装置に接続されたパソコンにメモ帳の数値を入力しつつ答えた。


「まぁ、そんな物かな」


「これで何を?」


 答える前に、<先生>はコンソールのキーを軽く叩く。途端に装置全体がうなり声を立て始め、それに応じるかのようにヴォイドも痙攣した。装置の音が甲高くなるにつれてヴォイドは四方に投げ出していた触手を縮めはじめ、次第に完全な球体に近づいていく。そして中央に、何かが見え始めた。漆黒の真ん中に、淡い光が浮かび上がってくる。


 あれは何だろう。


 そう思った瞬間、装置の一部が火を上げて弾けた。すぐにヴォイドは元のように蠢き始め、<先生>は眉間に皺を寄せつつ、燻っている装置に右手を向けた。そこから放射されたのは、何らかの不可燃性ガスだろう。たちどころに火は消え、<先生>はコイルに歩み寄って被害状況を改める。


「やっぱり電圧が不安定だなぁ。どうしよう。柚木くん、電気は詳しい?」


 どうやら<先生>は、ヴォイドに強力な荷電粒子をぶつけようとしているらしい。それだけはわかった。しかしそれで何を期待しているのかは、さっぱりわからない。


「ヴォイドは強力な荷電粒子に反応していた。何故ですか」


 当惑しながら尋ねた柚木に、<先生>は例の相手を馬鹿にしたような笑みを浮かべながら答えた。


「さぁ」


「さぁ?」


「よくわかんないんだけど、前にここでプラズマを放射することがあってね。そうしたら妙な動きをしたから。もっと強力な荷電粒子を当てたらどうなるかな、って。それだけ」


 それだけ?


 柚木はここに来てから何度も感じているデジャヴュを、またしても感じた。


 <先生>は以前ラトビアでやろうとしたことを、またやろうとしている。仮説に対する結果ではなく、結果を見てから仮説を立てようとしている。それがどんなに危険なことか、十分に承知しながら。


「<先生>」柚木は震える声を無理に押しとどめつつ、尋ねた。「<先生>はここがどこか、わかっているのですか」


 彼は回路の損傷具合を改める手を止め、柚木に目を向けた。


「どうしてそれが重要なの?」


「どうして? いや、それは、ここがどういう存在で、どういう意義があるのかがわからなければ、その構成要素の一つであるヴォイドについて何か試そうとしたところで――」


「意義?」<先生>は半ば金属で隠された頬を歪め、苦笑いした。「前にも言ったと思うけど、意義なんて定数じゃあないんだ。変数だよ。誰かにとっては有益、誰かにとっては無益、誰かにとってはむしろ有害――それを判断するのは<誰か>であって、判断するための重要な素材を提供するのが科学者の役割なの」


「しかし、その素材が<誰か>を滅ぼす物だとしたら?」


「その程度で滅ぶような存在は、いずれ滅ぶよ」


 ようやく柚木は、<先生>が一言も柚木と天羽を責めなかった理由が理解できた。<先生>は二人が人類の構成要素の一つだと捉え、その二人が実験を阻害しえたならば、それは人類自体が<判断するための素材>を拒否したことと同義としているのだ。


 この人は自分の存在すらも、人類の今後を占うリトマス試験紙のように捉えている。


 この天才が、人類の未来を試す存在。


 危険だ。危険すぎる。


「ならば、今、ここで私が<先生>を邪魔したならば、それもまた許されるのですか」


 柚木の決死の問いに、彼は僅かに黙り込んだ。それは肯定の沈黙のように思えたが、続けて彼は別のことを口にし始めた。


「ここがどこか? 想定がない訳じゃないよ。ここは<AND>なんだ」


 何のことかわからず、柚木は混乱した。


「<AND>? 論理演算の論理和のことですか」


「そう。我々の世界」と、右手の親指と人差し指で円を作る。「そしてあっちの世界」と、左手で円を作る。「それが重なり合った領域」と、二つの円の一部を知恵の輪のように重ねてみせる。「論理演算で言うところの論理和のような世界。ここはそう捉えるのが妥当だろうね。空間は我々の世界だけれど、物理法則は彼らの世界の物が適応されている。あの白い壁の向こう側にいる連中は我々の世界にある物が欲しいけど、直接干渉することが出来ない。生化学的に生存できない種なのかな。だからこんな中間領域を作って転移させた」


「中間領域」


「彼らは遙か以前から、我々の世界の存在を知っていた。彼らの世界と我々の世界は<OR>の関係にあったんだ。二つの世界は重力でもって繋がっている。そして彼らは重力波を我々の世界に送り込めば、その一部、あるいは全てを得ることが可能だと知った。そしてそれを実行していた。我々の世界の時間で、何千年、あるいは何万年もかけてね」


「そ、それは私も推理していました」


「そう。それを知った君によって、彼らの企みは妨害された」特に何の感情も見せず、彼は言った。「しかし彼らはそれによって、新たな方法を知った。何千年もかけて一度に地球を転移させなくとも、共振周波数を使えば、部分的ではあるけれども短時間で奪い取ることが出来ると知った」


 <先生>の言葉を聞いているうちに、柚木は次第に血の気が失せ、頭の中が真っ白になった。


『私たちは余計な事をしてしまった。私たちは彼らに、より効果的な手段を教授してしまったのよ』


 そういえば天羽が、そんなことを言っていた。きっとそれはレッドによって、彼らの知識がもたらされた結果なのだろう。


「つまり、彼らが今、こんなことを始めた原因は、君にあるということだね。君が彼らに、より効果的に我々の世界を奪い取る方法を教えたんだ」


 まるで授業で一つの証明を終えたかのように言った<先生>に、柚木は目が回り、気が遠くなり、床に倒れ込んだ。


 どれだけ失神していたのだろう。目を覚ますと柚木は実験場内にあるソファーに横たわっていた。起き上がった瞬間に首が痛み、右足に痙攣が走る。それでそろそろと体を捩って立ち上がったが、<先生>の姿は見えなかった。


 エレベータで地上に向かう。そして針葉樹の森を見渡すと、核サイロの背後側にある天球の壁に、何か黒い亀裂が入っているのに気がついた。


 来るときにはなかったはず。思いながら向かっていく。問題の切れ目は他のエリアへと繋がる境界と同じような大きさだったが、外側には何もなく、真っ黒に塗りつぶされているだけのように見える。


 間近に近づいて覗き込んでみると、ただ黒いだけではないのがわかった。こちらの光が入り込んで、やや奥が窺える。そこは酷い荒れ地のようだった。焼け焦げた金属、溶けたケイ素類などが混じり合い一体化していて、まるで焼夷弾の雨でも受けたかのような有様だった。


「新しいエリアか?」


 それにしては、真っ白な壁が存在しない。手を伸ばしてみると、何か透明なガラスのような物に遮られた。壁は壁のままで、まだ存在しているらしい。


「一体何処から来たエリアだろう。これほど荒廃した土地なんて」


 呟いたとき、背後に人の気配を感じた。振り向くと<先生>が歩み寄ってきて、金属に覆われた右手で柚木を押しのけ、暗がりの中を覗き込んだ。


「まだだよ。これから」


 相変わらず端的すぎて、よくわからない。言葉の意味を取ろうと必死に頭を巡らせていると、<先生>は脇に抱えていた紙袋を柚木に差し出した。


「そうだ。これ。お腹空いたでしょう」


「あ、ありがとうございます」携帯食料の類いだろう。受け取ってポケットに突っ込んだ頃、ようやく冒頭の<先生>の言葉の意味に近づいた。「つまりこの闇の世界が、<彼ら>の世界なのですか」


 <先生>は顎髭を撫でつつ応じた。


「それはないんじゃないかな。新しいエリアを地球から奪い取るとき、五十時間くらい前からこうした<器>が作り出されるっぽい。互いの世界の物理法則の違いを吸収する空間を作ってるんだろうね。それでそれが完成したら――」右手と左手の位置を、入れ替えて見せた。「それが互いの世界を損傷させない、一番の方法だろうね」


「つまり<彼らの世界>は、我々には認知しえない物なんでしょうか」


 言った柚木に、<先生>は吹き出した。


「当然だよ。物理法則が違う宇宙だよ? わかるわけないじゃん。この白い壁を壊したら――まぁ不可能だと思うけど――一体どんなことになるか。相当わけがわからないことになると思うよ」


「そこまでわかっていながら、<先生>は、あの得体の知れないヴォイドには手を出すのですか。そもそもあれは何なんですか?」


 食い下がった柚木に、相変わらず<先生>は理解の遅い生徒に呆れた様子で腕組みした。


「ちゃんと考えてみたの? 駄目よそうやって他人の考えばかりに頼っちゃ」口答えしようとした柚木を遮り、<先生>は続けた。「簡単だよ。ヴォイドは最初に彼らの世界と我々の世界が入れ替わった時に現れた。それから?」


 それから?


 意味がわからず硬直した柚木に、<先生>は苦笑いで頭を振った。


「いい? 他のエリアにヴォイドがあった?」


 あぁ!


 柚木は瞬時に理解して、声を上げていた。


「つまり最初に私が<空間交換>の引き金を引いた時、彼らの世界には互いの物理法則の違いを吸収するクッション――<器>なんて存在していなかった。だから強引に我々の世界と彼らの世界が入れ替わることになり、その結果としてヴォイドが生み出された。つまりあれは――彼らの世界が我々の世界に露出した物――?」


 <先生>は満足そうに、顎髭を引っ張った。


「そういうことだと思うよ。彼らはこの白い壁でOR世界を隔てることで安全だろうと考えたんだろうけれど、最初だけはそれが出来なかった。つまり多分あれは、我々の世界と彼らの世界を直接繋いでいる唯一の接点――インターセクションなんだろうと思うよ」


 それだけ言うと、<先生>は踵を返して核サイロに戻っていく。柚木はとても我慢ならず、右足を引きずりながら彼に追いすがった。


「それが本当なのだとしたら、ヴォイドを下手に操作することは、この白い壁を破壊することと同義だ。このORの世界すら破壊することに繋がりませんか。もしあの暗黒の口が開いて、彼らの世界と繋がってしまったなら――互いの世界の物理法則が破綻し、制御不能な状態に――」


「そうね。どんなことになるか、楽しそうじゃない」


 にやりと笑う。


 もはや言葉も継げずに立ち尽くしていた柚木に、<先生>は言葉を加えた。


「でもねぇ、彼らもこんな問題を残したまま我々の世界を侵略するほど馬鹿じゃないと思うんだよね。何かしら考えてると思うよ? 例えばこの白い壁と似たような、何かしらのフィールドで自身の周囲だけ空間の欠片シャードを保持するデバイスとか。あってもいいと思うんだよね。それがあれば好きに<彼ら>の世界には入れるのに。探してはいるんだけど見つからないんだよなぁ。柚木君、それ、探してみる?」


 駄目だ。もう、この人にはついていけない。


 柚木は<先生>が去るに任せ、その姿が見えなくなってから呟いた。


「ヴィソツキーくん、聞いているだろう。君には何のことかわからなかったろうが、<先生>は相当に危険なことを企んでいる。至急エリザベスさんに、攻撃の手筈を立てさせるべきだ。どれだけの犠牲を払ったとしても、<先生>は止めなきゃならない」


 核サイロに戻ると、<先生>は破損した加速器の修理を試みていた。しかしやがて大きくため息を吐くと、首をひねりつつ言った。


「柚木君、もう少し光速の測定精度を上げておいてもらえる? どうも怪しいんだよね」


「わかりました」


 柚木は素知らぬ風を装って、お手製の装置に少し手を入れてから光速の測定を始める。実験は最低限三回の測定結果を元にしなければならない。大抵はそれで根本的な思い違いをしているか、概ね正しい方向に向かっているのかがわかる。しかし柚木は三度の測定を行った後、不可思議な値に頭を悩ますことになった。


 最初、光速は約二十四万キロメートル毎秒と出ていた。しかし次は二十、その次は三十と安定しない。装置を見直してみたが、そんな誤差が出る要素は見当たらなかった。そして最終的に光パルスの測定データを生で見てみることで、ようやく理由がわかった。


 ここの光速は一定じゃあない。揺らいでいるのだ。


 とてもこれでは、精度の高い実験など何一つ出来るはずがない。<先生>の加速器にしてもそうだ。有名な公式にもあるように、E=MCの二乗、すなわちエネルギーは光速に依存しており、それが変数であるならば質量の持つ正確なエネルギー値を見積もれず、先ほどのように回路がオーバーロードすることなんて簡単に起きる。


 さすがに<先生>も、光速が変わる宇宙なんて想定できなかったのだろう。声をかけようと顔を上げてみたが、<先生>の姿は消えてしまっていた。


 そこで柚木は、今がその時だと悟った。


 すぐに昨日コンピュータに仕掛けていたサーチの結果を改める。有意そうなデータは拾い上げられている。あたりを探し用途に耐えそうなラップトップを見つけると、早速それにデータのコピーを始めた。


 他に使えそうな物がないかと実験場を一巡りすると、ヴォイドの周囲に巡らされた簡易加速器の脇で3Dプリンターが稼働しているのに気づいた。一体何を作っているのだろうかと覗き込むと、それは形状からして加速器に電子を放つ電子銃用の碍子らしかった。柚木もそこが怪しいと睨んでいた。<先生>も加速器の性能を向上させる方法を既に考えつき、製作に取りかかっている。


 完成まで、半日もかからないだろう。柚木はデータのコピーが終わっているのを確かめると、すぐにラップトップを掴んでエレベータへと向かった。


 いつ<先生>が姿を現すのではと気が気ではなかったが、アルゼンチンへの接続点が見えてきて、ようやく安堵する。首も背中も腰も、限界に近かった。それでも無理に早足で接続点を潜りヴィソツキーの姿を探したが、何処にも人影はない。彼への伝言が徒になってしまったようだ。きっと急を伝えに鬼城へ戻ったのだろう。


 仕方がなく柚木はあえて最短距離を避け、枯れたり焼けたりしている空虚な森の方へと足を向けた。<先生>には<目>がないと言っていた。それでも何かしらの能力はあるのだろうが、何もしないよりはましだ。足場の悪い砂利道や瓦礫を超え、辺りに散らばっている金属を避けながら木々の間に入り込むと、すぐに足腰が痺れて前進がままらなくなってきた。諦めて灌木の中に身を潜め、座り込む。


 途端に腹の虫が鳴いて空腹を訴えた。そういえば<先生>から携帯食料をもらっていた。それを思い出してポケットから紙袋を取り出し中を改めると、すぐに柚木は<先生>の言葉の意味を取り違えていたことに気がついた。


『お腹空いたでしょう』


 それはつまり、さっさと<金属>を身につけろという意味だったのだ。


 天羽の時と同じように、青白く光り輝く糸が五本の指に絡みついた。すぐに振りほどこうとするが、やはり効果はない。紙袋の中から現れた金属はあっという間に柚木の左腕に吸い寄せられていき、目映い閃光に全身が包まれた。

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