第十一話 タイム・リミット
どうなってるんだ。一体何が、どうなってる。
異常に次ぐ異常で、久我の頭は完全にパンク寸前になっていた。だから柚木に、場所を移そう、と云われても、ただ頷くことしか出来なくなっていた。
彼はいつものように、右足を引き摺りながら病院を出る。そして駐車場に停めてあったキャブコン(キャンピングカー)に歩み寄り、後部ハッチを開いた。
内部は片面に様々な電子機器が満載され、片面がベッドになっている。軍にもあった、簡易移動作戦室のようだ。柚木は車内を奥まで進むと、固定されている椅子に座り、久我をベッドに促した。
「狭くて悪いね。国内の道路事情を考えると、このサイズが限界でね」そして脂汗を流し黙り込んでいる久我に、引きつった笑みを浮かべて見せた。「そう構えなくていい。私はそう、悪くない提案をしているつもりだ。きっとお互い、良い妥協点を見つけられると思う」
「いいか?」久我は鋭く口を開いた。「あれは事故だったんだ」
「事故?」
「あぁ。そう、確かにオレは、〈異物〉を横流ししていた。それは認める。だが八重樫が死んだのは、事故だったんだ。そもそもアイツが、オレを実験台にしやがったんだ!」
この窮地は、もう逃れられない。
そう考えた久我は、とにかく軽いダメージで済むよう、一昨日の夜にあった事を話した。湯島で発見した〈異物〉。それが何故か久我に反応し、八重樫はそれを傍観していたということ。
そして彼の死体は、プラズマで消し去ったことも。
「クソッ! 何もかも最悪だ!」思い出すうちに気分が高ぶってきて、久我は投げ出すように叫んでいた。「一体何が、どうなってんだ! オレは金遣いの荒い元嫁に慰謝料を吸い取られ、それでも可愛い娘のためだと我慢して。なんとかかんとか、予防局の少ない給料をやりくりして生きてきたってのに! なのにコレだ! クソッタレが! あぁ、確かに〈異物〉は横流ししてたさ。けどな、オレは〈異物〉なんて、ただのガラクタだとしか思ってなかったんだ! こんなヤバイ物なら、どうしてもっとオレたちに注意しなかったんだ? オレでなくたって、〈異物〉を横流ししようと思ったら、誰だって」
「そこまでする予算がなかった」不意に口を挟まれ、久我は黙り込んでしまった。「そう、キミの云う通り、キミが異常事態に巻き込まれてしまった事については、責任の一端は私にある。本来エグゾアの痕跡は、もっと厳重に封鎖し、もっと慎重に調査すべきだと私は考えている。しかしそれを行うほど、真の〈異物〉が発見される確率は高くない。私の知る限り、年に一つか二つ。それが精々だ。そのために、年五十数件発生するエグゾアの痕跡を、全て徹底封鎖することは出来ない。費用対効果の問題だ。加えて〈異物〉の本当の力について、キミたちに説明することも出来ない。こんなものが地球上に存在していると知れたら、既存の世界の安全保障体制が崩れかねない。危険過ぎる。そうは思わないか?」
整然と云われ、久我の頭も冷えてきた。ハッ、と笑い声を上げる余裕も戻ってくる。
「費用対効果ね。それでクビになってたんじゃ、世話がない」
「キミは何か勘違いしている。私は、こう云った。〈これにサインしなければ、クビにせざるを得ない〉と」そう、柚木は例の書類を再び久我に差し出した。「懲戒解雇は、あくまで〈異物〉の横領に対する処罰だ。しかしこれは、この書類にキミがサインしてくれれば回避される」
久我はそれでも良くわからず、首を傾げた。
「どうしてオレが上級専門職になれば、お目こぼししてもらえるんです」
「上級職は、〈異物〉の扱いをある程度自由に出来る職権がある。キミが八重樫の所にそれを持っていったのも、調査の一環ということで説明できる」
「だが、オレが持っていったのは、サインする前だ。まだしてないが」
「書類の日付というのは、便利な物でね。簡単に過去に遡る事が出来る」
久我は次第に、柚木の事がわかってきたような気がした。
彼は決まりを守ることに忠実だが、決まりのない部分については、自由に解釈する。まるで弁護士だ。どうやら彼は、その技術を使って。久我を危機から救い出そうとしてくれているようだ。
それがはっきりしてきて、久我は次第に落ち着いてきたが。それでも不安は残る。
「だが。八重樫の件は。どうなる」
慎重に尋ねた久我に、彼は脇から分厚いバインダーを取り出した。
「キミの云ったとおり、今の予防局の体制は、キミが被ったような事態を完璧に防ぐことは出来ない。だがその不備によって起きた出来事に対しては、予め手を打ってある。免責条項だ」
「免責だって?」
「あぁ。キミがもっと予防局の職務に熱心ならば、知っていたと思うんだがね。エグゾアや〈異物〉が原因となった、ありとあらゆる損害に対して。予防局及びその職員は、一切責任を負わない。ここだ」
法律用語的な独特の文字列が並んでいる一文。そこを指し示されても、久我はとても、読む気にはなれなかった。
「つまり、アレか? オレは八重樫が死んだ事に関して。何の責任もないのか?」
責任がない、とは、自分自身では思えない。だから当惑しつつ云った久我に、柚木はバインダーを閉じ、云った。
「法的にはね。それに確実ではないが、事件は事の性質上、公にされることもないと私は踏んでいる。ただ、キミの心理的な問題は、私には何とも云えない」
心理的な、問題。
そこで久我が黙り込んだ時、ふと、柚木は言葉を探るようにしながら、付け加えた。
「そしてこれに関しても、キミは心理的な葛藤を抱えることになるだろう。だが、云わなければならない。キミの娘さんの事だ」
「京香の事?」
嫌な予感をしつつ問い返した久我に、彼は一瞬俯き、そして無表情な顔を上げた。
「あぁ。彼女はあと、半月もすれば退院できるだろうが。そのままでは一年以内に、亡くなってしまうだろう」
亡くなってしまう?
一年以内に?
久我はまるでワケがわからず、口を開け放ち、硬直した。
「待ってくれ。待ってくれ」久我は必死に頭を巡らす。だがそれで、何かがわかるワケでもなかった。「京香が? 死ぬ? 一年以内? どうしてだ! さっきの医者は、何の問題もないって」
「それは私が、そう云って彼らを押さえ込んだからだ。実際、彼女の傷は、刻一刻と回復している。手術の必要もなかったほどだ。しかしキミの〈異物〉に。キミの娘さんを完璧に治すほどの力があるとは思えない」
「どうして!」
「過去にも似たような事があってね」そして顔を上げ、久我を見つめた。「キミはさっき、〈イルカ〉と云っていたな。それがキミのコンシェルジュか?」
「あ。あぁ。別に名づけちゃいないが、何となく」
「ではイルカに聞いてみるといい」
一体、何を。
思いつつ、焦りつつ、久我は柚木を目の端に留めながら云った。
「イルカ」ぱっ、と、久我の隣に現れる彼女。「オマエが京香に入れた万能細胞ジェルとかいうの。まさか何か、欠陥があったりしないだろうな」
『えっ?』当惑したように、彼女は云った。『欠陥って何。まさか、ちゃんと働かなかった?』
「いや、京香は回復してるようだが。何か一年くらいしか持たないような事を云ってる」
『あぁ。そりゃ当然だよ』
事も無げに云われ、久我は思わず叫んでいた。
「あぁ? 何だそりゃ! 何だってまた」
『だって私の機能じゃ、そこまで完璧な万能細胞を作れないもん。あくまで応急措置用。一年くらいで崩壊しちゃうから、今のうちにちゃんと治してもらってよ』
「ちゃんと治す? どうやってだ!」
イルカは口ごもり、顎に人差し指を当てた。
『医療型マルチウェア・デヴァイスなら対応機能があるんだけど。ひょっとしてアンタらの病院、その程度の技術力もないの?』
「どうして先にそれを云わなかった! どうして!」
『だって、アンタの頭ん中、あんま医療知識がないんだもん。何処までフォローしていいかわかんないし。しょうがないじゃん』
「消えろ!」苛立ち紛れに叫ぶ。そして柚木に目を戻した。「どういうことだ! どうして」
「聞いたとおりだ」彼は静かに云った。「キミが彼女に注入した万能細胞ジェルは、一年ほどしか保たない。残念ながら我々の科学力では、それに代わる治療は不可能だ」
「だが、医療型とかいう〈異物〉なら、治せるって云ってた。当然、予防局には。ソイツがあるんだろう? わかった! それを餌に、オレを何か上手く使おうって腹なんだろう! 止してくれ! そんな駆け引きに娘を使うなんて」
柚木は頭を振った。
「そんな事、私はやらない。私も医療型の存在は知っているが、実物は未だに未発見だ。私にも何も、どうしようもない」
未発見。
当惑し、ベッドに倒れ込む。
京香が。あと一年で、死ぬ、だって?
そんなこと。
そんなこと絶対、あって、いいはずがない。