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<先生>の元に戻るには、彼らが車から奪った機材がどうしても必要だった。最初エリザベスは酷く渋っていたが、結局柚木の提案が上手くいくかどうかに彼らの命運もかかっている。最終的に測定器類は柚木の手に戻り、車に積み込まれていった。
手伝ったのは、つい昨日まで瀕死だったはずのロシア人だ。ヴィソツキーというまだ二十代くらいの丸刈りにした痩身の軍人で、右手に四つの青いレンズの付いた金属が埋まっている。
「それは、どんな機能を?」
おぼつかないロシア語で尋ねたが、彼は仏頂面のまま答えなかった。状況は理解しているのだろうが、柚木を敵視しているのは明らかだった。
仕様なく周囲の様子を眺めつつ、軽い機材から車に載せていく。行き交う人々は怪訝そうな目で柚木を眺めていく。皆が薄汚れていたが、健康そうではあった。それも全てウェアラブル・デバイスと呼ばれる金属のおかげだろう。相当な老女も軽々と重い荷物を担ぎ、老人もビルの隔壁を素手で破壊して間取りを変えようとしている。
子供も数人いた。中学生くらいの子には鈍く光る金属が見受けられたが、それ以下の小学生くらいの子たちには一切痕跡がない。どうしたことだろうと眺めていた時、ヴィソツキーが咳払いして注意を引いた。大きくて彼一人では抱えられない代物を前にしている。慌てて彼に手を貸すと、ため息交じりで運びつつ言った。
「どういうわけか、ローティーンの餓鬼には付かない」
「何故?」
「知らないと言ってるだろ。おかげであいつらは、どれだけ生きられるかわからない。全部あんたのせいだ」
敵意を向けられて萎縮したが、少しでも情報が必要だと思い直し、一緒に荷物を下ろしつつ勇気を振り絞って言った。
「すまない。こんな状況は予想もしていなかった。ひょっとして君は、ラトビアから――」
「あぁ、いたさ。覚えてないのか。あんたには何度か飯を運んだんだけどな」俯く柚木に、これみよがしに舌打ちする。「日本人が何かの調査をやるってんで駆り集められて行ってみたら、こんな目に遭うとはな。なぁ、あんたは知ってるんだろ? ここは一体何処なんだ。何が起きてるんだ。この金属は何なんだ」
「すまないが、私も答えを持ち合わせていない」
「噂は本当だったのか? あんたらは何が起こるかもわからず、危ない実験をしたって」
「色々と事情はあったが、そう言われても仕方がない。なぁ、知っていたら教えてもらいたいんだが、あれから何があった。ここに飛ばされてから、<先生>に何をされた」
「何を? 逆だよ。奴は何もしなかった。例のニヤけ面であれこれ調べてただけだ。仕方がなく傭兵の偉そうな奴が仕切って、水が豊富にあるエリアが現れるまでの二ヶ月間、なんとか生き延びた。そのエリアに引っ越すことが決まった時も、どうせ何の役にも立たないからと置いていった。すぐに死んじまうだろうと思ってたが、いつの間にか手に負えない全身強化人間になっちまってる。まったく、たいした<先生>だぜ」
ヴィソツキーの怒りが自分に向かないかと身を縮めていたが、それから彼は黙々と、やや乱暴に機材を運び、あっという間に全てを積み終えていた。それで離れて行くものと思い込んでいたが、どうやらヴィソツキーはエリザベスから監視を言いつけられていたらしい。黙って運転席に乗ると、荷台に柚木を促す。
車はゲートを抜け、アルゼンチン、そしてラトビアへと向かっていく。どこまでついてくるつもりだろうと思っていると、彼はラトビアへと繋がる境界の手前で車を止め、四つあるうちのレンズの一つを取り外し、柚木に手渡そうとした。果たしてそんなものを触れてよいものかと躊躇していると、彼は苛立たしそうに柚木の腕を捉え、その手のひらにビー玉大の玉を置いた。
途端、それは手の中に沈み込んでいく。全く何の感触もない。それが逆に恐ろしく、柚木は慌てて右手を振って振り落とそうとした。しかし瞬く間にビー玉は消え、そこにあった痕跡すら残らなかった。
「情報戦型だ。これで俺には、お前の視覚聴覚が捉えた物、全てわかる」運転席から降り、煙草に火をつけてから言う。「あまり長く待つつもりはないからな。二日で戻らなきゃ、そいつを爆破させる」
右手をさすりながら身を縮めた柚木に、彼は声を出して笑った。冗談だったようにも思えるが、本気だった可能性も捨てきれない。
「そんな物を埋め込んで、<先生>にばれないかな」
辛うじて言うと、ヴィソツキーは近くの廃屋に入りつつ答えた。
「奴は<眼>を持ってない。持っているのはエリザベスだけだ。だから大丈夫」
「しかしこんな物があるなら、どうして<先生>に使わない。<先生>の死、それが君らの望みなんだろう? あの時、隙を見て<先生>に埋め込むことだって出来たはず――」
「無駄だ。デバイス持ちには通じない。だいたい<マーブル>は貴重なんだ。消耗させるなよ」
「マーブル?」
「デヴァイスには子機を扱える種類が幾つかあってな。その共通デヴァイスだ」彼は廃屋の中に使えそうなベッドを見つけ、座る。そして窓から覗き込んでいる柚木に言った。「そうだ。一つ頼みがあったんだ。一月前から、俺の友人、イワンが行方不明なんだ。多分奴に襲われたんだと思うが、死体も見つかってない。どうせ情報を集めるんだ、何かイワンに関する物もないか探ってきてくれないか」
「その人の姿形は?」
「子機に入れてある。イワン・アヴァーエフ」
言われた途端、脳裏に見覚えのない若者の顔が浮かんだ。ヴィソツキーよりなお若く、丸顔で愛嬌のある笑みを浮かべている。全く見覚えがない。だが確かに見た覚えがある。それで当惑していた柚木を見て、ヴィソツキーは満足そうにベッドに横たわった。
「それも子機の機能の一つだ。記憶の一部を渡すことができる。さぁ、行け。忘れるな? ちゃんと見ているぞ」
「――そして聞いているぞ、か」
柚木は虚ろに呟きつつ、車に戻り運転席に乗り込んだ。
<先生>も何らかの装置で境界を監視しているらしい。林道を抜けて敷地内に入っていくとエレベータが上がってきて、例の金属に覆われた胡散臭い笑顔で柚木を迎えた。彼は積み込まれた装置類を一眺めすると、柚木を促して車ごとエレベータに乗り込ませる。
「彼女は?」
尋ねられ、柚木は用意していた言葉を口にした。
「装置を積み替えている最中に、またロシア人たちに襲われて。天羽さんは捕まってしまったのだと思います」
特に興味を持たないだろうと思っていた。もし彼女のことを微塵でも心配していたなら、こんな危険な仕事などさせるはずがなかったからだ。
しかし予想が外れた。<先生>は顎髭を撫で――それは何かを考えるとき特有の仕草だ――柚木に言った。
「彼女に、何か起きなかった?」
「何か、とは?」
あの性格の変化を言っているのだろうか。そう素で問い返したのが良かったのだろう、<先生>はそこの裏にあった意図に気づかなかった様子で、核サイロの基部に車を誘導しつつ言った。
「少し早かったかな。まぁいいや。柚木くん、ここにある装置で光速を測定するには?」
「距離測定用のレーザー装置とオシロスコープはあります。あとはフォトダイオードがあれば五パーセントほどの精度で――」
「そこにある」様々な部品が積まれている机上を指し示し、<先生>は隔壁の向こうへ向かった。「五時間でやれるよね。まぁその時間が今は怪しいけど――体感でね」
<先生>の姿が見えなくなってから、柚木は素早くあたりを見渡した。そしてネットワークに繋がっているらしき端末を見つけると、どうにかしてログインできないか試みる。こういう所でも<先生>の奇妙な性格が露わになる。あの人はセキュリティーというものを、殆ど気にかけていないのだ。結局幾度か試して、adminというデフォルトパスワードでシステムに入り込めた。
内部には膨大なデータが蓄えられていたが、その殆どは生の測定データらしい。恐らく何処かにはそれらを整理した考察記録があるのだろうが、悠長に探っている余裕はなかった。柚木はサーチコマンドを発行してバックグラウンドで稼働させると、いつ戻ってくるともわからない<先生>のために、原始的な光速測定装置を作り始めた。




