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気圧図に似た不可解な等高線が、日本列島を覆っていた。単に衛星から得られる布図を見ていただけでは現れない、重力の裏の顔だ。
北欧で起きていた重力異常と似てはいたが、決定的に違う点が幾つかあった。観測していた限り、ヴォイドを生んだ重力異常は一定だった。しかし現在発生しているのは刻々と姿を変える。フィードを遡ってみると、この現象は以前にも起きていたらしい。はじめて現れたのは地中海で、次いでアメリカ中央部、そして太平洋上で起きている。ゆがみの大きさはまちまちだったが、半径は概ね百キロ程度。それは四十八から百二十時間程度で徐々に姿を変え、最後には唐突に消え去る。
現象が発生した地点の衛星写真を取り寄せてみたが、発生後のデータがまだ取得されていなかったり、そもそも解像度が低くてなにもわからなかったり、要領を得ない。実地に行って確かめてみたかったが、今はより差し迫った状況だ。日本列島を覆う異常が現れたのは六十時間前、つまり今すぐ消えてしまっても可笑しくないのだ。
柚木はこの現象が何を指し示しているのか必死に分析した。
まずは北欧の時に編み出したアルゴリズムを適用しようとしてみた。やはりこの重力異常は何処かしらの座標に、ヴォイドを生み出そうとしているのではないだろうか。そう考えたのだ。
しかし、どうにも適合しない。何の座標も得られないのだ。そもそも重力異常は常に変動している。これでは特定の座標に何らかの影響を及ぼすのは不可能に思えた。
一体この現象は、何なのか。
なんとか謎を解き明かそうと以前のアルゴリズムの修正を試みている傍ら、天羽はガラス隔壁の向こうにあるヴォイドを眺めていた。
柚木は正直、研究者としての彼女をよく知らなかった。この研究所に来た時には既に<先生>の秘書のような立ち位置で、自らで何かを研究している所は見たことがない。だから柚木も壁にぶつかった際も天羽に助言を求めたことはなかったが、このとき彼女はふと背筋を伸ばすと、ペンの先で宙に幾つかの図形を描き、次いで傍らのタブレットを引き寄せて構造計算アプリを起動した。そして数個のオブジェクトを描いて時間推移を確かめると、グーグルマップを表示して座標を打ち込んだ。
「十和田湖」
「何です?」
問い返す柚木に、彼女は大慌てで机上のパソコンやデバイスを拾い上げつつ笑みを向けた。
「この重力異常が指し示している座標よ。十和田湖の北、数キロ。すぐに行かなきゃ」
「本当ですか。どうやってそれを」
「ビギナーズラックってやつね。たまたまよ。私は先に現地に行く。柚木くんは何でもいいから測定器具を適当にかき集めて持ってきて。あぁ、ヘリを手配してるから、行き先は東京駅じゃなく羽田よ? じゃあ」
「待ってください。現地に一体、何があるって言うんです?」
「それを確かめに行くんじゃない」
コートを掴みあげて、天羽はそれこそ飛ぶように去って行った。
それから柚木は必要になりそうな機材を一式揃え、業者に搬送を依頼し、三時間後には十和田湖畔にたどり着いていた。
そこで柚木は、深刻なデジャヴュに陥った。延々と続く針葉樹の森、肌寒さに乾いた空気。全てがラトビアと同じに思え、そこの林道を入っていけばすぐにでも古びた核サイロが現れるのではという気がしてならない。
しかし代わりに現れたのは、レンタカーに寄りかかって携帯端末を操作している天羽だった。彼女は柚木が運転するRV車を認めると、助手席に飛び乗って林道の先を示した。
「あっちね」そしてシートベルトを締めながら続けた。「助かったわ。合流しようと戻っていたら、溝にはまって動けなくなったの。パワーショベルは? 掘るのよ?」
「手配済みです。一時間後には来るはず。しかし、掘る? やはり何か埋まっていたんですか」
「座標には何もなかった。なら掘るしかないじゃない」
笑みを浮かべながらシートに深く座り、デジタルパッドを取り出して周辺の地図を改める。柚木は所々陥没している林道に注意しながら、天羽の横顔に僅かに視線を向ける。
「礼がまだでした。これまで色々と、ありがとうございます」
「何よ急に!」
驚き目を丸くする天羽に、柚木は言葉を探した。
「いえ、なんというか。この一年、私はあなたの苦労を何一つ顧みていなかった。あれだけの現象を隠蔽し、私が好きに調べられるような環境を整えてくださるのは相当困難だったでしょう。だというのに私はこれまで、礼一つ言っていなかった。私の我が儘につきあってくださって、本当に――」
彼女は苦々しい笑い声で遮った。
「止してちょうだい。だからあなたは、根本的に科学者向きじゃないって言うのよ」
予想外の言葉に、柚木は当惑した。
「それは、どういう?」
「倫理に縛られず、可能性を考えなさいって言ったでしょう。それよ。あなたは私がこの一年、完全なる善意で仕事をしてきたと思い込んでいる。けど残念、私はそれほど出来た人間じゃあないわ」そしてパッドから目を上げ、柚木を見つめた。「裏を考えて。でないとこれから、やっていけないわよ?」
「わからない。あなたには他に、何か目的があったというのですか?」
「それはあなたの事も考えてるわよ? それに美鈴ちゃんだって、もし生きてるんなら助けたい。責任だって感じてる。でもそれと、自分の目的は共存出来る。あなたの願いを叶えながら自分の願いを追い求めることだって可能なのよ。違う?」
柚木は腑に落ちて、大きく息を吐いた。
「――いかにも、政治家らしい言葉だ」
「政治家?」
「思っていたんです。あなたは政治家向きだと」
「研究者よりも?」慌てて言葉を探す柚木に、天羽は悪戯っぽく笑った。「確かにそうかもしれないわ。私もあなたも、純粋な研究者向きじゃない」
「では、純粋な研究者に必要な物とは?」
「好奇心のためならば、何でもする人――詐欺だって、犯罪だって、何だってよ。そしてそれを一切、後ろめたく思わない人。誰のことかわかる?」
彼女が指し示す人物は一人しかいなかったが、柚木は答えず、カーナビが示す座標に向け車を走らせた。
林道は山道になり、木々は開けて丘陵の草原になる。日はすっかり落ちてしまって、片側が崖になっている細い砂利道を恐る恐る運転して十分ほどだろうか。座標が指し示していた所に車を止めて外に出ると、刺すような冷気を感じた。東京の夜空は数えるほどしか星が見えないが、ここは高度もあってか満天の星空だった。恐らく三等星や四等星も見えているだろう。柚木がそれを眺めている間に、天羽は車を操ってフロントライトを丘陵の方向へ向けた。照らし出された範囲は狭かったが、丈の短い枯れかけた雑草の奥に木の枝が突き刺さっている。天羽が目印に残していたものだ。
柚木もマグライトを手に周囲を探ってみたが、全く、何も異常は見られない。恐らく放牧地なのだろう、所々に糞の塊がある程度で、地面にも人の手が入っている様子はない。
天羽は早速、柚木が運んできた機材を下ろし始めていた。小型絶対重力計、地中探査装置、大気環境測定器などといったものだ。柚木も手を貸して一式を問題の座標に揃えると、スイッチを入れて測定を始める。
ときおり微風が流れ、草が揺れてさらさらとした音を立てる。その度に冷気が首筋から入り込んできて、未だ完治していない首が痛み始めた。眉間に皺を寄せつつモニターを眺めていたが、これといった異常は見られない。天羽は地中探査装置の乗った台車をあちこちに引き回していたが、そちらも芳しい結果は何も得られないらしい。
「特にこれといって」
天羽は呟くと腰に手を当て、怪訝そうな表情で星空を見上げた。柚木はその月明かりに照らされた横顔を眺めている間に、何か奇妙な違和感を抱きはじめる。
これは何だろう、と、再び周囲を見渡す。
「どうかした?」
天羽の問う声が静寂の中に響き渡るのを聞き、柚木はようやく違和感の正体に気づいた。
「虫が鳴いていない」
「え?」
「来る途中まで騒がしいくらいだったのに。高度の所為でしょうか」
天羽が顎に手を当てて、記憶を探る仕草をした、その時だ。巨大な紙風船をたたき割ったような音が全天に響き、柚木は全身に軽い痺れを感じた。
濡れ手で電池を触ったときのような感覚だ。三半規管が麻痺し、一瞬だけ足下がぐらつく。
「――今のは?」
四方の闇を見渡す天羽。
この感覚は、怪我の影響だろうか。柚木は首筋に手を当てて意識をはっきりさせようと勤めつつ答えた。
「狩猟でもしているんでしょうか。そんな音に聞こえましたが」
「こんな暗い中で?」
さぁ、と答えかけた時だ。再び空気が弾ける音が響き、先ほどより酷い目眩を感じる。立っていられなくなり草地に膝を突くと、慌てて天羽が駆け寄ってきて肩を抑えた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「いえ。何か目眩が――」
破裂音は続いた。三度、四度と。それは繰り返し脳髄に響いたが、次第に慣れが出てきた。ようやく顔を上げる。天羽は不安げにあたりを見渡している。そしてふと目に入った絶対重力計は、狂ったように目盛りが上下していた。
「一体、何?」
天羽が言った直後、巨大な破裂音と共に全天が閃光に包まれた。何が、と考える間もなく、地が跳ねるように揺れて宙に投げ出される。稲妻よりなお目映い光のおかげで目が眩み、支えを探して手が空振り、仰向けに地に転がった。断続的に空が明暗し、地面はしばらく脈動するかのように揺れ続けた。三半規管の異常も激しくなり、目も、耳も、上下左右もわからなくなりかけた頃、ようやく世界は落ち着きを取り戻したらしかった。
呻きながら顔を上げ、焦点の合わない目を擦り、何処かに飛んでしまった眼鏡を求めて手探りする。
周囲は異常な程に明るかった。まるで稲妻の閃光が固定されたようだ。最初は怪我の影響で目に異常が出たのかと思ったが、探り合った眼鏡をかけた時、そうではないことがはっきりした。
全天が、白く輝いていた。空のスクリーンがLED照明に取って代わってしまったようで、先ほどまであった夜空の星々、大きく輝く月も塗りつぶされてしまっていた。




