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瞳を開けると、乳白色の空気、そして暗褐色の鈍い光を放つ鉱滓が目に入った。意識がはっきりしないまま無意識に立ち上がろうとした所で、首に激痛が走った。手をあてると、生暖かい血がこびりつく。加えて右足が思い通りに動かない。
どうやら脊椎をやられたらしい。
漠然と思っている間に、前後の記憶が蘇ってきた。蠢く巨大な暗黒、それが納められた核サイロに戻っていく<先生>の後ろ姿、次いで起きた空間の消失。
どれだけの間、呆然としていただろう。ようやく柚木は傍らにいた織原の姿がないことに気づき、一度に血の気が引いてきた。
無理に立ち上がり、彼女の名を叫びながら靄に覆われた鉱滓の地を歩き回る。尖った金属が靴底を切り、バランスを失って突いた手のひらに突き刺さった。
どれだけ歩いたろう、柚木は霧が避けて通る不思議な空間にたどり着く。その中央には、潰したはずの空間の穴、<ヴォイド>が存在していた。
なんてことだ。失敗したのか。
思ったのもつかの間、奇妙に変異しているヴォイドの傍らに、真っ赤な色彩が広がっているのに気がついた。織原だ。柚木は彼女の名を叫びつつ、窪地に転がるようにして降りていく。ようやく彼女の脇に這い寄って首筋に手を当てると、確かな暖かみと鼓動が感じられた。
「柚木くん! 美鈴ちゃん!」
頭上から天羽の声が響いたが、首が痛み顔を向けることも出来ない。ただ軽く片手を上げてみせた柚木の脇に、彼女は駆け寄ってきた。
「大丈夫? 怪我を?」
「これを」そう、辛うじて目の前にある、触手を四方に伸ばす暗黒を指し示す。「不完全だった。完璧には消しされなかった。それに何か、加えられた衝撃でスイッチが入ったようだ」
天羽は渋い表情でそれを眺め、軽く頭を振った。
「今はいい。それより医者に」
彼女が言った時、不意に目の前に暗黒が掠めた。
何だ?
思った時には、赤いドレスが視界を過ぎっていく。
そして赤は黒に、飲み込まれてしまった。
◇ ◇ ◇
この暗黒は何なのだろう。
柚木は今日も、隔離室の中にあって蠢く現象を見つめていた。
柚木はあの五つのヴォイドが、重力が具現化したものと仮定していた。その仮定に良く適合する現象、反応は捕らえていたし、そもそもこの仮定を元としてヴォイドを崩壊させることに成功しているのだ、仮定は確定といって良さそうだったが、それでもどうしても解けない謎が残っていた。
あれから何度も計算を繰り返した。咄嗟のことで時間がなかったとはいえ、当時の柚木がヴォイドを崩壊させるために与えた共振周波数は完璧だった。発生した空間転移の大きさも、理論と一致している。ヴォイドは消失し、下手をすると地球を滅ぼしかねなかった<先生>の錬金術実験は、二度と行えなくなるはずだった。
しかし、これが残った。四方に触手めいた暗黒を伸ばす、直径十メートル程度の謎の影。
一体これは、何なのだろう。ヴォイドと違って質量はゼロ。あらゆる電磁波を吸収するため、非接触観測する手段がない。触手の反応はランダムだった。試みに様々な物体を近づけてみたが、おおよそ一メートル程度に近づいた固体に反応し、気まぐれで内部に取り込んでしまう。有機物、無機物、何でもだ。観測機の類いも与えてみたが、取り込まれた途端に信号は消えてしまう。中がどうなっているのか探る手段は皆無だった。
知的好奇心を刺激される。徹底的に調べて、正体を突き止めたくなる。
それが普通の学者の心理だろう。しかし今の柚木は、その動機を阻害する何かがあり、何を考えていても、何を計算しようとしても、ろくに集中できなかった。
織原は一体、どうなってしまったのだろう?
いや、それもまた好奇心を刺激する問いだ。柚木が感じていた物はもっと曖昧で、複雑で、言葉に出来ない感覚だった。
無駄に時間を過ごしている。
振り返り成果を確認すると、それは完璧に自覚できた。当然、様々な実験により、わかったこと、わからないことは明確になりつつある。だがそれを統合する何かが見つかったかと言えば、否だ。柚木は無闇矢鱈にブラックボックスに数字を突っ込んでいるだけで、その中にあるアルゴリズムが何なのかを解き明かす鍵は、何一つ見つかっていない。
酷い疲れを感じて、両手に顔を埋める。途端に首筋に忘れていた痛みが走り、柚木は顔を歪めた。引き出しを漁って鎮痛剤を探し当てる。だがドリンクが切れていた。ふと我に返って時計を眺める。十六時。だが今日が何月何日で、いつからここにいたのか、さっぱり思い出せなかった。食欲はなかったが、酷く空腹なのも自覚してくる。仕方がなく柚木は車椅子の車輪を押し、食堂に向かおうとする。
その時、研究ブースとガラスで隔てられた先にある執務エリアに、天羽の姿があるのに気づいた。彼女はスーツ姿の男と、神妙な様子で会話していた。
見かけない男だ。何者だろう。
思って眺めている間に、交渉は終わったらしい。男は出て行き、天羽は柚木の視線に気づいて笑みを向けてくる。
「どう? 調子は」
執務エリアから出てきた天羽に問われ、柚木は言葉を失った。それを不調と捉えたのか、彼女は心配そうに腰をかがめる。
「大丈夫? 痛むの?」
「あ、いえ」ようやく言葉が出てきた。「しばらく誰とも話していなかったので。言語野が麻痺していたようです」
真実を冗談に仕立てて誤魔化したつもりだったが、天羽はそう捉えなかった。
「少しは休まないと。いつからいるの?」わからない、とも言えず苦笑いを続ける柚木に、彼女は続けた。「聞いたわよ? また定期検診をすっぽかしたって。駄目でしょう、そんなことじゃ、いつまで経っても治らない」
「それより、今のは誰です」
興味もなかったが窮地を逃れるために尋ねると、彼女は少し振り返って男の残像を確かめた。
「会ったことなかったかしら。文科省の次官よ。ラトビア政府と交渉して、ヴォイドをここに運ぶ手助けをしてくれた」
思い出した。あの事件の後、天羽は様々な政府関係者と交渉していた。その中に彼のような男がいた記憶がある。
「それで、問題は解決出来そうなんですか」
「さぁ、何を問題とするかによるわね」天羽は曖昧に視線を宙に泳がせた。「少なくとも<先生>については片付きそう。たいした遺産を残してくれたものよ、得体の知れない実験で世界を滅ぼしかけただけじゃなく、私に内緒で色々な研究機関から適当な理由で莫大な助成金を得ていた。ぶっちゃけ違法、詐欺よ」
天羽は柚木が考えも及ばない、様々な現実的側面をカバーしていた。思い起こせばあれだけの実験を行うには相当に金がかかったはずだが、その出所なんて考えてもみなかった。
「まさか、予算切れですか。プロジェクトは解散? ここを引き払わなければならない?」
そうなってしまえば、もうヴォイドの研究を行えなくなる。織原を探す事が出来なくなってしまう。
突如襲われた恐怖に声を震わせながら尋ねた柚木に、天羽は表情を暗くした。
「いえ。それを回避したと言っているの。あくまで当面のことで、先は見えないけれど――それより柚木くん、本当に大丈夫? やっぱり少し休んだ方が」
「つまり研究を続けるには、何か成果が必要だということですか。文科省を説得できるような?」
「え? えぇ、まぁ、そういう話ではあるけれど――」
「わかりました。急ぎます」
言葉通り急いで車椅子の向きを変えようとしたところで、天羽が椅子のグリップを握って再度向きを変えた。
「いいから、何か食べて。貴方に倒れられたら、それこそ何もどうにもならない」反論しかけた柚木を遮り、彼女は車椅子を食堂の方向に押しつつ言った。「それより私、文科省に誘われたわ。政策立案の手助けをしてくれないかって。ほら、最近はAIだ何だで、政府側でも複雑系のわかる人材が欲しいとか」
唐突のことで、頭が回らないまま柚木は答えた。
「それは――おめでとうございます」そういえば以前から彼女は、その方面に進みたがっていた。「調整や交渉ごとは誰よりも素晴らしいし、あなたにうってつけの仕事だ」
「柚木くん、あなたも来ない?」
「私?」
「そう。私の知識はさび付いてるもの。交渉ごとは私がやるけど、それを技術的な面でサポートしてくれる人が必要。どう?」
様々な感情や記憶に襲われ、柚木は答えることが出来なかった。それに小さく息を吐いて、天羽は続けた。
「わかってる。美鈴ちゃんを探し続けたいんでしょう。でも、もう潮時よ。あれから一年、何かわかった? このヴォイドは今後百年は、人知の外にある存在。これを理解するには、人類は馬鹿すぎるのよ。私たちに出来る事はただ、これを封印し、何か妙な事が起きないか監視しておくことだけ」
「いや、しかし」
「黙って聞いて。彼女は戻ってこない。彼女は死んだの。あなただってわかってる。それでも認めたくないだけ。彼女に対する義務を負っている。そう感じている」
「義務とは――」
「義務という言葉が適切でないなら、倫理と言ってもいいわ。あなたはそれを重視する。彼女は彼女ではなく、あなたの世界で消えた。だからその責任はあなたにある。だから何としても彼女を探し続けるのが、倫理的に正しい。確かに、その論法は間違ってないわ。倫理的にはね。でも論理的じゃあない。あなたは宗教家じゃない。科学者よ。科学者に必要なのは、倫理よりも論理でしょう。論理的に考えて。それが出来ないならヴォイドの研究を続けたって、何も見つけられやしない。出家してお坊さんにでもなった方がいいわ」
確かに、論理的だ。
柚木は心を占めようとする倫理を、論理で押しのけつつ考えた。
織原に対する負い目を感じ続けている以上、論理的な考えなど出来るはずがない。論理的な考えが出来なければヴォイドの研究を続けても何も発見出来るはずがなく、織原に起きた出来事を解き明かす事も出来ない。しかし論理的な面に立ってみれば、そもそもヴォイドの謎を一介の科学者が解き明かせるはずがない。それだけ謎めいた存在を研究し続けるだけ無駄だ。そういう結論に達するのは間違いない。
「しかし、もう少し時間が欲しい」
辛うじて呟いた柚木に、天羽は笑みを浮かべた。
「えぇ。わかってる。別に急かしてはいない。あなたが答えを出すまで、私はここにいるわ」




