第一話 エグゾア
災害予測システムなんて創り上げたヤツは、史上最悪の阿呆に違いない。
久我は思いながら、苦々しく目前のビルを見上げる。数ブロックを占めるオフィスビル。今は十数台のパトカー、それに災害予防局の車両によって封鎖されているが、普段は堅苦しいスーツ姿の連中が絶えず出入りしていたに違いない。
その中には、久我の元妻もいたはずだ。クォンタム・テクノロジー社。もし久我への養育費の申請に偽りがなければ、彼女は今でもそこで経理部長だか何だかを続けているはずだ。
『〈災害〉発生予測時間まで、あと九十秒』車両の無線が、ジージーというノイズと共に声を発する。『久我クン、首尾はどうだね』
首尾?
首尾か。残念ながらオレには、〈予防〉に失敗するよう、この巨大な災害予防局という組織を混乱させることなんて。出来なかった。
久我は胸の内で毒づきながら、無線機を取り上げる。
「問題ありませんよ。全従業員の待避は確認済み。封鎖は完了しています」その時、久我が見上げる二十数階のビルが、まるで蜃気楼のように歪んだ。「予兆が始まった。予測誤差もなさそうだ」
『それはそうだ。誤差は限りなく出ないよう、年間数十億という費用をかけているんだからね』
「おかげでオレたちは。派手なアトラクションを安全に眺められるってことですか」警戒線を隔てた先には、軽く見積もっても数百人の野次馬たちが集まっている。「柚木局長も、オフィスに籠もりっきりじゃなく。たまには現場に来たらどうです? そうすりゃ、持病の偏頭痛も少しは軽くなるんじゃ?」
久我の軽口に、無線の向こうにいる柚木は堅い口調のまま応じた。
「私の頭痛は、そんなことじゃ治らないよ」
彼の言葉尻は、不意に鳴り響いた巨大な破裂音にかき消された。
銃声、のようだった。しかし銃声はこれほど、空間を揺るがすような響きは伴わない。
街路樹からは鳥たちが、青空めがけて一斉に飛び立っていく。安全とはわかっていても、野次馬たちは警戒線から遠ざかる。破裂音は多少の間隔をあけ、二度、三度と鳴り響く。その度に目の前のビルは奇妙に揺らぎ、それに併せて災害予防局の車両が巨大なサイレンを鳴り響かせた。
予兆が収まると、辺りは都心とは思えない静けさに包まれる。半径一キロの道路は完全封鎖されていて、特有の低い地鳴りの音もない。野次馬たちも固唾を飲んで見守る先にあるビルは、今もまだそこに、確かに存在して。
いた。
それは瞬きの間だった。科学者たちの複雑怪奇な計算結果によると、それはほんの数千だか数万だか分の一秒の出来事らしい。
事前に取り寄せたビルの設計図によれば、ほぼ正方形に近いその外形は、おおよそ一辺が百メートルほどあった。敷地で云えば一万平米。容積で云えば――とにかくそうした鉄筋とコンクリートの塊が、一瞬のうちに掻き消えた。
僅かに遅れて、巨大な爆発音が響く。突風が巻き起こり、アスファルト上の砂埃という砂埃が、一斉にビルの存在していた空間に向かって流れ込んでいく。少しでも気を抜けば、身体ごと持って行かれない風速だ。久我は車両のドアにしがみつき、目を細め、突風が収まるのを待つ。そして風切りの音が止んでから軽く目を開くと、久我が車両を停めていた先、十数メートルの所に、まるで巨大なスプーンで抉られたような、完璧な円形のクレーターが出来上がっていた。
詰めていた息を吐き出しつつ、縁に歩み寄る。
数メートルの断崖の下には、見慣れた空虚が広がっていた。
アスファルトや、金属や、コンクリートや。そうしたものが高温で焼き尽くされたかのような、灰と鉱滓まみれの不毛の地。
「終わりました。誤差数メートルってところです」久我は無線機のレシーバーに、報告する。「直径は、約八十メートル。ビルの本館は完全に消滅。それと別館の一部が抉られた。アレは危ない」柚木の返事を待たず、久我は声を張り上げた。「おい! 科学班はまだ入るな! 倒壊の恐れがある!」
様々な機材を担ぎ、我先にと断崖の下に降りようとしていた科学者たち。それを制止し、久我は防災班に指示を出した。クォンタムの別館ビルはその半分ほどが消失していて、鋭利な断面から机や什器が転がり落ちそうになっている。
こうなってしまえばもう、ビルごと壊すしかない。
取り急ぎ封鎖範囲を僅かに狭め、解体班を手配する。クレーターに降り立つと、寸断された下水管からは、止めどなく汚水が流れ込んでくる。そうした中で半壊したビルへの対処を打ち合わせていると、ふと頭上から声をかけられた。
「ここの責任者は、貴方ですか!」
見上げると、スーツ姿の中年男性が腰を屈め、恐る恐る覗き込んでいる。
「どうやって入った! 一般人は立ち入り禁止だ! 離れてろ!」
叫んだ久我に、僅かに後ろを振り返る男。それに促されるよう、彼の背後からは一人の女が姿を現し、久我を見下ろした。
「どうして! 貴方には説明責任ってものが、あるんじゃないの?」
相変わらず、痩せぎすだ。
思いながら、久我は忌々しく見上げる。黒のパンツスーツに、真っ白なシャツ。それと同じくらい白い肌を僅かに紅潮させつつ、涼夏は久我を睨み付けていた。
「うるせぇ! 説明責任があるのは、そっちだろ! オレが苦労して稼いだ金を、オマエは何に使ってる! なんだその高そうなスーツは! 京香にちゃんと使ってやってるのか!」
我慢しきれずに叫んだ久我に、彼女は細い髪を苛立たしげに掻く。
「こんな所で、そんな話は止して。今はこの状況の」
「あぁ、嫌な状況だね! 最悪だ!」久我は吐き捨て、背を向けた。「後で事務方をそっちに行かせる! さっさと出て行け!」
「後じゃ駄目なの! 二号館には幾つか重要な資料が残っていて」
「駄目だ駄目だ! おい、警備、何やってる! さっさとそいつらをつまみ出せ!」
「だから私は逆効果だと」
頭上でしおらしく云った涼夏に代わり、男の方が声を上げた。
「私、総務コンプライアンス部の者です。ただいま弁護士を手配中ですが、こうした場合であっても、あれは未だ私たちの資産なはずです。違いますか?」
久我は舌打ちし、振り向いた。
「だから、今、事務方を行かせると」
「ではそれまで、あのビルには手を付けないと。確約してもらえますか?」
「じゃあアンタは、あのビルがぶっ倒れて。隣のビルをぶち壊してもいいって云うんで? アンタらの我が儘で、半径五百メートルの範囲で経済活動が完全に停止してる状況が続いてても、何の問題もないって?」
「保険に入っています」
そりゃそうだろうさ。
久我は流れ込んでくる汚水の中で足を蹴り上げ、鉱滓の屑をまき散らす。
「わかったよ! 片が付くまで、オレたちは今にも崩れそうなビルに怯えながら封鎖措置を続けるし、周りの連中の日常生活は止まったままだし、ひょっとしたらこの鉱滓の中に埋まってるかもしれないお宝がクソ塗れになっちまうかもしれないが。我慢するよ!」
「良かった」
男は満足そうに呟き、涼夏を促し、踵を返す。
クソが。
久我は胸の内で毒づきながら、ふと、自らが蹴り壊した鉱滓の下から覗く、僅かに白銀色を残した物体に手を伸ばした。
お宝、か。
灰と泥にまみれた金属片を汚水で拭うと、辛うじてレンズか何かのような痕跡が透けて見えるようになる。
こんな物、なんの役に立つ。科学班が〈エグゾア〉の痕跡から、何か実のある物を見つけただなんて話は。聞いたことがない。
それでも彼らは、この未解明な事象に神秘的な何かを感じ、年間五十件は発生するこの現象の現場に張り込んで、灰と鉱滓の中を何日も這い回る。
おかげで現場の保全に責任を持つ久我の空き時間は酷く限られるようになり、これまで何度、京香との面会をキャンセルせざるを得なくなったことか。
最後に京香と会ってから、どれくらいだ?
数ヶ月? それとも、一年は経ってしまったか?
こんなんじゃ、オレも父親失格だ。裁判所の云うとおり、オレは涼夏以上に、親としての資格がなかったのかもしれない。
「生きてても、何も良いことなんて。ありゃしねぇ」
久我は重い溜め息を吐きつつ、金属片を懐に収めた。