(2)
帰宅後、ログインする。結局のところ、このライフサイクルは変わらない。
ナローファンタジー・オンラインの舞台であるアスガルド大陸において、杜若あいりはエルフの錬金術師アイリスとなる。今や彼女は、既にゲームを退いたツワブキ・イチローより、生産職系ギルド〝アイリスブランド〟リーダーの地位も引き継いでいる。
アイリスブランドは結成当初より趣味性の強い弱小ギルドであったが、常にゲーム内で引き起こされる珍騒動の渦中に存在することで、存在感を示していた。ここ最近ではそれも落ち着き、ギルドハウスの中にも落ち着いた空気が流れている。物足りないとは思わないが、アイリスには少し、寂しく感じる気持ちがあった。
「はぁ……」
アイリスはハウス内の自室から出て、ロビーへと向かう。相変わらず閑古鳥の鳴くショールームには人影もない。いや、一人いた。かつてイチローがよく座っていたロッキングチェアに、モヒカン肩スパイクという強烈な出で立ちのアバターが座り、愛用のナイフを研いでいる。
ナイフ男は、アイリスに気づくとふと手を止めて挨拶した。
「よぅ、遅かったなァ。アイリスくん」
よく通る声質に比べて、ねっとりとした喋り口である。アイリスは彼が嫌いだ。嫌いだが、なぜかギルドメンバーに入れてしまっている。ときおり話が合うのが悔しくてしょうがない。ひとまずは、いつもどおりのつっけんどんな挨拶を返した。
「おはよう、オトギリさん。よりによってあんたしかいないの?」
「キルシュヴァッサー卿もヨザクラくんもアオイくんも来ていないよ。僕は独りで非常に寂しかった」
その間ずっとナイフを研いでいたというのであれば、非常にご苦労なことである。
ナイフ男ことオトギリのプレイヤーは、世間に名だたる大企業ポニー・エンタテイメント社の前CEOだ。今となっては経営陣から叩き落とされ、不正アクセス禁止法違反、並びに毒物及び劇薬取締法違反によって警察のご厄介となっている。彼の転落劇をここにわざわざ書き記すようなこともしないが、彼は警察上層部との太いパイプを散々利用した挙句、大量の保釈金を叩きつけると、社長時代からコツコツとプレイしていたナロファンの世界に入り浸り、いわゆるニート生活を開始した。大層なツラの皮である。
社会的信用を失い、一見地の底に叩き落とされたように見える男だが、法律は彼の資産をすべて奪い切れやしないし、この数十年で築かれたコネクションを断ち切ることもできない。実際、そこそこ頭は切れるので、手元に残ったカネとコネを上手いこと運用して、悠々自適に暮らしているのだ。悪い奴はこうしてのさばるのね、と、アイリスはまたひとつ真実を知って大人になった。
「うかない顔をしているじゃないかァ。何か辛いことでもあったのかい」
「特にないわよ」
アイリスはふくれっ面を作って、店外に配置した売り子アバターから今日の売り上げを確認した。
「客は来ていないよ」
「みたいね」
しょせんはゲーム内での売り上げだ。生活に直結するような死活問題ではないし、活動資金が欲しいのなら高レベルプレイヤーであるキルシュヴァッサーなりを率いて、最前線に殴り込みをかければ良い。武闘都市デルヴェの先にも、ようやく新たなるマップが開放されたらしく、トッププレイヤー達はこぞって押しかけていると聞いた。
「辛いことって言うんじゃないんだけど」
話題が途切れ、沈黙に耐え切れなくなる前に、アイリスは言葉を繋いだ。
「今日、学校帰りに変なお姉さんにあったわ」
「君の周りには変なお姉さんしかいないんじゃないのかい?」
「そうね、変なおじさんもいるわね」
自分よりもむしろ父親に近しい年齢のプレイヤーをじろりと見て、アイリスは続ける。
「それでちょっと考え込んじゃってねー。ゲームは楽しまなきゃダメよねーって……」
「そりゃあ、ねぇ」
オトギリは磨いたナイフを天井にかざす。銀色の刃が室内灯を眩く照らし返した。
「僕はこのゲームを楽しんでいるからなァ。そう言うからには君は楽しんでいないんだ。まァ最近はよくつまんない顔をしているなとは思ったけどね。みんな言ってるけどさァ、君はちょっと、ツワブキの幻影に取り憑かれすぎなところがあるなァ」
「お、御曹司の幻影って何よ」
その言葉の意味を、アイリスははっきりと自覚していたのだが、この場面ではそう問わざるを得ない。オトギリは、見るものを萎縮させる三白眼(《ガン飛ばし》スキルレベル40)を彼女に向けた後、意気揚々と喋り始めた。
「そりゃァアレだよ。なんだ。このギルドはあの薄ら笑いの気持ち悪いクソ野郎が作った奴で? 君はあいつに振り回されつつも一夏の青春をそれなりに謳歌したから? あいつからリーダーの肩書きを受け継いだことにプレッシャーを感じているんだろ? くっだらないよなァまったく。いっそ辞めちゃえば楽になるよ」
「や、やめられるわけないじゃない」
「なんでさ。そもそもこのギルドはあいつの服を作るために作ったもんじゃないか。わざわざ存続させる必要もないと思うんだよなァ。君が重荷を感じているなら尚更だよ。最近空回りすぎだって気づいてる?」
「じゃあなんであんたはそのギルドに入ってんのよ」
「君を観察するのが面白そうだと思ったから」
「キモい」
これだ。これだからオトギリは嫌いだ。彼女の自覚している弱点を的確に突いてくる。以前、アイリスは彼とギルドハウス内で凄まじい舌戦を繰り広げたのだが、その時の光景を見ていた三人のギルドメンバーは一様に口を揃え『ノーガードで殴り合っているようだった』と表現している。互いの心に無視できない傷を残しているので、その件についてはアイリスもオトギリも自ら口に出したことはない。
ともあれ、オトギリの言うことは何から何まで事実である。
ツワブキ・イチローが己の趣味のために設立したアイリスブランドだが、結局のところ生産職ギルドとしてまともに機能しているとは言い難い。ストリートの反対側に最大手のアキハバラ鍛造組が建っているのは理由のひとつだが、アイリスブランドの方針自体がゲーム内においてイマイチ需要に欠けている。それでも、イチローがギルドリーダーを務めていた頃は、彼の強烈なキャラクターもあって顔を見せる客はあったのだが、最近ではそれもない。
なんだか、イチローに会う以前に戻ってしまったようだ、と、アイリスは思っていた。あの時ほど自虐的でもなければ、満たされない承認欲求に焦がされているわけでもないのだが、気持ちが空回りする感覚はよく似ている。アイリスブランドを、今までどおり活動させ〝なければならない〟という、根拠のない使命感。空回りしているのはそれだ。
「僕は、君がつまんない女になるのを危惧しているんだけどなァ」
「そりゃあどうも」
アイリスは椅子に腰を下ろして言った。キルシュヴァッサーがいないと、こういう時にお茶も出てこない。だだっ広いギルドハウス内でオトギリと終始顔を付き合わせるのは、耐え難い苦痛だ。
「なんか明るい話題とかないかしら」
「明るい話題か。そういえば、最近、噂になっているギルドがあるよ」
「へぇ」
有名ギルドの話題は、今のアイリスにとって必ずしも愉快な話でもないのだが、ここはあえて聞くことにする。
「アンチクロスという戦闘ギルドでね。ナロファン初の大規模PKギルドなんだ。マツナガくんのブログにも載っているよ。今まで被害にあったプレイヤーはアクティブユーザー全体の2割を超える」
「全然明るくないんだけど! めちゃくちゃ陰惨だわ!」
「僕は秘書山くんと一緒にPKを頑張っていたから、この話題は非常に興味深かったなァ」
しみじみと語るオトギリだが、アイリスは知っている。彼はまず最初に毒ナイフを舐める奇癖のために、だいたいプレイヤーに出会ってそうそうHPを枯らしていたということを。その後、相棒の秘書山嬢扮するモヒカン男が、頑張って標的パーティ3、4人を全滅させるという。何をしたいのまったくわからないPKプレイヤーコンビということで、一部のユーザーにはそこそこ名前が知られていた。
なお、その秘書山嬢は、オトギリの罪を被ろうとして捜査を攪乱させた罪で警察のご厄介となっている。この二人の関係がいったいどのようなものなのか、深く追及するのが怖くて誰も突っ込んではいない。
「そうだ、アイリスくん。アイリスブランドもいっそ戦闘ギルドにしてはどうかなァ。服飾ブランドに偽装して、何も知らずに入ってきた哀れな子羊たちをみんなで叩きのめすんだ。きっと楽しいよ」
「楽しいわけないでしょ!」
「これは極端な例だとしてもだなァ、君はもう少し自分のやりたいことをやるべきなんじゃないの? VRMMOは可能性のアソビだよ。アイリスブランドだって最初はそうだったはずだろうに。〝こうあらねば〟という思い込みこそが悪徳だよ。心を解き放とう。魂の衝動に身を委ねるんだ」
「仮にそうだとしても、あたしのやりたいことはプレイヤー・キルなんかじゃないって言ってんの!」
まるでアイリスが邪悪の化身であるかのような言い草ではないか。実に正鵠を射ている。
「君がそうしようと言えば、僕を含めた残りの四人は間違いなくついていくんだけどなァ」
オトギリがそう言った直後、ギルドハウスの扉をノックする音があった。結果として、アイリスはそれ以上オトギリの言葉を聞かずに済む。
「久しぶりのお客さんだわ」
「お客さんと決まったわけじゃないよ」
「開ける前から心を砕かないでよ!」
やや大股で扉まで歩いていき、取っ手に手をかける。アイリスはなるべく精一杯の笑顔を作って、来客に振りまいた。
「はーい、どちら様でしょう」
「俺たちは戦闘ギルド〝アンチクロス〟」
扉を閉めた。ロッキングチェアに腰掛けたオトギリが首をかしげている。
「どうしたの?」
「お、おおお、オトギリさん! どうしよう! 例のPKギルドが来たわ!」
「アンチクロス?」
「うん」
「とりあえず入れてあげたら? ハウス内での戦闘は君が許可しない限りできないんだし」
「あ、そっか」
アイリスが再び扉を開くと、〝彼ら〟は律儀にも扉の前で待っていた。
そこにいるのは数人のアバターだ。一様に黒衣を纏い、顔を仮面で隠している。背中はマントを羽織り、思い思いに携える各々の得物も、やはり黒塗りであった。おそらくギルドエンブレムであろう逆十字は、衣装のそこかしこに見受けられる。目立つと言えば目立つ格好だが、このナローファンタジー・オンライン内においては、そこまで異質な出で立ちというわけでもない。
ただし、道行くプレイヤーも彼らの素性は知っているのか、遠巻きに眺めながら足早に立ち去るものが多かった。正直、悪い印象が立ちそうなので早いところ要件を済ませて欲しいのだが。
「俺たちは戦闘ギルド〝アンチクロス〟」
「うん、それは聞いたわ」
リーダーと思しき先頭の男の頭上には、〝ダークキリヒト〟というアバターネームが表示されている。またキリヒトか、とアイリスは思う。
「で、えぇっと、ご用はいったいなんなのかしら」
「率直に言おう」
アイリスの言葉に、ダークキリヒトは重々しく頷く。
「アイリス……! いや、アイリスさん……!」
「えっ、えぇっ!?」
言うやいなや、ダークキリヒトはいきなり両手両足を膝につき、額を地面にこすりつけたではないか。ダークキリヒトだけではない。背後に並ぶ数人のギルドメンバーもそれに倣い、アンチクロスのメンバーは一斉に、アイリスに対して〝土下座〟をする。
困惑するアイリス。訝しげに通り過ぎる通行人。背後から興味津々で眺めてくるオトギリ。
ダークキリヒト、アンチクロスの要件とは、すなわちこうである。
「アイリスさん! 俺たちの、ギルドリーダーになってくれませんか!」