とある聖夜のちょっぴり信じられない出来事
「ふっふんふーん、ふっふんふーん、ふっふっふーんふふーん♪」
窓の外では木枯らしが吹いていた。街路樹は紅葉を経てすっかり葉を散らし、街を行き交う人々は、先月末頃から急に顔をのぞかせ始めた寒波に身をすくめながら、早足に過ぎ去っていく。桜子は、部屋の中でクリスマスツリーの飾りつけをしながら、ときおりそうした三軒茶屋の町並みを見下ろしていた。もうすっかり冬だ。今年も、あと1週間でおしまいである。来年は午年。三十路カウントダウン待ったなしという恐怖現象は付きまとうものの、ここは素直に、行く年来る年を祝うとしよう。加えて、今日は12月24日だ。クリスマス・イブなのだ。
あの騒がしかったナローファンタジー・オンラインの夏も想い出の1ページに加わりつつある。今でも頻繁にログインを繰り返す桜子だが、アイリスブランドのギルドハウスにツワブキ・イチローの姿を見かけないことにも、慣れて久しい。もっとも彼女にとっては毎日イヤでも顔を合わせる相手であるのだが。
『ご機嫌なご様子ですね、お父様』
「わかりますか」
ローズマリーの言葉に対しても、桜子は弾んだ声で応じた。
『原因は本日開催予定のクリスマスパーティーであると推測します』
「ご明察ですよ。パーティーというほど大きな規模じゃないですけどねー」
『私は今年のクリスマス・イブの過ごし方に対して不満があります』
「一朗さまがいらっしゃらないからでしょ?」
『わかりますか』
桜子がしれっと言うと、ローズマリーは平坦な声で応じた。
毎年12月24日は、桜子も一朗もヒマである。だからなのかは知らないが、気まぐれな主人はだいたい毎年奇特な思いつきを起こし、桜子を外食に連れ出したり、彼自身が手料理を振舞ってくれていた。この日は一朗がハンドルを握る日であり、台所に立つ日であったのだ。去年までは。
今年だっててっきりそうなると思っていたし、そこにローズマリーも加わるので、ささやかながらもさぞ楽しく新鮮なクリスマスイブを過ごせるかと思っていたのだが、どうもアテが外れてしまった。外れたのは今月の頭。一朗が『友人の頼みを聞くから20日から25日までは家を空ける』と言ったことによる。
桜子としては『そうなんですか? 寂しいですね。行ってらっしゃい』てなもんであったのだが、ローズマリー的には初めて一朗と一緒に過ごせるはずだったクリスマスイブをすっぽかされるのはそこそこショックであったようで、この件に関してはすっかりヘソを曲げてしまったのである。
桜子としても、ローズマリーが一個の人格として初めて迎える聖夜であるからして、何かしらのイベントを用意してやりたかった。そこで、クリスマスパーティーである。
家主である一朗にはばっちり許可をもらい、石蕗邸を会場にしたささやかなホームパーティーを開催することになったのだ。参加者はみんなナロファン関係の人間であるので、言い換えればオフ会でもある。日程が日程なので、参加者が集まらない可能性も危惧していたのだが、わりとみんなあっさりオーケーしてくれた。『みなさんイブに予定ないんですか!?』という超特大ブーメランを投げたい気持ちを抑えるのに、桜子は相当な苦労を要した。
イブの予定に対してローズマリーは不満を隠したりしなかったものの、桜子の気遣いを理解したのか、それとも色々思考を重ねるうちに楽しみになってきたのか、イブが近づくにつれパーティーのことを口にする機会も増えた。
ま、そうこうして迎えた、イブの当日である。部屋の飾り付け、オードブルの準備、桜子がやることはたくさんあったが、パーティーにはなんとか間に合いそうであった。元からこういったことが好きなタチなので、準備に関しては大して苦にならない。
「こんなもんですかねー」
桜子はひと息をつく。椅子に腰掛けて、カップの紅茶に口をつけた。
『お父様、一階駐車場の監視カメラに人影を確認。住人ではありません』
「中央モニターに出してください」
『中央モニターなんてありませんが』
軽いやり取りの後、リビングに設置された大画面の液晶テレビに、駐車場の様子が映し出される。一朗が来賓用に確保している一角に、如何にもフェミニンな趣味の軽自動車が停められていた。おそらく持ち主であろうコートを羽織った女性が、勝気そうな少女と共に映し出されている。
もう来たのか、早いなぁ。と、桜子は思った。
『もう来たのですか。早いですね。他に予定もなかったのでしょうか』
ローズマリーが余計な言葉を付け足す。
「こちらの準備は終わっていますから、早く来られる分には問題ないですよ」
『しかし迷っているようです』
「あれは躊躇してるって言うんじゃないですかね。駐車場にインターホンを繋げてもらっていいですか?」
『かしこまりました』
ここでテーブルがにゅっと開いて、中からマイクが出てくるびっくりギミックは、桜子の提案で一朗が備え付けたものである。もともと要塞じみたセキュリティを持つこのマンションが、秘密基地への第一歩を踏み出した瞬間だった。
「あー、てすてす。芙蓉さん、アイリス、聞こえますかー」
桜子がそう呼びかけると、画面の中で二人がびくっと肩をすくめた。
『あー、キルシュさん? 来たけど……これからどうすればいいんだっけ?』
アイリス、本名:杜若あいりが、周囲をきょろきょろ見渡しながら言った。そういえば、彼女は以前、駐車場までは来たことがあると言っていたか。そこから上にあがってきたことはない。当時は、ちょうど桜子がローズマリーに監禁されていたときだ。無理もない。
芙蓉とあいりは、ゲームの内外においてもすっかり仲良くなってしまったようで、結構なことだ。互いに妙なところで引っ込み思案で、妙なところで積極的な部分があるのを、上手く補い合っているように思う。今回に関しても、どちらかと言うと年長者である芙蓉が緊張して、あいりがそれを引っ張っている様子だった。
「駐車場からロビーに行ける扉がありますから。自動ドアのロックはローズマリーが解除します」
『誘導ランプをつけました。こちらになります』
『あ、ありがと……。なんか便利ね』
セキュリティシステムに人格があるというのは、こういうことだ。実に便利ではある。
しばらくして、改めて部屋のインターホンが鳴った。
「はいはーい」
桜子はとてとてと廊下を走り、ロックを外して扉を開ける。そこには、先ほど画面の中で確認したばかりの二人の姿があった。あいりがにっこり微笑んで、手をひらひらと振り挨拶する。
「やっほー」
「ようこそいらっしゃいました。おふたりが一番乗りと二番乗りですよ」
桜子もにこりと笑って応じる。あいりは、隣に立つ芙蓉めぐみを見上げてこのように言った。
「一番乗りだって、芙蓉さん。先に上がる?」
「あいりさん、ここが一朗さんのおうちだからって、わたくしに気を遣ってらっしゃいますの?」
「そりゃあ、使うでしょ」
「上がらせてっ、いただきますわっ」
そう言うや、芙蓉が腕まくりもせん勢いで玄関に足を踏み入れる。口数が少なかったのは妙な気負いもあったに違いない。桜子としては、未だに現実世界で芙蓉と正面切って話すことに抵抗があるので、今日一日は積極的にあいりを間に挟むつもりであった。
「そういえば、桜子さん」
「えっ、はい!?」
と、思った矢先に声をかけられたので、桜子もびくりと背筋を伸ばす。
「おっしゃったとおりケーキ、買ってきましたわよ。ブッシュ・ド・ノエルでよろしかったかしら?」
「ストロベリーショートでもモンブランでも、なんでも良いですよ。こういうのは私が作るよりお店のものの方が美味しいかと思って。ありがとうございます。冷蔵庫に入れときますね」
芙蓉の手からそこそこのサイズがあるビニール袋を受け取った。中には紙製の箱。ドライアイスの冷気も伝わってくる。
「じゃ、あたしもお邪魔しまーす」
「あ、お二人共、コートはお預かりいたします」
あいりも丁寧に靴を揃えて上がり込む。彼女がチェスターコートを脱ぐと、この寒空の下を歩いてきたとは思えないミニスカートから、羨むほどの細脚がすらりと覗いていた。彼女いわくオシャレは気合であるらしいので、ここについて桜子からは言及できない。
さすがに芙蓉の方は落ち着いたデザインの装いではあったが、さすがに日本のポップファッションを背負う身なだけあって、手抜きや妥協は一切感じられない。ハイセンスな二人が足を踏み入れるだけで、邸内の雰囲気が一気に華やいだ。
「なーんか、御曹司の家って感じ……」
「そりゃあ、一朗さまの家ですからね……」
廊下にかけられた額縁入りの写真や和紙を眺めて、あいりはぽつりと呟く。桜子はまっすぐにリビングへ案内するが、芙蓉が何かを気にするようにきょろきょろと視線を配っていた。
『どんなに探してもイチローはいません』
「わ、わかってますわよ! ローズマリーさんこんにちは!」
『こんにちは』
変わっていない。
ナローファンタジー・オンラインのオフ会を兼ねているだけあって、ここにいる四人はゲーム内でもそれなりに密な友好関係を築いている。要するに変わっていない、というほど会話をするに日を空けているわけでもないのだが、それでもまぁ、芙蓉めぐみは変わっていない。
「あと誰が来るんだっけ?」
リビングルームへの扉に手をかけた桜子に、あいりがたずねた。
「ユーリさんとあめしょー、あとあざみ社長ですね」
「あら、思ったより少ないんですのね。もっと集まると伺っていましたわ」
「騎士団の皆さんはドタキャンです。ストロガノフさんのレストランに急な予約がたくさん入ったので、騎士団は山梨でクリスマスオフを開催するそうです」
「まー、飲食業がイブにオフ会遠征しようなんて、世の中舐めきってるわよね……」
それでもレストランの方で開催すると言い切るあたり、騎士団も根性がある。ティラミスは仙台、パルミジャーノは博多からわざわざ足を運ぶのだから、彼らの絆の強さを伺わせた。
もちろん声をかけたのは彼らだけではない。
キングキリヒトは、まぁ最初からあまり期待はしていなかったが、やはり来れないということである。断りを入れる際の『家で良い子にしてねぇとサンタさんが来ねーだろ』というセリフは、キングの実年齢を鑑みて、マジで言ってるのか冗談だったのかいまだにわからないところだ。桜子としても藪はつつきたくないので黙っておいた。
エドワードは予定があるとのことでにべもなく断られた。24日の予定と言うと例のアレしか思い浮かばないのだが、肯定されても否定されても虚しい気持ちしか残らないだろうと思ったので、ここはやはり黙っておいた。
その点マツナガなどはキッパリとしたもので、『じっくりお膳立てをしておいた臨時戦闘ギルド〝しっと団〟の活動記録を記事にする』などとの理由で断られた。彼としては、キングが改めて最強プレイヤーの座に返り咲いたのは良いとしても、絶好のおもちゃであるイチローがいなくなって、わりと寂しい思いをしているらしい。
苫小牧は、大型類人猿にVRMMOをプレイさせたという戯れから、どうやら脳科学史上に残る恐るべき大発見をしてしまったらしく、11月あたりからめっきりログインする機会が減った。いちおう連絡のメールを送ってはみたのだが、残念ながら来れそうにないということである。東国原英夫をさらに20キロ減量させたような件の脳神経学者は、現在シベリアにいるという。無事に冬を越せるか心配だった。
「ま、そんな感じで来るのはみんな女の子です。女子会ですよ」
「あら、キリヒツの皆さんは?」
「喪に服すって言ってたわよ。毎年12月24日はそうなんだって。サナの冥福を祈るって言ってたけど、やっぱ例のあれのキャラなの?」
「そうですよ。別に彼女はクリスマスイブに死んだわけじゃないんですけどね」
桜子が扉を開け、ようやく暖房の効いた室内へと入る。一朗の趣味でこざっぱりとしたリビングルームには、飾り付けられたクリスマスツリーが置かれ、すっかりパーティー仕様へと変貌していた。あいりは『おぉ……』と息を漏らし、芙蓉はごくりと唾を呑む。
「こ、ここで一朗さんが毎日生活してらっしゃるのね……?」
「芙蓉さん、それ以上はいけないわ」
「寝室の方はキープアウトさせていただいておりますので、あしからず」
預かったコートをコート掛けにかける。桜子は最初の来賓をもてなすために、ひとまず台所へと向かった。
オフ会に関してももう3、4ヶ月ぶりになるのか。まったく、月日が流れるのは異様に早い。トレーの上にティーセットと、お茶請けのバタークッキーを添えてリビングへ戻る。さすがに足を伸ばしてくつろいではいなかったが、あいりの方は思ったほど緊張していない様子だった。彼女も随分肝が肥えたように思う。
「アイリス、落ち着いてますね」
「なんかね。見る限り、『うわー、カネ持ちの家だなー』とは思うんだけど……なんかね。豪邸なら芙蓉さんちで見慣れてるからなのかしら」
見慣れるほど足繁く通う仲なのか、と突っ込む勇気はなかなかない。
「調度品の配置は、一朗さんらしくてステキですけれど、意外とブランドがバラバラですのね」
「一朗さまの場合、その場で気に入ったものを買ってきちゃうからそうなるんですよ。まぁでも陶器はだいたいウェッジウッドです。ラーメンどんぶりがロイヤルコペンハーゲンで」
アイリスは周囲をきょろきょろと見渡してから、天井を見上げる。
「ローズマリーもいるのよね? ここに」
『いますよ』
「姿が見えないからなんか実感がないわ」
『では中央モニターに出します』
液晶テレビの画面が駐車場の光景から切り替わり、人型の3Dモデルを映し出す。ローズマリーがゲーム内アバターとして使用している魔族のメイド忍者・ヨザクラのものだった。彼女は無表情のまま手をひらひらと振っている。
「でも、ほんっとーに三人しか住んでないのね。このだだっ広い家に」
「三人しか住んでないんです。お掃除が大変なんですよ」
桜子がのほほんと言ってティーカップを配り、自身の紅茶を口に運んだ。
「くっ……忸怩たる思いですわ……」
芙蓉は険しい表情でカップを手に取る。
「そのあたりに関しては、なんというか、私は非常にコメントしづらいものがあるんですけどね……?」
『なぜですかお父様。言ってしまいましょう。最近イチローとお父様は格闘ゲームでしのぎを削る仲です。遊戯室に筐体もありますよ』
「忸怩たる思いですわ!」
ぐっ、と拳を握る芙蓉に対して、あいりは何も言おうとしない。ただ、紅茶をぐっと飲み干してから、
「だから芙蓉さん、出発前にあんなに心配したのに……」
「でもでもだって、あいりさん。わたくし、友達からクリスマスパーティー誘われるの初めてなんですもの……」
いったいどのようなドラマと葛藤を経て芙蓉がここに足を運んだのか。まぁ想像ならば容易につくが。
石蕗一朗に絶賛恋慕中の芙蓉からして、パーティー会場である一朗の家に乗り込むのは、敵地に侵入するも同然の心地であっただろう。しかし家主は不在。代わりに異性の同居人が家にいる。凄まじい敗北感と焦燥感が身を焼くのは火を見るよりも明らかであった。考えてみれば、これは相当に残酷な仕打ちである。
「それに、わたくしの好きな法廷ドラマでこんなセリフがありましたわ。『誇りある生き方を取り戻したいなら、見たくない現実を見なければならない』と! 戦うことってそういうことですの」
「芙蓉さんがそれでいいなら、いいんだけど……」
「ま、まぁ初めてのクリスマスパーティーなら、楽しくやりましょうよ」
桜子としてもこの話題をこれ以上引っ張りたくないので、作り笑顔で話を切り替える。
「私もパーティーに友達を呼ぶのは初めてです。みんな、そろそろ来るんじゃないですか?」
その言葉に合わせるかのように、都合よくチャイムが鳴った。
夜、9時である。BGM代わりにつけていたラジオで、クリスマス限定企画の24時間ラジオが放送を開始した。それに合わせ、石蕗邸に集まった乙女たちはクラッカーを構える。歓声と共に、景気のいい破裂音が室内に響いた。ちょっぴり火薬の匂いが空気に交じるが、すぐにアロマにかき消される。
『メリークリスマース!!』
聖夜を祝うために集まった乙女は7人。みな、イブに予定のない生粋の暇人である。
「あめしょーも、なんかないの?」
「ないよー」
鴨のローストを皿にもっそりとよそいながら、いちおうアイドルであるはずの雨宮翔子はケタケタと笑った。
「ぼくは、自分の若さと可愛さを鼻にかけて今のうちになるべくおカネとコネを築きつつあとの人生をゆっくりのんびり楽しく生きたいの。それ以上のことはしません。まー、クリスマスに付き合えって話もないではないけどぉー。そっちのコネとぉー、こっちのコネを比べるとぉー、まぁだいたいおんなじくらいだし、じゃあ楽しいこっちでいいやってなるじゃん?」
「あんたもブレないわね。ユーリは?」
「ないよ」
茅ヶ崎由莉奈は背の高い中性的な女子大生である。そこそこメンバーの多いサークルに属し、友人も多いと聞いていたので、まさかこっちを優先してくれるとは思わなかった。ちょうどハタチの彼女は、桜子の開けたシャンパンをグラスにもらっている。あめしょーもさりげなくグラスを差し出していたが、未成年の飲酒に対して桜子の態度は厳格だった。
リーデルのグラスに口をつけて、由莉奈は重々しく言う。
「みんなクリスマスに予定があったけど、私はないんだ」
「でも彼氏いるんでしょ?」
「えっ、なにそれ。ぼく初耳」
「いた。今はいない」
少し離れた場所にいるオトナ組(桜子、芙蓉、あざみ社長)の中で、芙蓉とあざみ社長が懸命に聞き耳をたてていた。いや、あざみ社長はこれで由莉奈より年下だから、オトナ組と言うと語弊はあるか。
「別れたの? いつ?」
「11月」
「うわぁ、それはタイムリーな別れ方だねぇ。元カレさんの心にも傷が残るねぇ」
「全面的に向こうが悪いので情状酌量の余地はないよ」
元からきっぱりという由莉奈だが、この様子だといくらか根に持っているに違いない。こっそり話を聞いていた限りでは、それなりにカルい性格の男だったと聞くし、まぁ、カルい性格であるが故のアレでもやっちまったのだろう。空手でインハイ出場経験のある由莉奈を怒らせたのであるからして、その某の末路は推して知るべしか。
「そういえば、一朗さまづてに聞きましたけど」
オトナ組として話をしていた桜子はわざとなのか、不自然に大きな声で話題をつなぐ。
「あざみ社長の方は最近いかがなんです? 著莪さんがことあるごとにモーションをかけていると聞きましたが」
「ありえませんね。歳も10離れていますし」
あざみ社長がありえないと言うのならありえないのだろう。話は終わってしまう。
「私が気になっているのは、ローズマリーのことだけですよ」
そう言って、ちらりと液晶画面に目を移す。画面の中でパスタをよそっていたヨザクラが、驚いたように顔をあげた。
『私ですか』
「えぇ、そうよ」
『私にはイチローという心に決めた男性が』
「そういうことではないんだけど」
あざみ社長は、ファンタグレープの入ったグラスを見つめて遠い目を作った。
「あなたが恋心をきっかけに人格を獲得したのは嬉しいんだけど……やっぱり複雑なのよね……」
「ま、まぁまぁあざみ社長」
「あなたもですよ扇さん。私を差し置いてローズマリーに父親などと呼ばせて」
「うっ……」
今日のあざみ社長はえらく抉ってくるではないか。こちらは、この場にいる全員(仕事で顔を合わせる芙蓉は除く)にとって久方ぶりの対面となるのだが、しばらく見ない間にやはり肝を肥やしたらしい。あいりと同じだ。一朗に連れられて経済界を練り歩けばこうもなろうか。
『その話題に関しては保留とさせていただいてよろしいでしょうか』
珍しく狼狽じみた動きを見せながら、ローズマリーが言った。あざみ社長も頷く。
「いいでしょう。せっかくのクリスマスに水を差すのは本意ではないもの」
「既に差されてます」
「……何か」
「いえ、別に」
桜子の額に脂汗のようなものが浮かぶのを、一同は見逃さなかった。誰に対しても温和に立ち回る彼女である。こんな妙なところで敵を作るとは思っていなかったのだろう。特に芙蓉などは、あざみ社長の気持ちもわからないでないだけに複雑だ。ぶっちゃけ扇桜子は良いポジションを独占しすぎである。
「じゃあ、クリスマス定番の話をしよう!」
こういったときに頼れるのはあめしょーであった。さっきまでのムードなどまるでなかったかのような、あっけらかんとした顔で言う。
「なにそれ」
「そりゃーアレだよぉ。『サンタクロースをいつまで信じてた』?」
「それは、『たわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいい話』っていう谷川流のお墨付きがあるじゃないですか」
「ぼくはそのどうでもいい話をしたいの」
あめしょーが『ねぇねぇ、どうだった?』とたずねると、一同は自分の少女時代を思い返すかのようにじっくり考え込んだ。最初に口を開いたのは、年齢的にも少女時代を一歩抜けたばかりであろう、野々あざみである。
「私は、両親には申し訳ないですけど、最初から信じていませんでした」
「おっ、リアリスト!」
あめしょーが茶化す。次に、あいりも遠い目をして呟いた。
「あたしは信じてないっていうか、ちっちゃいころお爺ちゃんから『サンタクロースはお前の父ちゃんだぞ』って教えてもらったわ」
『極悪人ですね』
ヨザクラ=ローズマリーが神妙な面持ちで相槌を打つ。
『私も最初から信じていませんでした。ウェブ上でサンタクロースのデータを集めた結果、すべての項目は〝架空の人物である〟という前提条件の上に成り立っています』
「なんか、買おうか迷ってるゲームの情報を集めていたら、ひどいネタバレを踏んだようなアレですね……」
「あ、ぼくも最初からいないかなーって思ってたよぉ。いるといいなー、とも思ってたし、今でも思ってるけど」
四人分、『最初から信じていなかった』という意見が出揃う。残る三人はどうかと言うと、こうだ。
「私はどうだろう。10歳くらいのときまでは半信半疑だったな。でも、だんだん、いないんだろうなって気持ちが強くなってきて、中学生のクリスマスの時、親から『クリスマス何が欲しい?』って直接聞かれて、おしまい。弟がいてね、けっこういるかのように振舞ってたけど、たぶん、弟も私と同じ感じだったと思うよ」
「あー、わかります」
桜子が力強く頷いた。
「私は逆のケースですね。両親に加えて二人の兄も、さもいるかのように話してくれたんで、『いないんじゃない?』って思いながらも、信じちゃってましたよ。当時私にとって絶対の存在だった兄が『いる』って言うんだから、『じゃあいるのかなぁ』って」
ここまできて、視線が最後のひとりである最年長者、芙蓉めぐみに注がれる。ある種、期待を込められた視線でもあった。まさか芙蓉も、その期待に応えるつもりではなかっただろうが、小さき咳払いをした後、彼女はこう言った。
「わたくしは高校に上がるまでは信じていましたわ」
「さすが、期待を外さない!」
「芙蓉さんピュアだわ!」
『脳みそお花畑ですね』
「ローズマリーさんあとでお話があります」
ただこの反応は予想していたようで、芙蓉も今更恥ずかしがったり取り繕ったりするような様子はない。シャンパングラスに口をつけて、ちょっぴり苦笑いを作る。
「わたくし、お父様がお年を召されてからの子でしょう? 小さい頃はかなり甘やかされましたし、同時に過保護に育てられましたわ。だから、わたくしの夢を壊さないような万全の配慮がありましたの。真実を知ったときは、もっと早く教えて欲しかった、という気持ちですけれど」
「結局はそこですよね。いつかは知らなきゃいけないことですから」
あざみ社長が言うと、それぞれそれなりの心当たりに出くわすのか、神妙な表情を浮かべた。その中で、あいりがぽつりと言う。
「あたし気になるんだけど、ていうか、みんな気になってると思うんだけど、」
その言葉に、注目が集まる。が、一同はおおよそ次に出てくる言葉を予想していた。
「御曹司はどうだったのかしら」
空気が一瞬、ぴたりととまる。
御曹司。言うまでもなく石蕗一朗のことである。彼はこの家の主人であり、この場にいる全員に因縁深い人物だ。冷涼で超然とした態度と言動は憎たらしいことこの上ないのだが、あれでいて妙に素直なところがあり、彼に『サンタクロースを何歳まで信じていたか』という疑問をぶつけてみたいという気持ちは、一同誰にでもある。
「ツワブキのことだから、生まれた時からいないと確信していてもおかしくはないにゃー」
あめしょーが当然のことのように言うと、芙蓉は首をかしげた。
「あら、長いこと真剣に信じていたと言われても、わたくしは驚きませんわ? 一朗さんも純粋な方ですもの」
「それはさすがに御曹司を買いかぶり過ぎだわ。いや、純粋だとは思うけど……意味がちょっと違ってくるというか……」
「それなんですけど、」
議論に桜子が割って入る。こういったとき、同居人の発言の威力は凄まじい。彼女の言葉は、直後にとんでもない爆弾となって投下された。
「去年までは『いるんじゃないか』って思っていたらしいですよ」
「ぶっ」
あいりがジュースを吹き出した。由莉奈とあざみ社長も何やらむせている。
「えー、うっそだぁー」
あめしょーがケタケタと笑う。
「さすが一朗さん、純粋な方ですわ」
芙蓉がうっとりと言う。
『お父様、それは事実でしょうか』
ローズマリーも困惑している。
六者六様といったところか。ただし、芙蓉を除き『どうも信じられない』という方向性で意見は一致している。
石蕗一朗、23歳だ。去年までということは、22歳に至るまでの間、サンタクロースの存在を信じていたことになる。
サンタクロースというのは言うまでもなく、聖ニコラウスの伝説に端を発し、様々な民族伝承を吸収して膨れ上がった、赤い服の老人である。トナカイに引かせたソリに乗り、子供たちにプレゼントを配る。西洋における年の瀬の象徴であって、実在する人物ではない。グリーンランドの協会が定める国際サンタクロースというものもあるが、アレはあくまでも普通の人間であって、間違っても煙突から民家に侵入して子供たちの枕元にそっとおもちゃを置いていったりはしない。
一朗は、そんなサンタクロースの存在を、22歳になるまで信じていたという。それはさすがにちょっぴりメルヘンだ。ファンタジーだ。カネのリアリティをとことんまで追求する石蕗一朗の姿勢とはあまり一致しない。
「まー、周りがどんなに『いない』っつっても『いる』って信じ通したんなら……御曹司らしい話ではあるけど……」
あいりは複雑な表情を作って言った。
「そもそもですね、私がこの話題を振ったときの一朗さまの態度ですよ。『サンタクロースをいつまで信じてました?』って聞いたらですね」
「『ナンセンス。逆に聞くけど彼はいつからいなくなったのかな』」
「一語一句たがわず正解なんですが」
複雑な表情のままで、あいりが鼻から息を漏らす。
「だいたい想像つくわよ」
「あ、あいりさんに一朗さんの思考をトレースしていただければ擬似デートができる可能性が!?」
「芙蓉さん落ち着いて。そもそもあたし最初の前提予想をハズしてるわ」
桜子の投下した、一朗謹製の爆弾である。それぞれの心に様々な形の爪痕を残した。そうか、石蕗一朗はつい最近までサンタの存在を信じていたのか、と知ったところで、改めてリアクションがとりづらいのだ。あまり知らなくていい、知りたくもないことを知ってしまった気分である。
「えーっと、とにかく、プレゼント交換でもします?」
「キルシュー、ぼく、先にケーキが食べたい」
「よく食べるね」
桜子の提案に、あめしょーがぴょこんと手を挙げて、由莉奈がぽつりと呟いた。桜子は時計を見て、台所の方へと足を進める。
「じゃあ、芙蓉さんが買ってきてくれたケーキでも食べますかー。お代は会費から出しますね」
「あら、いいんですのよ。気になさらなくって」
「でも、お高いんでしょ? お高いのはダメですよ。そういうのをタダでヒョイヒョイ手に入れられるとダメ人間になりますからね」
さすがにダメ人間一歩手前まで言った暗黒課金メイドの言葉には重みがある。桜子の姿が完全に台所へ消え、パーティー会場であるリビングには一瞬の沈黙が訪れた。どうせまたすぐに誰かが、他愛もない話題を切り出して、消え去るであろう沈黙である。誰も気にも止めていなかった沈黙である。
だがそれは意外なことに、長く長く続く沈黙となった。
無音ではない。ラジオからは、相変わらず女性パーソナリティがリスナーからの手紙を淡々と読みながら、ときおり恍惚とした声音を漏らし、男性パーソナリティとスタッフをビクビクさせている。そんなラジオの音の合間に、不自然に聞こえてくる鈴の音が、その場にいる全員の興味を引いた。
なんだろう、この音は。一同は首をかしげる。テレビやラジオから流れている音ではないのだ。この部屋の中にも、鈴を鳴らすようなものは存在しない。クリスマスツリーにつけられているものも、単なる飾りだ。
『………あ、』
最初に声をあげたのは、ローズマリーである。人間が何かを見つけたときに発する自然な声を、この人工知能もひり出した。なんだろう。部屋の中に変化はない。だが待てよ。ローズマリーが見ているのは部屋の中だけではない。セキュリティシステムと合一化した彼女は、マンションの内外様々な箇所に設置された監視カメラと、
まさか。
先ほど鳴っていた鈴の音が、それまでの思考と奇妙な合致を起こした。最初にあいりが、次に芙蓉が、あめしょーが、由莉奈が、あざみ社長までもが、困惑にまみれたデタラメな予想に、ほんのちょっぴりの期待を込めて、ベランダへ繋がるガラス戸に駆け寄る。締め切られたカーテンが勢いよく開き、外の寒さを直接伝える、ひんやりとしたガラスの感触が直に来た。だがそれは問題ではなかった。
よもや。
外には雪が降っていた。一同がまったく同じ解にたどり着いたのは偶然ではないだろう。確かに彼女たちは鈴の音を聞いたのだ。そして不自然に大きく、なぜか心地よく耳に残るそれが、部屋の中から発せられていないのは明確だった。
とにかく、カーテンを開けた彼女たちは見たのである。感想は自然と口から漏れた。
「うっそぉ」
「ほんとに……?」
「わお」
「びっくりですわ」
「ありえません」
『ネットの情報なんか信じられない』
「みなさーん、ケーキとお茶の準備ができましたよー」
何も知らないのんきな桜子の声も耳に届かず、彼女たちは今目の前で起きた出来事と、今まで築き上げてきた常識に折り合いをつけるため必死になった。ガラスに張り付き、宵闇のむこう、白雪と夜景のコントラストを駆け抜けていく、ひとつの影を眺める。あれはなんだ、という問いは愚問である。それに対する答えなど最初からひとつしかない。今日は何月何日だ? 世間で祝っているのは一体何だ? 今も街に溢れかえる赤い服の人間は、いったいなんの格好をしてフライドチキンを売っているのだ?
答えなどひとつしかない。だがそれを、果たしてここで認めてしまっていいものなのだろうか?
不審に思った桜子が、背後からそっと寄ってきた。その後、他の一同と同じように窓ガラスのむこうに視線をやって、軽くひとこと『おぉ』と漏らす。そして場違いなほどいつもどおりの声で言った。
「ところで、さっきの話の続きなんですが、」
桜子の言葉を聞きながら彼女たちは、ソリに乗って空を翔ける、あまりにも非現実的な存在を目で追っていく。
「去年まで『サンタはいるんじゃないか』と思っていた一朗さまは、最近それを確信に変えたそうですよ」
トナカイソリの御者である赤服の人物が、何やら意味ありげにこちらを振り向いたように見えた。
鬱蒼と茂る森の奥に、こじんまりとした木造の小屋がある。石蕗一朗は小屋の前、しんしんと降り積もり雪の中で、大きく深呼吸をした。北国の冷たい空気が、森の中に充満するフィトンチッドと共に肺の中に流れ込んできた。ソリに繋がれた9頭のトナカイが、不思議そうな顔でこちらを見てきたので、一朗は小さく微笑むと、その先頭に立つ赤鼻の首元を撫でてやった。
軽い気持ちで引き受けたお願いだったが、なかなか骨の折れる仕事だった。カネに困っていない身としては、今更これがボランティアであることにケチをつける気など毛頭ないが、こんな重労働を年一回とは言え毎年やっているという老人には、頭の下がる思いだ。なかなか下がらないことで有名な一朗の頭であるからして、これは貴重な感想であると言えた。
「イチロウ」
不意に名前を呼ばれたので、一朗は振り返る。木造小屋の扉を開け、まるで雪人形のように青白い肌をした少女がこちらを見ていた。が、すぐに吹き出す。
「似合ってないわ。それ」
「ナンセンス。君のおじいさんより似合わないことは認めるけど」
この衣装はこの衣装で気に入っていただけに、その感想は少しばかり残念と言える。まぁ、他人がどう言おうと自分の意思を貫くのが一朗の本意だ。残念ではあるが、そう言われたところで脱いだりはしない。
「で、おじいさんの腰はどうなの」
「だいぶ良くなったけど、やっぱり歳なのよね。新年明けても立てなさそう。来年のクリスマスは大丈夫だと思うんだけど」
「寝正月か。なかなか辛いね。整体くらいならできるけど」
「あなたの整体は痛いから受けたくないって言ってたわ」
「そう?」
あの老人も人がよく見えて偏屈な部分があるからな、と思う。一朗の曽祖父にそっくりだ。
「あの、イチロウ。突然変なことお願いしてごめんなさいね」
「ナンセンス。気にしてないよ。今更感もあると言えば、そうだけど、結果的には貴重な体験ができたしね」
9匹のトナカイも最初はなかなか言うことを聞いてくれなかった。一朗としても現実世界で何かに苦戦するというのはこれがなかなか稀有な経験で、そういった意味ではかなり楽しませてもらった。おかげさまで達成感はある。
ひとまずこれにてお願いは終了だ。今日の朝には、日本行きの便で家路につけるだろう。日本のクリスマスがどういったものであったか、という点に関しては、いまちょっと気になっている。一朗が抱えている企業はどれもこれもクリスマス商戦が絡むものばかりだ。現内閣が推進していた経済政策の結果がようやく出かけた8月末に、一朗はそれを思い切り上からたたきつぶすような真似をしてしまったので、いまだに混迷の渦から抜けない日本の経済状況はちょっと読めない。
まぁそのあたりはなんとかしよう。市場にはカネを流した。あとはそれがどう動くかだ。
あと気になることといえば、自分の家で行われているというクリスマスパーティーか。帰って間に合うかどうかはわからないが、全員分のお土産でも買って帰るべきかもしれない。
ひとまず、帰る旨を桜子に伝えようと携帯を取り出すが、どうやらここは圏外であるらしい。一朗は赤い服の懐に携帯をしまいなおすと、今にも凍りつきそうなほど白い息を吐いて、降り積もる雪にこうつぶやいた。
「メリー・クリスマス」
メリー・ナンセンス