(5)
石蕗一朗の朝は早い。彼は毎日22時から24時の間に就寝し、4時から5時の間に起床する。極めて健康的なライフサイクルは原則として不変であり、海外渡航などの際にも、時差に合わせた睡眠時間の修正をオートメーションで行う。一朗の体内時計は恐ろしいほどに正確だ。この時間に起きるのだと決めた場合、まるで一分一秒とたがわず、その時間に目を覚ます。
この家の使用人である扇桜子も、負けじと朝は早いのだが、早朝の廊下で出くわすことはほとんどない。朝は活動範囲が被らないためだ。
起きた一朗が何をするかと言えば、大抵の場合、彼は室内プールかトレーニングルームへ向かう。この日も既に、一朗は寝起きの運動のために室内プールで泳いだ後であり、今は汗をまとめて洗い流そうと、シャワールームへ向かっていた。なお、最近一朗は、水中で何秒息を止められるかという挑戦を再開している。本日は自己ベスト記録を更新したこともあり、朝から気分が良かった。
「んー……」
シャワールームに入り、冷たい水を頭から浴びる。降り注いだ水流は、180センチ余りの長身に無駄なくついた筋肉の上を、無数の線となって伝っていった。一朗はとりとめのない思考に耽る。
昨日の夜、桜子の私室で触らせてもらった対戦格闘ゲームは、なかなか面白いものがあった。あれも奥の深そうな遊びであり、もう少し追及してみたい気持ちもあったが、一朗の部屋にはゲームハードもゲームソフトもない。ローズマリーも興味を示していたし、ダイニングに一台置いておくのも悪くはないか。
『おはようございます。イチロー』
決して広くないシャワールームの中に、そのローズマリーの声が響いた。
「おはよう」
ローズマリーは、言ってしまえばこの家全体が知覚範囲のようなものなので、どこにいようと彼女の気が向いたときに声をかけてくる。当初、桜子は落ち着かない様子だったが、さすがにローズマリーもこの数週間でプライバシーという言葉は覚えたらしい。ついでに言えば、電気や水を使わない限り、ローズマリーはそこに誰かがいることを認識できないので、部屋の明かりを消してぐっすり眠っている時に起こされるようなこともなかった。
「ただ、人がシャワーを浴びている時に声をかけてくるのは感心できないかな」
一朗がぽつりとそう言うと、ローズマリーは生真面目な声で
『申し訳ありません』
と謝罪した。
「僕はあまり気にしないけど、桜子さんには気を使ってあげてね」
『そのお父様ですが、本日は職務に支障をきたす可能性があります』
「うん?」
一朗はシャワールームを出る。タオルの取り方から身体の拭き方まで、日常生活らしからぬスタイリッシュなモーションが組み込まれていたが、その芸術的なほどに洗練された仕草を目の当たりにできた人間は、今のところ存在しない。
そのまま彼は洗面台の前に立って朝の支度を始めるのだが、ローズマリーの言葉が少し気になったのか、聞き返した。
「桜子さんが、どうかした? 体調が悪いようなら無理をせず寝るように伝えて欲しいんだけど」
栄養管理・衛生管理もしっかりした桜子であるから、風邪をひいたり熱を出したりということは滅多にない。滅多にないが、仕事の量がそこそこ多い職務であることは、雇用主である一朗が一番知っている。無理が祟れば抵抗力が落ちて、病原菌に間隙を突かれることも、なくはないのだ。
何しろ付き合いが5年であるからして、熱を出した使用人の世話を、雇い主がするというようなことも、数えられるほどにはあった。不謹慎だが、あれはあれで貴重な体験として楽しんだものである。
だが、どうやらローズマリーの言葉を聞くに、そうしたやむを得ない体調不良の類では、ないらしい。
『お父様本人は、自己責任の範疇なので気を使わないで欲しいとのことです。お父様の職務遂行に懸念を抱き、イチローに事前報告を行ったのは私の判断によります』
「ふーん」
話を聞くうち、一朗はシャツに袖を通し、ベストを着込み、ジャケットを羽織ってカフスを留め、一日の準備を完全に整えていた。相変わらず部屋の中でくつろぐには向かない服装だが、好きで着ているので他人にどうこう言われる筋合いはない。
腕時計を見ると、時刻は午前6時を回る頃。だいたいいつもどおりの流れだな。一朗は廊下に出た。そろそろ桜子が朝食の支度に取り掛かっている頃であり、この時間になると一朗もリビングやダイニングでゆったり過ごす。
額縁に入れられた和紙(桜子製)と、そこにしたためられた『なんせんす』の筆文字を横目に流し、一朗は居間にたどり着く。台所では、やはり桜子が仕事を始めていた。
「おはようございます、一朗さま!」
元気な声で挨拶をされる。聞いたところ健康そのものだ。取り立てて支障はなさそうに思える。
「おはよう、桜子さん」
既にダイニングテーブルの上には、空のティーカップと今朝の新聞が置かれている。一朗はいつもどおり、まずは経済新聞を広げて椅子に座った。台所でニンジンを刻んでいた桜子は料理を中断し、ティーポットを持って一朗にカップに紅茶を注ぎに来る。
「失礼いたします」
「ん、」
普段は気にもとめない桜子の所作を、今回ばかりは横目でしっかり確認した。結局、いつもの朝と変わらず、完璧な仕事をこなすヴィクトリアン・メイドの姿がある。が、一朗は新聞を畳み、桜子の顔をじっと覗き込んだ。
「……ど、どうなさいました?」
さすがに桜子も視線に気づいて、首をかしげる。
「桜子さん、徹夜した?」
微かに感じ取った違和感の正体を指摘すると、桜子はぎょっとしたように天井を見上げた。
「ろ、ローズマリー?」
「桜子さん、ローズマリーは何も言っていないよ。彼女を責めないで欲しい」
ティーカップを手に、涼やかな声音で一朗は言う。桜子が視線を戻す。
「お、お気づきになられますか」
「目元のファンデーションがいつもより濃いから、クマでも隠してるのかなって」
一朗がなんでもないことのように言うと、桜子はたじろぎながら自らの目元を撫でた。
「ご心配をおかけしている上でこんなこと言うのも失礼ですけど……、そういう過剰な観察能力って下手な誤解を与えたりするから、あまり使わないほうが良いんじゃないかと」
「ナンセンス。僕も言う相手は選ぶし、あまり相手が不快に思うことは指摘しないつもりだよ」
「そうかなぁ……」
「そうだよ。桜子さんが気づいてないだけで、他にもわかることはいろいろある。指摘はしないけど」
「それちょっと怖いんですけど!」
一朗は、視線を完全に新聞に戻していた。桜子はこほんと咳払いをして、続ける。
「仕事に支障はきたしません。ご安心を」
「ん、けっこう。元からそんなに心配してないけどね」
桜子もまだまだ若い(※26歳は若い)。一度の徹夜でダウンしてしまうような使用人では、もとよりここまで続いていないだろう。プライベート時間の使い方は彼女次第でもある。
睡眠時間はしっかり取っておくべきだというのが一朗の持論であって、徹夜自体はそんなに褒められるものではないのだが、その価値観を桜子に押し付けようとまでは思わない。彼女が大丈夫と言うなら大丈夫なのだ。桜子が徹夜した理由というのが少し気になったというのはあるか。詮無い疑問である。
一朗がひとつの新聞を読み終える頃には、桜子も朝食の支度を終えてダイニングに皿を運んでくる。
『毎朝思うのですが、』
目を通してその光景を眺めていたローズマリーが、ふと声をあげる。
『昼食、夕食と比較して朝食はレパートリーの幅が狭いように感じます』
「ん、」
新聞を畳み、一朗はテーブルの上に並ぶ料理を眺めた。
スクランブルエッグにグリーンサラダ、トースト。マッシュルームをガーリックで炒めたものが皿の端に添えられている。確かに、いつもこうしたものであると言えば、そうだ。
「まぁ、朝からあまり重いものを食べたくもないしね」
「雰囲気を重視すると、毎回こんな感じになっちゃうんですよね」
桜子は、それぞれピッチャーに入った牛乳とオレンジジュースを置いて首をかしげる。
「一朗さまの朝ごはんってご実家でもこんな感じでした?」
「そうだね。大学時代は、母の友人の家に世話になっていたけど、やっぱりこんな感じのものが多かったよ。当時はオートミールばかり食べさせてもらった記憶がある。ただ、子供の頃は、曽祖父の家で食べる朝食の方が楽しみだった。あっちは和食だったかな」
桜子の言う〝雰囲気〟というものが、セレブリティな雰囲気を示しているのならば、石蕗家よりも芙蓉家の方が参考になるのではないかと感じる。一朗の家は、戦後に解体された石蕗財閥の残りカスを必死でかき集めて再興したものなので、父の代となるとまだ食生活やライフスタイルに庶民臭さが垣間見えるらしい。
一朗の母親は夫のそうした側面を嫌っていた。彼女の〝教育〟によって石蕗家はだいぶ〝セレブっぽさ〟を手に入れたし、一朗もその〝ぽさ〟のもとで人格が形成されたので(という話をすると、桜子はわりと真顔で『だから歪んだんですかね』と言っていた)、実家における朝食の記憶と言うと、洋食のイメージが強いというのはある。
『お父様の家では、朝はどのような食事だったのでしょうか』
「原則として昨晩の余り物です」
桜子は待機姿勢をとったまましみじみと頷いた。
「三人兄妹ですから、一度に作る量も多いですしね。余るのを見越しておゆはんも作りますし。だから、洋食とか和食とかのくくりはともかくとして、ご飯でおかずを食べることが多かったですよ」
「たまにはそういうのも良いかもしれない。ひとまず桜子さんも一緒に食べよう」
「はーい、失礼いたしまーす」
いつもの形式的なやり取りの後、桜子は一朗の対面に座る。
「じゃあ、昨晩の続きの話を聞こうかな」
グラスに牛乳を注ぎながら、一朗が言った。桜子はマッシュルームを突き刺したフォークをピッと立てて、神妙な顔で応じる。
「もちろんです。お話しますよ。この私の価値観を根底から揺るがした、あの30秒のことを」
◆ ◆ ◆
駆け引き最初から始まっていた。
梅彦の使うキャラはYRKの選択したキャラクターに対し、開幕から最速で飛び道具を打ち込むことにより間合いを離せば、一気に有利な状況に持ち込むことができる。あくまでも一般的なセオリーであり、戦いなれたプレイヤー同士では必ずしもそうであるとは限らない。
YRKは開幕飛び道具に合わせるつもりで、立ちキックを打ち込む。だがこの瞬間にあっては、梅彦の方が一枚上手であった。あえて遅らせたファイヤー波動拳によって、相殺のタイミングが合わずにYRKはダウン取られる。梅彦は、わずかに開いた間合いを安易に詰める真似はせず、YRKのキャラクターに対してもっとも有利に立てる間合いを維持する。
桜子は拳を握った。よし。
この間合いから相手を飛ばせて叩き落とす駆け引きが、梅彦の得意とするバトルスタイルだ。スト2シリーズにおいて伝統的かつスタンダードな戦い方でもあり、梅彦の卓越した技量が光る。周囲からも、開幕の一瞬でいきなり有利な状況を作り出した彼の腕を賞賛する声が上がった。
「さすがはウメヒコ」
「この間合いに持ち込めばあいつのペースだろう」
レバーを握りボタンを叩く梅彦の表情は、画面の光を反射する眼鏡のレンズによって、上手く読み取ることができない。口元は静かに結ばれたままで、彼の感情は表に出ていなかった。それはYRKにしても同様だ。この不利な状況において、取り乱す様子もない。
「噂にたがわない実力だ。いや、噂より腕を上げたかな?」
それどころか、このような軽口を叩く余裕すらあった。憎たらしい皇帝である。
「………」
梅彦はそれに応じず、ただ黙々と中遠距離の間合いを維持し続ける。強弱を織り交ぜた波動拳の連射により、YRKは距離を詰めることすらままならない。得意の空中戦法で安易に攻め立てては、それこそ梅彦の思うツボとなるだろう。通常技から必殺技まで、梅彦のキャラクターは対空手段に優れる。
だが、三発目の飛び道具を、YRKはジャンプで飛び越えた。垂直跳び。梅彦の間合いには入らない。着地の瞬間、皇帝の指先は優雅に、それでいて素早く、レバーを下から上に弾いてキックボタンを叩く。梅彦の指先にわずかな迷いが生じた。判断ミスから数フレーム出遅れた波動拳を飛び越えて、YRKのキャラクターはその巨体を山なりに飛ばす。優秀なサーチ性能から距離を詰め、飛び道具を撃ち終え隙だらけとなった梅彦の頭上から、踏み抜くような一撃が見舞われた。
「……っ!」
強烈なヘッドプレスからの近接戦闘。懐に飛び込まれた梅彦は、すぐさま距離を取ろうとするが、牽制の為に放とうとする技が、ことごとく出の早いミドルキックに潰される。わずかに開けられた距離から放つ飛び道具ですら、見計らったかのように放たれる強キックが打ち落とす。足先に発生した無敵判定がダメージ判定をすり抜けて、波動拳を放とうと前傾姿勢を作る梅彦にクリーンヒットした。
一撃のダメージが重いゲームではあるが、YRKの選択したキャラクターの攻撃力はその中でもさらに高く設定されている。攻めに転じれば、その後の流れは一瞬だった。得意とする強力な投げ技を織り込んでの連携が、体力ゲージを無慈悲に削り取る。梅彦は最後まで感情を表に出さず、なんとか流れを脱そうともがいたが、未来でも予知したかのようなYRKの先読み行動に選択肢を潰されていく。
みるみる削られていくゲージと共に観客のざわめきが大きくなる。桜子は思わず身を乗り出した。
「梅兄ちゃん!」
最後の一瞬、ミドルキック読みから放った対空攻撃すらも、YRKはあっさりと降下タイミングに迎撃を重ね、果たして勝負は決した。たった30秒の出来事である。開幕の読み合いを制したはずの梅彦が、一瞬の読み負けから全てを持っていかれるまでに制した時間は、たったの30秒であった。
やはり梅彦の表情は読み取れない。桜子は今すぐにでも駆け寄りたかったが、すぐに2ラウンド目が始まってしまう。
YRKは既に無難な選択肢を取らなかった。開幕でいきなり飛びかかり攻撃をしかける。低い軌道の超訳から放つダブルニーが、波動拳を掠めるように飛び込んで梅彦を叩き伏せる。あとは1ラウンド目の焼き直しだ。投げからの凶悪な起き攻めで、形成を立て直す余裕すら与えない。
この瞬間桜子の聴覚からは、すべての音が消え去った。ただ自らの鼓動が早鐘を打つのがわかる。全身から妙な汗が噴き出していた。価値観の崩壊から来る、精神状態の乱れであることなど、まだ12歳の桜子にはわかるはずもない。
扇梅彦。桜子が知る限りでは最強のゲームプレイヤーだ。彼女の常識の中では、彼が負けるなどという自体は発生してはいけないはずだった。
常識が覆されつつある。圧倒的な劣勢にあって、梅彦の態度はあくまでもクールなものだったが、画面の中で彼の操っているキャラクターは、なすすべもなくその体力ゲージを削り取られていく。最後、YRKは跳躍から切り返しての姿勢で手刀を叩き込み、決着をつけた。勝敗が決するまでの時間は、わずか10秒である。
「なかなか楽しめたよ」
仮面の下、露出した口元に笑みを浮かべ、皇帝YRKが言った。周囲の混乱と喧騒が収まらない中、ただ一人悠然とするYRKが、静かに席を立つ。桜子が梅彦に駆け寄ると、彼は無言で画面を見つめていた。
「う、梅兄ちゃん!」
「ああ」
桜子の言葉に対して、梅彦はただ短く答えるだけだった。その様子をちらりと見ると、YRKはこれ見よがしな声でこう言ってのける。
「これが関東最強ゲーマーの実力か。楽しめはしたが、やはりこの私の相手ではないな」
その声は、喧騒の中でもはっきりと桜子の耳に届いた。桜子が睨むと、YRKは口元の笑にを隠しもせずにこちらへ振り返る。
決して近くはなく、さりとて遠くもない距離で、桜子とYRKは確かに睨み合った。いや、睨んでいるのは桜子の方だけであったかもしれない。自身が格ゲーのキャラクターであれば、このままタイガーニーで距離を縮めて、あのニヤケヅラに飛び膝を浴びせてやりたい気分だった。
勇ましさはやがて口をつく。
「撤回して」
「よせ、桜」
梅彦が落ち着いた声で制止しようとするが、桜子の言葉は止まらない。
「いま言ったこと、謝って」
おそらく、桜子は安い挑発に乗ってしまったのだろう。だがそれすらも、彼女は自覚できないでいる。
「その必要はないな。勝負の世界では勝者こそが絶対だ」
あらかじめそう言うと決めていたかのように、YRKはすらすらと答えた。周囲の反応は様々だ。しかし、この状況下でのんきに星取りバトルを再開しようなどという図太い輩は……まぁ、桃太郎を含め多少はいたものの、ほとんどいなかった。
YRKは黒い手袋に包まれた指先をこちらに向け、さらに芝居がかった言動を続ける。
「もし君が私にその言葉を撤回させたいなら、私に勝ってみせることだ。まだ星は集まっていないようだが、もしも……」
「やめろ」
今度は大きな声ではっきりと、梅彦は告げた。YRKの言葉を遮り、しかし梅彦は、まず桜子を振り向かせる。YRKの言葉に乗りそうになっていた桜子は、不満を顕にしつつ、梅彦に抗議した。
「梅兄ちゃん、でも……!」
「桜、俺の勝負を汚すな。俺の負けだ。お前がいくら頑張っても、さっきの試合内容は覆ったりしない」
桜子は、首を横に振った。梅彦の口から、その事実を聞きたくはなかったのである。だが梅彦は、それ以上桜子に構わず、胸元の星バッジをすべて外して皇帝YRKに突き返した。素直な反応に対しては、YRKも少しばかり意外そうだ。
「授業料は高く付いたが良い勉強になった」
梅彦はそれだけ告げると、その場に背を向けて出口の方へと歩いていく。自身の勝負が終わった以上、この場にこれ以上の未練を見せる様子は、一切なかった。
あれほど一方的な敗北を喫してまで、なぜあんなに平静を保っていられるのか。桜子は、梅彦の冷静沈着な態度が歯がゆかった。彼女の感じている屈辱を、当の本人である梅彦が分かち合おうとしてくれない。認めたくない、認められない現実を目の当たりにした桜子に、尊敬する長兄は何も言ってはくれなかった。
「さて、」
YRKは座り込んだまま足を組み、仕切り直すように言った。
「関東圏の最強プレイヤー、ウメヒコは私が下した。彼より上回ると思っているものがいれば、かかってくるといい。君たちの自信をすべて叩き砕くのは億劫な作業だが、これも強者としての義務だ」
その言葉を受けて、店内のプレイヤー達が互いに顔を合わせる。彼らも、扇梅彦の圧倒的な実力を知っているし、それを悠々下すYRKの実力に関しても、把握できているはずだ。だが、このような言葉を投げかけられて、黙っていられるようなプレイヤーは集められていない。
アーケードゲーマーは、その多くが奇人であり変人だが、己が得意とする分野においてプライドは高い。挑戦されれば、受けざるを得ないのだ。
桜子もそうした中の一人である。一瞬、店外へ出た兄を追うか迷った彼女だが、とどまる事を決意した。YRKに挑み、先ほどの言葉を撤回させたいという思いの方が強かった。
「では、思う存分に戦い、実力を示すと良い」
既に、場の空気は完全に皇帝が支配している。店内に残されたゲーマーは、再び星取りの戦いを再開した。
その光景を眺め、オーナーの老人は手足をプルプルさせつつも、どこか満足そうに頷いていた。
◆ ◆ ◆
「まぁ、私は結局YRKに挑めなかったんですけどね……」
「星、全部取られちゃったの?」
「取ったり取られたりを繰り返してるうちに、店内に流れる星が10個に足りなくなっちゃったんですよ。桃兄ちゃんの言った通り、サクラもいたんですけど……」
食後のティータイム、桜子は懐かしむように視線を泳がせる。
ゲームセンター〝アルカディア〟に訪れたプレイヤーのうち、YRKから一勝でももぎ取れた者がいたのかという疑問は、一朗には浮かばなかった。聞かずともわかる。その〝皇帝〟は、おそらくすべての挑戦者を危なげなく退け、国内最強の名を実たるものにしたのだ。
「ところで、話に聞くとそのゲームセンター」
「はい」
「だいぶ設備が古そうだったけど、今もあるの?」
「あー、」
桜子は決まりが悪そうな笑顔を浮かべる。カップの中の紅茶をじっと眺めてから、質問に答えた。
「もうないんですよ。大須の〝アルカディア〟。そのあたり、本当はこれから話そうと思ってたんですけど」
「と、言うことは、続きがあるんだ」
「はい。兄の梅彦がYRKに負けて、私がショックを受けて、まぁ、そこで終わりでも良いんですけど……」
桜子は遠い目をしたままだ。過去を振り返るにつけ、ぶり返す感情というものもあるのだろう。だが、話の中の彼女とは違って、今の桜子は落ち着いたものだった。当時感じた悔しさや憤りというものは、一切滲んでいない。
これから桜子が話す続きを類推することは、一朗にもできる。だが彼はあえて思考を押しとどめることにした。事の顛末は、彼女の口から直接聞きたかったのである。
おそらく、彼女が影響を受けたという〝怪物〟YRKには、何か強い目的があったのだろうと思われる。悪役じみた振る舞いも、そうした一環ではあるだろう。単に悪役っぽく振る舞うのが好きというのは、あったかもしれないが。一朗にもそうした知り合いはいるわけだし。
『お父様、どちらへ?』
椅子から立ち上がった桜子に、ローズマリーが声をかける。
「いったん自室へ。取ってくるものがありますので。良いですか?」
「構わないけど、そのままベッドに倒れて寝ちゃわないようにね」
「一朗さま、私のプロ根性を舐めておいでですか?」
一瞬だけ真顔を作らせる程度には、桜子のプライドを刺激してしまったらしい。一朗は素直に失言に対する謝罪をし、桜子の背中を見送りながらカップを手にとった。
『イチロー、話を伺いながら、私もいろいろと調べてみたのですが』
「おっと、ナンセンス」
イチローはローズマリーの言葉を遮る。
「桜子さんの話の続きを待とうじゃないか。こういうのは、考えない方が楽しい場合っていうのもあるんだよ」
しばらくの沈黙の後、ローズマリーは素直な返事を返した。
『はい』