桜子/大晦日の決闘
桜子さんのド安定っぷり。
その年、扇桜子は珍しく正月に帰省をしなかった。
理由があるかと言えば、特にない。石蕗一朗の家で使用人をやっている扇桜子は、年末年始の時期になるときちんと正月休みをもらい実家へ帰るのだが、今回はなんとなくそうしなかった。年末と言えば大晦日、大晦日と言えば大掃除で、そういえば12月31日の大掃除というものを、自分はしないなと、そう思っただけであったりする。
なので、今年の年末は大掃除をしますよ! と一朗に告げたところ『ん、わかった』といういつも通りの言葉とともに、あっさり承諾されてしまった。ついでに一朗は元旦には鹿児島にある曾祖父の家へ行くので、1月1日は家に桜子一人となる旨を伝えられた。
「一朗さまって、お爺ちゃん子なんですか?」
「そんなことはないけど、でもひい爺さんのことは割と好きかな。ひい爺さん、僕が正月に顔を見せないとすねるんだ」
「へー、可愛いお爺ちゃんですねー」
さて、年末の大掃除と言っても、普段から完璧に掃除している石蕗家であるからして、特に掃除する箇所も必要なかったりする。結局のところ、夕方になる頃にはすることも本当になくなって、一朗と二人で大晦日特番を見ながら過ごすことになってしまった。
「あーあ、今頃ローズマリーは、あざみママと御会談ですかねー」
「そうだね。来年の春には大学に入れるから、きちんとわだかまりを解消させておきたかった」
「まさかと思いましたけど、ボディも完成しちゃいましたしね……。科学の力ってすげー……」
ローズマリーも、今や完全に有機的思考を行える人工知能にまで成長した。結局のところ、プログラムに人格を認める法整備はまだ完了しておらず、ローズマリーの後を追う形で人格を有した量子プログラムが誕生する気配もない。人工のボディを手に入れ、現存する世界唯一のアンドロイドとなったローズマリーの存在は、公にされることはなさそうだ。
ローズマリーは今年の春、大学への入学が決まっている。人間の中で、より一層人間らしさを学ぶためだ。既に人工知能という枠組みを外れつつあり、一朗が当初彼女に対して抱いていたであろう、〝有機的思考を行う人工知能〟への感動は、既に別のものへシフトしつつあるようだった。彼はいまや、完全にローズマリーの人格を認め、ひとりの人間として扱っている。
桜子からすれば、ローズマリーが一朗の家で過ごした1年半、様々なドラマがあったと記憶している。
「桜子さん、ずいぶん遠い目をしているけど」
「ああ、いえ……。懐かしさに浸ってました。ローズマリーもとうとう巣立つんだなぁ、と……」
「まぁ春まではうちで暮らすことになるだろうけど、大学入ってからは一人暮らしだね」
「そうですかぁ。この家も、また広くなりますねぇ……」
しみじみとつぶやいて、天井を見上げる桜子である。
一緒に特番を見る、といっても、ソファで二人並んで仲良くというわけではない。桜子はあくまでも使用人、従者であるので、ソファに座っているのは一朗だけだ。桜子の立ち位置は常にソファの後ろと決まっており、主人が所望すればいつでもお茶を淹れられるようにティーセットは完備している。
ここ1年半は、ここにローズマリーがナチュラルな疑問を呈して来たり、試作型のボディを手に入れてからは、お茶を淹れる練習を一緒にしたりと、なかなかにぎやかなものがあった。ただ、その彼女ももうすぐいなくなってしまうのだ、と思うと、妙な感慨がある。
「家が広くなるのは、まぁ良いとして、桜子さん」
「はいなんでしょう」
「桜子さん、来年でいくつになるんだっけ」
「うっ……」
決してつつかれたくない部分をつつかれて、桜子は硬直した。
「あまり余計なお世話は言いたくないので、これ以上は言わないことにする」
「あ、う、はい……。なんか、ご心配おかけしてます……」
来年の7月で、桜子は28歳になる。思わず視線が泳ぎ出してしまうレベルだ。歳の割に若い自負はあったのだが、そろそろ肌のハリにも自信が……おぉっと、やめておこう。まだまだイケるとまでは言わないが、うん。これ以上考えるのはやめておこう。
婚期か。
やめておこうと思っておきながら、どんよりとした目つきで、桜子は立ち尽くす。
正直、実家に帰らなかった『なんとなく』の理由に、それが含まれているような気はした。父親はまだいいとして、母親からはいろいろ言われてしまいそうだ。
「一朗さまはぁ、どうなんですかぁ……」
「うん? 僕は別に良いかなって思ってるから、良いかな」
「でも、私が寿退社したら一人になっちゃいますよ?」
「そうだね。まぁ、家事を一人でやるくらいは大丈夫かなって思ってるけど」
一朗は、そのまま少し天井を見上げた。ソファごしに、青い瞳がちらりと桜子に向けられる。
「けど、なんです?」
「このマンションができた頃から、桜子さんはずっと住み込みで働いてるから、いなくなると戸惑うことはあるのかもしれない、と、思っている」
「おお……」
桜子はぽん、と手を叩いた。
「なんか感動しました……! 私、なんかちゃんと一朗さまの生活リズムの中に入り込んでいるんですね!」
「多分そうだね」
一朗は肩をすくめて、視線をテレビ画面へと戻す。下世話なやり方で笑いを取るバラエティ番組が、果たして一朗にとってどれほど面白いものかはわからないが、彼は意外とよくわからないものを楽しむ傾向にあるので、特に口を出さずにじっと見守ることにする。
「一朗さま。今年も一年、大変お世話になりました」
「ん、こちらこそ」
視線をテレビ画面に向けたまま、しかし一朗ははっきりと応えた。
「桜子さん、なんか嬉しそうだね。良いことあった?」
「良いこと楽しいことは、割といつでもありますよ。来年もそんな一年になると良いですね」
「そうだね」
「一朗さま、」
「ん、」
「なんか『そうだね』率高くないですか……?」
「そうだね」
一朗はあっさり言って、そのままソファから立ち上がる。桜子は思わず『おおっ』とたじろいだ。
「来年も一年、よろしく桜子さん」
「良いんですか? そんなこと言っちゃって。来年一年、いるかどうかわかりませんよ?」
「その時はその時だよ。少し、寂しいかもしれないけれど」
「ほー」
その時、桜子はしたり顔になって、一朗の差し出した手を握り返す。
「わかりました一朗さま! そこまでおっしゃるなら! 来年一年、しっかりお供させていただきます!」
「その決意はその決意で、少し不安になるかなぁ……」
テレビの中では、蝶野正洋のキレキレのビンタが炸裂していた。




