(17)
『キングとカイザーが戦闘を開始したようです』
「ん、」
ローズマリーのアナウンスに対して、一朗は軽く返事をする。食後のティータイムをのんびりと楽しんだ後、彼にしては珍しくゆっくりと後片付けをし、食器の類をすべて洗い乾燥機にかけた、今はちょうどそんなところである。今頃ナローファンタジー・オンラインの世界では、どのような展開が起きているのだろうか。想像することは容易いが、一朗がもっとも望んでいるのは、その想像を超えるほどの出来事が起きていることである。ただ、それを最初に確認し、楽しむことができるのが、もはや自分ではないという一点だけが、どうにももどかしい。
桐生世理子に初めて接触し、クラシックギアのテストプレイヤーをやらないかと持ちかけた時のことを思い出す。当初彼女は、まぁ多少は奔放な気質が見られるものの、比較的普通の人物であったように思う。ただ、ゲームに対しての造詣は深く、それなりにきちんと勉強してきたはずの一朗でも、知らなかったような事実をぽんぽん聞き出すことができて、彼女との会話はかなり楽しかった。
試作段階のクラシックギアを彼女に与え、ナローファンタジー・オンラインの世界を体験させてやると、おそらくそれが彼女の本性だったとは思うのだが、桐生世理子の目つきは獲物を前にした猛禽の如くに変化した。桐生世理子は主婦である。ゲーマーとして長らく最前線から遠ざかっていたはずだが、その指先の衰えは一向に確認できなかった。
真剣な目つきでゲームをプレイしていた桐生世理子の瞳に、徐々に愉悦の色が滲んできたのを、一朗は覚えている。彼女は、クラシックギアを通してプレイするナロファンの世界を楽しんでいた。
『ねーねー、社長さん』
プレイを開始して3時間も経過する頃には、彼女の口調もだいぶフランクになっていたものである。
『うちの子のことはご存じ?』
桐生世良がキングキリヒトのプレイヤーであることは、一度顧客情報に目を通し確認している。一朗は頷いた。
『世良って、強かったですか?』
一朗は再度頷いた。もちろん、自分の方が強かったという自負が彼にはある。ただ、桐生世理子が求めているのはそういった情報ではないだろうとして、一朗は、極力客観的に彼の実力を説明した。ナローファンタジー・オンライン、ゲーム内における準・最強のソロプレイヤー。一朗が引退した今となっては、実質的に最強の座を取り戻している。
登校を再開したいことで、ゲームにログインする時間は明らかに減ったわけだが、それでもほかのプレイヤーが、おいそれと力量差を詰めることはかなわないだろう。一朗自身、キングと手合わせをしたのは一度きりだが、彼の反応速度と判断力、剣筋の精密さは群を抜いていた。ナロファンはレベルとステータスによって判定に大きな優劣が生まれるゲームシステムだが、キングにはそこを強引にカバーできるだけのプレイヤースキルがある。
『へぇー……』
わずかに目を細める桐生世理子に、一朗はかつての自分を重ねた。
桐生世理子はそうなのだ。かつて、国内最強ゲーマーと謳われた実力を、彼女は未だに誇っている。錆び付いていないのではなく、衰えていないのではなく、今なお最前線で成長し続けているのだと、信じきっている。ゆえに、自分より強いかもしれない、などと。疑問を抱くことを、自分の中に許してはおけないのだ。たとえ、それが自分の子供であっても。
『私とどっちが強いんですかねぇー……』
一朗は言った。ならば戦ってみればいいと。自分はどちらか一方に肩入れするような真似は決してしないが、あなたがキングと決着をつけようと思うならば、その邪魔立てはしないと。あくまでも運営としての公正な立場から、二人の決着を見守ると。
言ってみれば、なかば一朗がけしかけたようなものではあるが、仮に一朗が何も言わなかったとしても、世理子はなんらかのアクションを起こしただろう。彼女は手に入れてしまったのだ。今まで手の届かなかった仮想世界にアクセスする、唯一無二の手段を。
クラシックギアを通してアバターを動かすのと、ミライヴギアを通してアバターを動かすのでは、根本的にやり方が異なる。乱暴な例えをするならば、野球とサッカーを戦わせるようなもので、そこに厳密な公平性は存在しない。
それでも、桐生世理子の中に生まれた衝動は堪え難いものであったのだろう。戦うことができるなら、彼女は戦うしかない。ゲーマーとしての最前線を退いてから十数年。戦う相手が、その十数年を注ぎ込んだ実子であるとすれば、なおさらなのだ。
一朗は、一人居間でお茶を入れながら、天井を見上げた。
『イチローは、どちらが勝つとお思いですか』
ローズマリーの平坦な声が、そのように尋ねる。一朗は顔を天井に向けたまま、ゆっくりと目を閉じた。
「どうかな。そこを論じるのは色々とナンセンスな気がする」
『どちらに勝ってほしいか、という質問でも?』
「そうだね。僕は心象的にも、どちらかに肩入れするべきではない。なので、どちらに勝ってほしいと言うつもりはない。僕がこの時点で、確信を持って言えることはただひとつ」
『なんでしょうか』
一朗はカップの中のお茶を一気に飲み干して、立ち上がる。
「あの場にいるのが僕ではなくて、残念だなぁということ」
『未練ですか?』
「ナンセンス。後悔はしない主義なんだ。でも、残念だなぁ」
彼は、心の底から楽しそうな笑顔でそう言うと、ティーカップとソーサーを台所へと持っていった。
この短い一日の中で、対峙するのは三度目になる。キングキリヒトと、皇帝ワイアール・カイザーは睨み合った。
1度目と2度目は、状況に大した違いはなかった。だが今は、大きな変化がある。ゲーム内最強武器と名高いXANは相手の手に渡っているし、皇帝の雰囲気は何やらいつになく自信満々だ。もちろん、変化があるのは相手方に限った話ではない。キングキリヒトも装備が大きく変わっており、そして皇帝と同様に自信満々である。
何より、大見得を切ったのだ。キングキリヒトは負けない。
負けられないのではない。負けない。キングキリヒトは、負けない。
勝たなければならない相手がいるのだ。それは一度も顔を合わせたことのない男だったが、聞けば聞くほどに遠ざかる背中を実感させてくれる男だったが、それでもがむしゃらに追いかけなければならない男がいるのだ。敗北が足を止めるのなら、キングキリヒトは、もう負けない。
目の前にいるのが例え母親であったとしても、勝利を得る日のための通過点に過ぎないのだ。焦燥感はないが、ただ焦がれる。燃え上がる闘志を、胸中に実感する。こんな感覚は初めてだった。キングキリヒトは口端を釣り上げ、片手に握った〝ガイスト〟を構え直す。
「やろうぜ、母さん」
キングは言った。
「いつになく強気じゃないか、世良」
カイザーは笑った。
「オレはいつまでもあんたの子供じゃない。あんただって、今この時は、オレの親じゃあない」
「今この時に限っては、互いにただ一人のゲーマーに過ぎないということか。いいだろう」
カイザーもようやくXANの柄を握り締め、構えを取って見せる。
「だが、ここはいつものように、ひとつだけ条件をつけよう」
周囲の認識を置き去りにした会話である。話についていけない野次馬をフォローしたわけではないだろうが、キングは片眉をあげて言った。
「負けたほうがひとつだけ言うことを聞くって奴?」
「そう、それ。ちなみに君はこの条件のついた戦いで、私に勝ったことは一度としてない。ストⅡも、サムスピも、KOFも、鉄拳も、バーチャファイターもギルティギアもそうだし、ポケモンでも桃鉄でもドカポンでも人生ゲームでも将棋でもオセロでもジャンケンでも常に私が勝ってきた」
滔々と語る皇帝ではあったが、野次馬の中からは『二人で桃鉄やドカポンやってんのかよ……』という、若干ヒき気味の声が上がっていた。だが、キングキリヒトの不敵な表情が消える気配はない。
「そんな弱い奴の話はするなよ」
ことここにいたり、皇帝もキングの滾らせた並々ならぬ自信に気がついただろう。カイザーが、自らの黒歴史を取り込むことで破壊をまき散らしながら一段階成長を遂げたように、キングキリヒトもまた、精神的に一回り大きくなっているのだ。
先ほど言った、『いつまでもあんたの子供じゃない』も、決して強がりではないのだ。ぶっちゃけた話、桐生世良は10歳、もうすぐ11歳になるガキンチョである。それでも、ああ、子供はいつまでも子供ではないのね、などと、皇帝は少しばかり母親の気持ちになってセンチメンタルに浸った。
しかし、それも一瞬。今の彼は彼であって彼女ではない。非情にして孤高、最強にして最上のゲーマー。皇帝ワイアール・カイザーである。目の前にいるのが実子であろうと関係ない。己の全力を持って叩き潰すことに、なんの躊躇も持たない。
強いて言うならば、その躊躇が必要ないほどに、この一瞬だけは母親の情を忘れても良いほどに、強く成長してくれた世良への感謝の気持ちがあった。そして何よりも、世良をここまで強くしてくれた、自分の知らないたくさんの人々への感謝の気持ちがあった。
キングは笑う。カイザーも笑う。両者は、どちらからともなく、大地を蹴って激突した。
「少年漫画か!」
アイリスは叫んだ。
野次馬は、皇帝が撒き散らした黒歴史の余波で死屍累々の様相を呈している。ストロガノフやマツナガといった主力メンバーが心を折っているので、まともな解説役がいない。ゆえに、野次馬の最前線で状況を見守るのは、キリヒト(リーダー)やアイナ、苫小牧にあめしょーといった比較的珍しいメンツになる。探してみると、ユーリも片膝をついてくずおれていた。空手一筋に見えて、意外と繊細な趣味でもあったのだろうか。追及はすまい。
叫ぶアイリスに、ネムはこう言った。
「でも少し、羨ましいのではなくって?」
「……うん」
図星を突かれ、アイリスはいきなり大人しくなる。
「焦燥感っていうか……まぁ、あるわよね。あたしは言えないわ。〝負けない〟なんて。超えなきゃいけない壁が多すぎるもの」
苛立ちと羨望に憧憬を混ぜ込んだような、不思議な色合いの表情を宿す。
アイリスもキングキリヒトも、ある男に対する感情のベクトルは共通だ。いつか彼を打ち負かさねばならない。だが、この状況を見る限り、キングはアイリスより先に一歩前に踏み出してしまったようだ。悔しいとは思わないが、焦りはある。足踏みしている自分がもどかしい。遅々たる歩みで追いかける背中を、叩くことができる日は来るのかどうか。道には茨も生えているのだ。選んだのは自分だ。
そんなアイリスの様子を見、フェリシアの表情は困惑していた。
「な、なんの話なの……?」
「ふふふ、あなたのハトコが残した爪痕の話よ……」
アイリスは拳をぐっと握って答える。
「ま、その話はいいわ。フェリシア、キングに勝算はありそうなの?」
「なんか、勝つための作戦があるみたいなこと言ってた」
「ふぅん……」
アイリスはさほどゲームに詳しくはないので、キングがどのような作戦を思いついたのか健闘もつかない。が、彼がやれるというのならば、それを信用するだけだろう。あとは、解説チームの解説を待つだけだ。マツナガやストロガノフが復活すれば、正鵠を射抜くような発言も得られようが、彼らの復活にはまだしばらく時間がかかると思われる。
キングとカイザーの戦いは、今のところ互いに様子見に徹しているように思われた。大地に寝転がったままの、フェリシアのパワーゴーレム〝ゴボウ〟を前に、カイザーは強気の攻めを見せておらず、キングもそれに応じて小手先の技を繰り返している。
「そういえばさー、」
あめしょーが口を開いた。
「フェリシアちゃんのゴボウって、よくここまでスタミナもったにゃあ」
「それはあの、エドワードさんが……」
と言って、フェリシアが指差した先では、円筒形の追加パーツがゴボウの背中に突き刺さっている。
ここで、アレがいわゆるプロペラントタンクと呼ばれるもので、中を疲労回復剤で満たしたスタミナ維持用のオプションパーツであることを指摘できるプレイヤーは息をしていなかったし、増してやそれがエドワードの大好きな劇場用アニメに登場したモビルアーマーの脚部に酷似していたことを指摘できるプレイヤーともなれば、やはり皆無であった。エドワード渾身の力作は、誰にもツッコまれることなく、『都合の良いものを作っていたんだなぁ』と頷かれるだけで終わった。
「しかし、カイザーは何故あれだけの力を持っていながら、消極的なのでしょうか……」
苫小牧が難しい顔を作る。
「もしかしたら……」
「何かわかったのか、アイナ」
はたと顔をあげた彼女に、キリヒト(リーダー)が尋ねる。
「カイザーは、戦いの場所を移したがっているのかも……」
言われてみれば、なるほど。皇帝は踏み込んでは飛びのいての慎重なヒットアンドアウェイを繰り返しているが、最初の立ち位置に比べればかなり場所をズラしている。決して不自然な動きではないが、一度アイナの指摘を聞いてしまえば、そうであるとしか見えなくなる。
では何故か。あの場で待ち受けていたのは、ほかならぬ皇帝であるはずだ。ここが彼にとって不利な場であるとは考えにくい。で、あるにもかかわらず、皇帝がキングを誘導しようとしている理由は何か。
「フ、なるほどな……」
「キングも考えましたね……」
ずず、という動きと共に、ストロガノフとマツナガが立ち上がる。
「二人とも大丈夫なの?」
「ダメですね」
マツナガは真顔でサムズアップしながら答えた。彼のキャラに合っていない。確かにダメかもしれない。
「で、何かわかったの?」
ここで追及をしても何も得られないと思い、アイリスが続きを促す。ストロガノフは頷いた。
「キングの思惑について、おぼろげにな……。順を追って説明しよう。誰か金太郎飴を持っていないか」
「あるわよ」
「あるのか」
アイリスの取り出した金太郎飴を受け取り、ストロガノフは一瞬複雑な表情を作ったが、すぐに解説を始めてくれた。