(14)
剣と剣が激しくぶつかりあい、火花を散らす。アイリスブランドのギルドハウスを舞台にした両者の模擬戦は、まるで地に足をつけて生きる人間同士のものとは思えなかった。しょせん、アバターなど仮想空間上の超人であり、現実の尺度で図ることはできない、などというしたり顔の指摘は、それこそナンセンスである。事実、フェリシアは目まぐるしく繰り広げられる剣戟を前に、ただただ、息を呑むしかない様子であった。
この時、ヨザクラのプレイヤーとしてアバターを動かしているのは、扇桜子である。
だが、彼女が使用しているミライヴギア・コクーンのプログラムの隙間に入り込み、特定の量子信号をシスル・コーポレーションのサーバーに送り続けているのは、二代目ヨザクラこと人工知能ローズマリーだ。ヨザクラのモーションに精密性を付加させるためのモーションアシストである。
ミライヴギアが桜子の脳波を読み取り、それがヨザクラのアバターを動かすための信号としてシスルのサーバーに送られるわけだが、ローズマリーが送った信号は、その信号によって動くアバターの手足を微調整し、行動の最適化を行う。
それこそがまさしく〝フェアリィ・システム〟の概略であり、ローズマリーが行っているのはその模倣ということになる。事実、針を縫うようなキングキリヒトの斬撃の隙間を狙い、ヨザクラが繰り出す一刀は、どれもこれも急所を的確に狙うものであった。
フェアリィ・システムはあくまでもモーションのアシストを行うものであって、プレイヤーに対して未来予知のような複雑な演算結果を導き出すものではない。あくまでベースとなるのは本人のプレイヤースキルだ。システムが行うのは、あくまでも跳躍や斬撃の角度、速度の調節なのだ。
本来フェアリィ・システムが搭載されるべきクラシックギアにおいては、この調節があって初めて、レバーとボタンによって一般プレイヤーと遜色ない動きを実現することが可能になる。今回に限っての問題は、キングキリヒトの対峙するべき皇帝が、システムのアシストがなくとも一般的なプレイヤーを翻弄できるほどの実力を備えている点である。
そこにフェアリィ・システムのアシストが加わることは、すなわち、ただでさえ大雑把に定められていた狙いが、より正確に、素早く繰り出せることになったことを意味する。また、一部の煩雑な距離、角度の調整をコンピューターに任せられる為、単純に脳の思考容量に大きな余裕が生じる。
「はぁっ……!」
ヨザクラは、短刀を逆手に構えたまま、ひときわ鋭く床を蹴り、キングキリヒトに肉薄した。キングの反応速度は、かろうじて迎撃を間に合わせる。彼の表情には苦々しいものが浮かんだ。あるいは、ここまで苦戦するものと、思っていなかったのかもしれない。
そう、脳の思考容量に余裕が生じることで、皇帝はより複雑な駆け引きに興じることができる。思考と反射をほぼ合一化させたような、コンマ1秒クラスの心理戦。それは言うなれば、世界最速のジャンケン大会だ。それを制するためには、まだ足りない。
「………ねぇ、きりゅヒト」
焦燥を露にするキングキリヒトを脇から眺めつつ、フェリシアがぽつりと言った。
「なんで、そこまで真剣なの?」
「え?」
唐突な質問である。キングは聞き返していた。
「戦って勝って、誰かに褒められるわけじゃないし、何かもらえるわけでもないじゃん。戦わなきゃ誰かが死んじゃうってこともないんでしょ? 別にあの、えっと、みんなをバカにしてるわけじゃないんだよ? でもさ……」
フェリシアは、浮かび上がった言葉をなるべくオブラートに包もうと努力している様子ではあったが、しょせん、11歳の少女のボキャブラリーなどそう大したものではない。彼女は散々悩んだ末、観念したように、自らの疑問をこう吐き出した。
「でもさ、ゲームじゃん?」
フェリシアの疑問は当然のものと言えた。
キングキリヒトはトッププレイヤーだ。もともとオンラインゲームのトップユーザーなど、頭のネジが一本や二本ブッ飛んでいるものだが、このナロファンにおいては特にその傾向が強い。如何なソロプレイヤーとはいえ、そうした周囲の中に紛れていれば、価値観も染まるし、違和感も消える。
そう、たかがゲームなのだ。彼らは、ゲームの中の出来事に一喜一憂し、仲間とそれを分かち合い、時には本気で怒ったり喜んだりする。キングキリヒトは、常にどこか冷めた視線で、そうした彼らのロールプレイを眺めている一人ではあったが、本質的にはその彼らと何も変わらないのだと、今のフェリシアの発言で思い知らされる。
今この時、間違いなくキングは真剣になっていた。たかがゲームの中の出来事に、本気になっていた。
それは何故か。明確に自分の中にあるはずの感情を、キングはまだ言語化する術を持たない。それは、彼が幼いゆえに語る言葉を持たないということと、同義ではない。単純にキングキリヒトは、その疑問に対する答えを持ち合わせていなかった。
「難しい問題ではありますよね」
ヨザクラは、にこりと笑って言った。
「あんたはさ、その、答え、あんの?」
複雑な表情を作りながら、キングキリヒトは尋ねる。
「ありますし、それを答えてしまうのは簡単ですけど、まぁ、やめときましょう。おそらくは〝たけしの挑戦状〟の時代から、ゲーマーが一度はぶつかる問題ですよ」
キングキリヒトは、負けない。
そう、大見得を切ったキングの言葉は嘘ではない。負けられない相手がいるから、勝ちたい相手がいるから、こんなところで躓いてはいられない。それが理由の全てだと言うならば、確かにそうなのだが、もっと根源的な気持ちのでどころは、どこかにあるはずだった。すなわち、『なぜそれがゲームでなければならなかったのか』。
考えたところで答えの出る疑問なのかはわからないが、キングキリヒトは、そこで剣を止めた。
「あ、また、邪魔しちゃった……?」
「いえ、どのみち一旦休憩をはさみたかったところです。キングにはじっくり考えてもらうとして、お茶にしましょうか」
ヨザクラはそう言って、いつもキルシュヴァッサーの立つ給湯所に向かう。
彼女の入れたお茶は、たいそう不味かった。
ウラギリヒト討伐隊の進軍は、まさしく強行軍であった。進行速度もステータスという厳格な数値のもとに管理される以上、低レベルのプレイヤーに合わせていては間に合わなくなる。討伐隊の中核を為すザ・キリヒツに合わせての進軍となったが、おおよそフィジカル系のステータスに偏重した彼らは総じて健脚であり、アイリスやネムなどはついていくのが精一杯という有り様だった。
それでも、ゲームである以上疲労の概念だって数値的なものに過ぎない。疲労回復剤をガブ飲みしながら、アイリスは討伐隊の後方にぴたりと張り付く。ネムはというと、そんなはしたない真似をすることには相当の抵抗がある様子で、回復剤を飲む際にはアイリスに向こうを向いているよう要請してきた。
「もうすぐ密林に突入する」
遺跡群に入って後、アイリスにストロガノフがそう声をかけた。フィジカル系ステータスの総合値では、ゲーム内でこの男に勝るプレイヤーはいないだろう。やや鈍足だがスタミナのあるストロガノフは、歩調に乱れも見られない。
「ウラギリヒト達も出てくるだろう。念のため、俺は後衛の護衛につく」
「ありがと、心強いわ」
「ただし、キリヒツがウラギリヒトの説得に失敗した場合は、俺たちは全力で奴らを叩く。その場合、アイリスたちを守るのはユーリだ。いいな?」
ストロガノフの言葉に、ユーリがこくりと頷いた。
ザ・キリヒツ(業務用)が、ウラギリヒトたちの説得に成功するかといえば、かなり望み薄であろうというのがおおよその見解ではあった。ダークキリヒトが掻っ攫ったのは、キリヒツの中でも比較的ライト層に位置するプレイヤーである。キリヒト(リーダー)やアイナほど原作愛は強くない。
それでありながら彼らがキリヒトに扮しているのは、単純に流されやすく、影響されやすい性格であるからだ。彼らを寝返らせるのにはマーケティングとアジテーションが必要である。その点において、ダークキリヒトの手腕は大したものであった。彼はミーハーを味方につけるのが上手いのだ。原作愛の塊であるかのようなキリヒト(リーダー)に、ダークキリヒトの持つ人心掌握術などは、求めるべくもない。
「だったら、あめしょーは?」
「え、ぼく?」
小柄な子猫が小首を傾げた。こちらもストロガノフ同様、息切れを見せる気配は微塵もない。
「んー、まぁ、ぼくだったら、みんなをコロッと寝返らせる自信はあるけどぉー」
「あるのね」
「当然だにゃあ。でもねでもね、やっぱそれだとダメなのだよ。結局、ストロガノフが叩き潰すのと、意味合い的にはあんま変わんないにゃん?」
「ま、そりゃーそうよね……」
キリヒト(リーダー)が、自らの言葉で、彼らをキリヒトとして更生させるのでなければ、結局は同じことだ。正直、ウラギリヒト達をどうにかする手段ならばいくらでもあるのである。だが、それでは意味がない。
やがて、一団は密林へと到達した。行ったり来たりで、忙しい一日だとは思う。
鬱蒼と茂る森の中を、一団は走る。唐突に、先頭集団の方から声が上がった。
「ウラギリヒトだーっ!」
ついに来たか。アイリスは身構える。先頭集団には、栄光の七人キリヒト及びアイナがいる。ひとまずは、彼らのお手並みを拝見することとしよう。
後衛に位置するこちらからは、戦闘集団の奮戦は見えないはずであったが、いつの間にかこちらの周囲にはマツナガが3人ほどいて、動画視聴アプリと連携した魔法結晶のスクリーンを設営していた。彼らがいわゆるゆるふわ忍者軍団の一員であることはわかるのだが、果たして前方を走っていたマツナガが本物なのか、こちらの3人の中の1人が本物なのか、わからなくなる。
「あの、どなたが本物のマツナガさんですの……?」
ネムも同様の疑問を抱いていたらしく、おずおずと尋ねていた。
「何言ってんですか、誰も本物じゃあありませんよ」
「アカウント的にはね。みんなサブアカウントですからねぇ」
「しいて言えばこの先の広場で石像になってるのが本物ですかね。アカウント的にはね?」
この底意地の悪い喋り方はどいつもこいつもマツナガそのものなので、余計に混乱を加速させる。
さて、マツナガ達の設営したスクリーンに、先頭を走っていたマツナガの撮影している映像がリアルタイムで映し出される。戦場においていささか呑気な話ではあるが、ストロガノフ以外にもガスパチョやゴルゴンゾーラがこちらの護衛に回ってきているので、ウラギリヒトが何人かあちらを抜けてきたところで、恐れることは何もない。
前方に展開したウラギリヒトの軍団は、数で言えばこちらのキリヒトに比べて圧倒的に多い。ダークキリヒトは、ぱっと見たところ画面の中に姿を確認できなかった。
『みんな、目を覚ましてくれ! 俺たちは、争い合うためにキリヒトになったんじゃない!』
画面の中で、キリヒト(リーダー)が必死に訴えかけているのがわかる。横一列に並んだウラギリヒトの群れは、ぴくりとも動く気配がなかった。やはり望み薄か、とアイリス達が見守る中、栄光の七人キリヒトは次々に言葉をつないで行く。
『なんでキリヒト同士で争わなきゃいけない!』
『思い出すんだ! 初めてアニメで、キリヒトやアイナ達に出会った時の、あの感動を!』
『VRMMOが現実のものになると知った時、みんなだって思ったんじゃないのか!』
『自分たちだって、キリヒトになれるって!』
『こんなことが、キリヒトのやることなのか!』
青臭い言葉の羅列ではあるが、彼らはそれなりに真っ直ぐだ。それを眺めながら、あめしょーがアイリスに言った。
「やっぱりストレートな言葉ってのも効くんだにゃあ。ねぇ、アイリスぅ」
「あたしはいっつもストレートなつもりよ」
ウラギリヒト達の中には、さっそく目を潤ませるものが現れていた。予想以上にチョロい。
「これって、意外と楽勝なんじゃ?」
「どうでしょうねぇ」
ユーリの言葉に対して、マツナガが懐疑的な応答をする。
「こっちにとってチョロいってことは、相手にとってもチョロいってことですよ」
「どんなに傾いても、簡単にひっくり返されますからねぇ」
「やっぱり、大きな流れを作るにはドラマチックな出来事が必要なんですよねぇ」
「マツナガさん、気持ち悪いから一人で喋ってくんない?」
だが、事実としてウラギリヒト達は揺らいでいた。流されやすく、影響されやすいという分析は正しいものだろう。おそらく、彼らの中にも迷いに似たものはあったに違いない。お人好しでまとめ役にはあまり向かないキリヒト(リーダー)だが、それ故に一部では名前だけで地雷扱いされる大量の野良キリヒト達を受け入れてくれたのである。彼に恩義を感じているキリヒトも少なくないはずだった。
七人のキリヒトの一人が、アイナを小突く。彼女はしばらく遠慮がちに目を伏せていたが、やがて顔を上げてこう言った。
『みんな、こんなことはやめよう? キリヒトくんは、こんなこと、しないよ……?』
中の人は男である。アイナは決して、本物ではない。だが、そのような事実など、今この瞬間においては何の意味も持たなかった。
『リーダーの話を聞いてあげて。みんな、今なら許してくれるから……』
それが、ヒロイン・アイナが目を潤ませて言う言葉ならば、〝キリヒト〟達は抗う術を持たない。抜群の破壊力であった。ウラギリヒトに生じた迷いに、最後の一押しをする。彼らが肩を震わせ、武器を捨てるかと思われたその時、密林に如何にも悪者らしい高笑いが響き渡った。
「こ、この声は……!」
「ダークキリヒトか!」
黙ったまま映像を眺めていたストロガノフ達がやかましく声を張り上げる。アイリスは片耳を抑えて鬱陶しげに眺めた。
画面の中で、黒い疾風が吹く。上から一直線に降り注いだそれは、舞い上がった土をマントで振り払い、ゆっくりと立ち上がった。カメラ映りの角度までを完璧に意識したそれは、まさしく悪役そのものである。暗黒のキリヒトと呼ばれる男は、動揺するウラギリヒト達を一喝するかのように、こう叫んだ。
『笑わせてくれますね、アイナ! みんな許してくれるなどと、あなたは本気でそう思っているのですか!?』
芝居が買った口調だと、アイリスは思った。こいつこんな奴だったっけ?
「なんか、絶好調って感じですわね……」
「うん、多分今が最高にシアワセなんでしょうね……」
アンチクロスのリーダーとしてアイリスを求めたのも、もちろん皇帝の意に沿うような〝相棒〟を用意する意図もあったのであろうが、それ以上に、こうした悪の尖兵としてのロールプレイを、思う様楽しみたかったのだと思われる。マツナガもアイリスも、ダークキリヒトを悪役として三流であると断じて疑わないわけだが、ダークキリヒト自身は三流悪役であることに誇りを持っているのかもしれない。
やはり、自分の後始末の甘さが、今回の一件に繋がっているのだと思うならば、アイリスもじゃっかん気まずい心地になる。言うなれば、ケツの拭き漏らしなのだ。あの場でダークキリヒトに対し、何かのフォローをするか、あるいは徹底的に叩き潰しておくべきであった。
さておいて、
ダークキリヒトは扇動家である。ウラギリヒト達の良心に訴えかけんとしたアイナを鼻で笑い、さらに辛辣な言葉を浴びせる。
『心にもないことを言って、彼らの気持ちを取り戻そうなどとはこすっからい話です。そうは思いませんか!』
『なっ、なにぃっ!』
再び顔を伏せてしまうアイナの後ろで、キリヒトの一人がいきり立つ。何やら雲行きが怪しくなってきた。
『アイナが嘘つきみたいな言い方を!』
『ええ、彼女は嘘をついている。ザ・キリヒツ(業務用)に、まだウラギリヒト達の席があるかのようにねぇ!』
どうでもいいことだが、ウラギリヒトのネーミングはいつの間にか公式化していたらしい。
『みんなが戻ってくるなら、俺は許す。いや、許すなんて傲慢な言い方はしない。喜んで受け入れる。何度でもだ』
キリヒト(リーダー)の言葉は、あくまでも冷静だった。眺めながら、アイリスはぐっと握った拳の内側に、汗をかいていることに気づく。
「なんだかドキドキしてきましたわ」
「まるでドラマのワンシーンを見ているみたいだにゃあ」
野次馬というのは、原則として自由気ままなものである。
『これは俺たちは全員、すべてのキリヒトが同じ意見だ』
『ええ、キリヒト達はそうでしょうとも。では、彼女は?』
『な、なに……?』
ダークキリヒトがぴっと指差した先には、アイナがいる。伏せられた彼女の顔には、水色のしっとりとした髪が覆いかぶさって、その表情を読み取ることができない。ダークキリヒトは、そのようなアイナの態度を認めるにつけ、いよいよ饒舌になっていく。
ダークキリヒトは、キリヒトの中でも取り分け高いその背を折り曲げて、アイナの顔を覗き込んだ。
『アイナ、あなたは嘘をついている。キリヒト(リーダー)に傷を負わせた俺と、ウラギリヒト達を強く憎悪している。違いますか? あなたは許す気なんかさらさらない。帰ってきたウラギリヒト達にも、心を許すことができない。そうでしょう?』
アイナはそれに答えない。だが沈黙は、是と認めるも同義であった。その事実は、ウラギリヒト達の間に、動揺となって伝播していく。
『やめろ、ダークキリヒト! それ以上……!』
『わかりましたかウラギリヒトのみなさん! 認めてしまいなさい! もうあなた達に帰る場所などないのですよ! そしてこれこそが、これこそが人間の本質なのですよ! 執念深く、傲慢な自分の存在を、綺麗な言葉で覆い隠す! ならば、魂の赴くがまま、悪を働くことこそが純粋な人間の在り方ではありませんか!』
流れるような論点のすり替えだ。だが、果たして攪拌は成功した。ウラギリヒト達は、一様にアイナへ冷たい視線を送り、次にザ・キリヒツ(業務用)にすら、同じ目を向けた。なるほど、ダークキリヒトの言葉は、確かに一定の真理を突いていたと言えるだろう。ウラギリヒト達は、本来自分たちが裏切り者であるという事実からも目を背け、ダークキリヒトのもっともらしい言葉で自分たちの傲慢な本性を覆い隠していた。
アイリスはもどかしい気持ちになる。そここそが相手の論理の綻び、反撃の糸口ではないのか。自分があの場にいれば、すぐにでもそこをあげつらって、一気にこっちのペースを取り戻せるというのに。
同時にアイリスは、強く強く拳を握っていた。あれほどまでにまっすぐ、愚直に〝キリヒトであること〟を愛し続けたザ・キリヒツ(業務用)が、こんなせせこましい詭弁を前に崩壊してしまって良いはずがない。口が回らなくてもいい。論理的に破綻していてもいい。アイリスは、ザ・キリヒツ(業務用)に勝ってほしかった。それは、おそらくこの場でこの光景を見ている。すべてのプレイヤーの総意だろう。彼らは一様に手を合わせ、奇跡を願う。
そうして、奇跡は、いや、それは本来、入念に仕組まれた策謀の、当然の帰結ではあったのだが、傍目には間違いなく奇跡と呼ばれる出来事は、起きた。
『さぁ、ウラギリヒト達よ! キリヒトとアイナを抹殺し、新たなる強者の歴史を始めるのです!』
「これ以上は無理か! アイリス、俺たちは出るぞ!」
「待って!」
ガスパチョ、ゴルゴンゾーラと共に駆け出さんとしたストロガノフを、アイリスは呼び止める。
画面の中、ウラギリヒト達は黒い悪意の奔流と化していた。彼らは雪崩となり、あるいは雲霞の如く、ザ・キリヒツ(業務用)に襲いかかる。だがその直前、ウラギリヒト軍団の先頭に立つ一人の男は、足を止め、きびすを返し、拳を握って、背後から押し寄せるウラギリヒトの大群を殴り付けた。
『なっ……!』
ダークキリヒトの声色に、驚愕が滲む。
『キリヒト……!』
『キリヒトくん……!?』
キリヒト(リーダー)とアイナも、その男の名前を呼ぶ。
そう、その瞬間まさに、男はキリヒトであった。ウラギリヒトという邪悪なる存在から解き放たれ、男はその時始めて、一人のキリヒトとなっていた。それほど再現性が高くもなければ、顔のパーツも微妙におかしく、スキル構成は初心者丸出しで、ステータスも装備も散々なプレイヤーであったが、ただこの瞬間においては、彼は間違いなく〝キリヒト〟の魂を宿していた。
『僕は、ウラギリヒトを抜ける! 目が、覚めたんだ!』
『バカな! あなたの居場所は、もうないんです! アイナはあなたを憎み続けます。それでもいいのですか!』
『許してもらえなくてもいい。僕はキリヒトなんだァッ!』
「や、やりましたわ! アイリスさん!」
映像を前にして、ネムがアイリスに抱きついた。当然、彼女だけではない。ストロガノフも、ガスパチョも、ゴルゴンゾーラも、ユーリも、あめしょーも。あのマツナガ達ですら歓声をあげていた。互いにむせび泣き、握手を交わし合い、キリヒト(リーダー)のまっすぐな思いが、一人のウラギリヒトをキリヒトへと戻したその事実を喜び合う。
たった一人かもしれない。流されやすく影響しやすい、ミーハーな男の心の琴線に、たまたま触れただけであったのかもしれない。だがそれでも、黒い悪意の濁流から、ひとつのきらきらと輝く魂を救い出したのは、まぎれもなくザ・キリヒツ(業務用)なのだ。
ただ、大喜びするネムに抱きつかれたまま、アイリスは真顔でその映像を眺め続けていた。
さて、果たして〝ドラマチックな出来事〟は起きた。たった一人のキリヒトの復活は、新たな波紋をウラギリヒト達に落とす。流れが逆流する。
『俺……ウラギリヒトをやめる』
『俺もだ。どうかしていた』
『そうだな。裏切ったのは俺たちはなんだ。許されなくてもいいよな……』
『アイナに冷たい目で蔑まれるのも興奮するよな』
ウラギリヒト達は、次々と武器を捨て、再びキリヒトへと転身していく。その変化にひとり取り残されるように、ダークキリヒトはみっともないほど狼狽していた。
『みんな、流れに流されているにすぎません! 流れが変われば、またみんな裏切りますよ!』
『その時は、何度でもまた流れを作りなおす』
キリヒト(リーダー)ははっきりと告げた。
『人間は愚かで嫉妬深い。俺はそれを身をもって知った。でも、志をひとつにして集まった仲間なんだ。またいつか、同じ場所に戻れる』
『くっ……!』
ダークキリヒトはマントを翻し、走り出す。敗走と見て間違いはなかった。何人かのキリヒトはそれを追おうとするが、キリヒト(リーダー)は片手でそれを制する。
ザ・キリヒツ(業務用)の大勝利を告げる拍手は、とうぶん、鳴り止みそうになかった。
「あなた、オトギリさんでしょ」
感動ムード冷めやらぬ中、輪の片隅でぽつんと立ち尽くすキリヒトに、アイリスは声をかけた。
そのキリヒトこそ、まさしく最初にウラギリヒトの奔流から脱却し、〝流れ〟を変えたキリヒトである。彼は最初しらばっくれる素振りを見せたが、アイリスがじっと睨み続けていると、にやりと嫌らしい笑みを浮かべて、頬を掻いてみせた。
「演技には自信があったんだけどなァ」
「あたしだってギルドメンバーを見間違えるよーな真似はしないわよ。何やってんの」
いない、いないとは思っていたが、まさかウラギリヒトの中に潜入しているとは思わなかった。
「アイリスくんのケツならちょっと拭いてみたいって言ったろ?」
オトギリの入ったキリヒト、すなわちオトギリヒトは、何でもないようなことのようにそう言った。さしものアイリスも、思わず後ずさりながらケツの穴を抑える。
オトギリヒトの話としてはこうだ。彼も、おおよそのプレイヤー同様、キリヒト達がウラギリヒトの説得に成功できるとは思っていなかった。ゆえに彼は、ウラギリヒトの中に潜入して、ドラマチックに流れを変えるスキを伺っていたのである。
もちろん、それくらいの理由ならばアイリスにも想像がつく。問題は、どのようにウラギリヒトの中に潜入したのかだ。そこを追及すると、オトギリヒトはあっさりとゲロった。
「いやァ、ポニー社の社長時代にこっそり家に持って帰っていた顧客名簿があってさァ。そんで、多分ウラギリヒトだろうなって奴に直接連絡してアカウントを買い取っ……」
「あっ……」
ぷつん、という音がして、オトギリヒトの姿が消えた。なんとなく嫌な予感がして、アイリスはメニューウィンドウからギルドの管理画面を呼び出す。つい先ほどまであったはずのオトギリの名前が、綺麗さっぱりなくなってしまっていた。
顧客データの不正流出とリアルマネートレードのダブル役満である。この対応の早さは、運営が会話に聞き耳を立てていたということに他ならないわけだが、これは完全にアカウント停止処分だろう。オトギリはゲーム内世界から除外された。死んだも同然なのだ。
この一瞬で起きた、あまりにも呆気ない出来事に、アイリスは口をパクパクと動かすだけである。
「ば、バカなんだから……ほんとに……」
人知れず消滅したオトギリの嫌らしい笑顔を空に眺めながら、アイリスはぽつりと言った。
オトギリのやったことは、彼なりの善意によるものであっただろう。それによって、ザ・キリヒツ(業務用)が、絆を取り戻せたことは事実だ。その背景に、カネに目が眩んでキリヒトであることを売り払ったプレイヤーがいるのもまた事実だが、それをアイリスとオトギリ以外のプレイヤーが知ることは、おそらく永久にない。彼らの幸福は保たれている。
だがそのために、アカウントを犠牲にする必要があったのだろうか。なぜそこまでする必要があったのだろうか。アイリスのケツを拭きたいと言っていた、あれが彼の本心なのだろうか。それをゲーム上で聞くことは、もうできないのだ。
社長時代の顧客情報の不正使用ともなれば、刑期が上乗せされる可能性だって出てくるのではないのか。彼の裁判はこれからなのだ。懲役が2年や3年だったとしても、短い期間ではない。彼が出所してくるまでの間に、ナローファンタジー・オンラインや、アイリスブランドが今の形を保っているとは限らない。そんなことも考えられなかったのだろうか。最後のセリフが、もっともらしい別れの挨拶でも、得意の決めセリフでもなく、みっともない犯罪自慢である。
「ほんとに、バカなんだから……」
本心を込めて呟いたアイリスの言葉には、今度は別の感情が滲んでいた。




