(8)
「キングキリヒトが、負けた……」
荒涼としたその声は、いったい誰のものであったのだろうか。
ゲーム内最強のソロプレイヤー・キングキリヒトの敗北。それは決して初めてのことではなかったのだが、かつてないほどの衝撃が、その場にいるすべてのプレイヤーに伝播していた。リアル事情バレ連鎖の結果に到達したフェリシアの無自覚なクリティカルヒットが原因であったとしても、キングが敗北したという事実は変えようがない。
「あ、あたしって、あの、実は悪いことした……?」
「まぁそれなりに……」
ようやく自分のしでかしたコトの大きさに気づいたフェリシアだが、覆水は盆に帰らない。
「ネットリテラシーはやっぱり初等教育の段階から教えた方がいいよね」
「ユーリって教育学部だっけ。がんばって」
一同がインターネット社会の恐ろしさを噛み締めはじめた時、だがそれを大きく笑い飛ばす声が響いた。
皇帝ワイアール・カイザーである。
「甘いな諸君。ゲームは決して逃避の先にあるものでなければ、第二の現実でもない。我々の本来生きる空間と地続きになった世界の一部だ。それを認識せず、生きている自分の姿を忘れるとああいう末路を辿るのだ!」
「なんか偉そうなこと言ってる割に全然納得できないんだけど!」
「まあ私もそれっぽいこと言ってるだけだからな!」
狼狽える実子を躊躇なく真っ二つにしたカイザーの表情に、後悔らしきものは一切見当たらない。湿った土を踏みしめて、転がったキングキリヒトの遺品を拾い上げる。その手に握るのは、ゲーム内にて最高のレアリティを誇る直剣。いわば、運営の作り上げた〝ぼくのかんがえたさいきょうのアイテム〟であり、最強のソロプレイヤー・キングキリヒトの代名詞たるXANであった。
その剣が、今まさに、新たなる覇者の手に渡ったのである。その象徴的な出来事は、仮想空間上の網膜を経て、その場にいる全員の脳裏に刻み込まれた。まさしく今、キングキリヒトは実の母の手によって、王座より陥落したのだ。
「お、おとなげない……」
正鵠のさらにド真ん中をスナイパーライフルでブチ抜くかのようなアイリスのツッコミである。しかしそれを受けてなお、蛙が面に水を浴びたほどの乱れすら見せないのが、この皇帝という人物であった。
ワイアール・カイザーは、今この時奪い取った〝最強の証明〟を、天に掲げてみせた。
「キングキリヒトは負けた。この私が新たなるナローファンタジー・オンラインの頂点となったのだ! 諸君らに問おう。この私と共に、新たなる暗黒の時代を担うつもりはないか!」
観衆は答えない。だが、元より皇帝も答えをすぐに得られるとは思っていなかったのだろう。しんと静まり返った一同をぐるりと見回し、不敵に笑う。最終的に、その視線の先には、なんとか自分を取り戻そうとしながら、じっと黙り込むエルフの姿があった。
「まっちゃん、どう?」
「………」
マツナガは黙り込んだままである。そこに如何なる葛藤があるのかは、余人の知りうるところではない。だが、しばしの沈黙の後、マツナガはこう答えた。
「やめときますよ。前も言ったでしょう」
「そっかぁ……」
そう言いつつも、皇帝の声色に残念がるような色合いは薄い。彼は、次に標的に視線を移した。
「アイリスちゃん、君は?」
「あたし……?」
まさかここで自分に声がかかるとは思っていなかったのか、少女は怪訝そうな顔を作る。
「そう、私と一緒に悪を極めてみないか?」
「あたしは悪じゃないわ」
アイリスがそう答えると、周囲のプレイヤーが『えっ』と声を漏らしたが、それでも自称悪ではない彼女のひと睨みによって黙らされる。
「……まぁ、悪っていう人もいるけど。とにかく、ごめんよ。あなたの仲間にはなれないわ」
「ふぅむ……」
皇帝ワイアール・カイザーは顎に手をやり、思案顔となった。
「まぁ、君たちには最初からフラれていたから仕方がないな。では、君はどうだろう。ここで会えるとは思っていなかったが、桜ちゃん」
「キルシュヴァッサーです」
白銀の老騎士も、その表情は険しい。
「せっかくのお申し出ですが、ご遠慮いたしましょう。私の主人は今はアイリスです」
「ふむー、まぁそうか。そうだな。仕方があるまい」
スカウトをことごとく断られ続けた皇帝である。彼が次にどのような行動に移るのか、一同は固唾をのんで見守った。なにせ、自らを大悪党と称するも厭わないロールプレイヤーである。ここで『では仕方ない』と突撃し、大虐殺に移行したとしてもなんら不思議なことはないのだ。
だが、カイザーはXANを鞘に収めた。キングキリヒトによく似たその顔を不敵に歪めたまま、マントを翻して背中を向ける。彼の残した言葉はこうであった。
「と、なると、やっぱり仲間になってくれたのは一人だけか」
次の瞬間、監修の中から悲鳴があがった。一同が見やれば、そこには目を見開き、胸を抑えながら、ゆっくりと崩れ落ちる一人のキリヒトの姿があった。アイナが駆け寄り、抱き起こす。
「リーダー! リーダー、しっかりして!」
何者かの不意打ちにより体力を一気にえぐり取られたキリヒト(リーダー)は、アイナの腕の中で一瞬どのようなセリフを吐くか迷った挙句、こんなことを言った。
「フッ、アイナ……。キリヒトと、幸せにな……」
「リーダーッ!」
かくてキリヒト(リーダー)の姿は光の粒子となって消えていく。どよめきがキリヒト達の間に伝播した。
この時、キリヒト(リーダー)に不意打ちをしかけたその男もまた、数あるキリヒトの内の一人だったからである。おそらく、その場にいるすべてのプレイヤーが思っていたであろうことを、アイリスが代弁した。
「ダークキリヒト……! あんた、まだPKに未練なんか残してたの……!?」
だが、仮面をかぶった漆黒のキリヒト(みんな黒いが)は、彼女の言葉を嘲笑う。
「語弊がありますよアイリスさん。俺は最初からずっと皇帝の味方でした。むしろこの時を、ずっと待っていたんです」
一同が急展開を前に呆気にとられる中、ダークキリヒトは剣を片手に、群衆の輪を飛び出した。彼一人ではない。ザ・キリヒツに所属していたはずの数人のキリヒト達は、懐から仮面を取り出し、ダークキリヒトのあとに続いた。背中を向けた皇帝の前に、彼らはずらりと並ぶ。
そこで、察しの良い者たちはようやく感づいた。国内最強ゲーマー〝YRK〟のファンであったダークキリヒトは、おそらくなんらかの手段で彼女とコンタクトを取ることに成功し、彼女が皇帝として降臨するその時に備えて、念入りな下準備をしていたのである。PK集団アンチクロスの存在も、そのリーダーとしてアイリスを招き入れようとした一件も、いずれも皇帝に従う悪の軍団を組織するための用意に過ぎなかったのだ。
アイリスの手によってアンチクロスは解散を余儀なくされたわけだが、それでもダークキリヒトは皇帝の降臨を信じていたのだろう。ザ・キリヒツの中に紛れ込み、おそらくはこの時に備えて仲間を増やしていったに違いない。その結果、数多くの裏切りキリヒト―――すなわちウラギリヒトを生んだのだ。
「よくも、リーダーを……!」
キリヒト(リーダー)の残したコートと剣を抱きしめながら、アイナはウラギリヒト達を睨みつける。
「さて、ではどうしようか!」
背中を向けたまま、カイザーは高らかに言った。観衆は身をこわばらせる。皇帝は、とうとう動くつもりなのだ。ウラギリヒト達は一斉に武器を構えた。このままでは、勢い、大規模なPvPに発展する可能性がある。
群衆の取った態度は様々であったが、ここから脱兎のごとく逃げ出さんとする者は一人もいなかった。騎士団やザ・キリヒツの残留メンバーは臨戦態勢を取り、ユーリやあめしょー、苫小牧にエドワードなどは、レベルの低いフェリシアやネムなどをかばうように立ち、退路を伺っている。
マツナガはただひたすらに苦い表情をして立ち尽くしていた。彼の近くに立っているのは、アイリスとストロガノフである。空気が徐々に張り詰めていく中、ストロガノフはマツナガに尋ねた。
「どうする、マツナガ」
「どうするって……」
「そりゃあ、この状況よ。ストロガノフさん達とキリヒツはやる気でしょ」
彼らしからぬ煮え切らない態度に、アイリスの言葉には若干の苛立ちがこもる。ストロガノフは続けた。
「力量のアベレージでも数でもこちらが上だ。皇帝は未知数だが、正直に言おう。ウラギリヒトどもを退けた上で、俺と分隊長たちの5人でかかれば、勝機のない相手ではない」
「ストロガノフさん、そのセリフはなんだか非常に危険な香りがするわ」
「俺もそんな気はするが、ともかくどうなんだ。マツナガ」
問われ、やがてマツナガは、こう答えた。
「退いてくれ、ストロガノフ」
それは決して、赤き斜陽の騎士団の実力を侮っている言葉ではない。むしろ、彼の漏らした苦渋の声は、半ばストロガノフの言葉を肯定する色さえ含んでいた。
「あの人を倒すのは、キングでなきゃいけない」
「よし、よく言った」
ストロガノフは力強く頷く。彼はアイリスに目配せをして、この少女も肩をすくめた。
「撤退するぞ!」
鬼神ストロガノフの大音声が、遺跡群の奥地に響く。
「騎士団のメンバーは全体の護衛に動け! 足の遅い俺とガスパチョが殿を務める! キリヒト達もここは退け、いいな!」
「でも……!」
苦々しげな表情を浮かべるアイナだが、ストロガノフはそれ以上を許さなかった。
「アイリス、先導は任せたぞ! ティラミス達をよく使え!」
「任せといて」
さすがにこの時点で、悠長に見過ごすウラギリヒト達ではない。剣を掲げ、群衆に突撃せんとする一団を、ストロガノフとガスパチョが遮った。その横に、さらにキルシュヴァッサーが並ぶ。殿に混ざるこの老騎士に、アイリスは一瞬視線を送ったが、彼女はやがて何も言わずに群衆の中へと向かう。
「ユーリとアイナ、あとはエドワードさんとティラミスさんが先頭に。フェリシアやネムさんをキリヒツのみんなで囲って。パルミジャーノさんとゴルゴンゾーラさんは中衛で前線メンバーの支援。ヨザクラさん、あめしょー、苫小牧さんは後ろ側で流れ弾を防いでね。MOBは無視、ワープフェザー使えるとこまで一気に走るわよ」
「アイリスくん、僕は?」
「ナイフ舐めなきゃなんでもいいわ。いくわよ!」
この場で彼女の采配に口を出すプレイヤーはいなかった。一同は様々な思惑を抱えながらも、密林の中へとかけ戻っていく。ダークキリヒトやウラギリヒト達を蹴散らしながら、ストロガノフやガスパチョもそれを追う。しかし、キルシュヴァッサーは無言のまま剣を構え、その背中を見送った。ストロガノフもまた、先ほどのアイリス同様何かを言おうとし、しかし止めた。ウラギリヒト達と剣戟を演じながらも、密林の中へと撤退していく。
やがて、広場にはワイアール・カイザーとその従者、そしてキルシュヴァッサーとマツナガが残される。
「キルシュヴァッサー卿……」
マツナガは低い声でその名を読んだ。老騎士は口元に小さな笑みを浮かべている。
「何も言わないでください。マツナガさん。私がここに残ったの理由なら、マツナガさんもわかるでしょ?」
「まぁ……、ねぇ。昔を懐かしむつもりじゃあ、ありませんけどね」
ウラギリヒト軍団が撤退するプレイヤー達を追いかけたときも、皇帝は微動だにしなかった。ストロガノフとガスパチョは殿を務めたが、彼らが後顧の憂いを断つべく奮戦する中、もしもカイザーが動いたとすれば、撤退メンバーは背面から壊滅しかねない。キルシュヴァッサーがここに立ち皇帝の行く手を阻むのは、そうした理由、
だけでは、ない。
「ようやく手合わせが叶いますね。〝皇帝〟YRK」
「14年ぶりか。殊勝だな。わざわざ兄と同じ轍を踏みに来たか?」
「まぁ確かに、兄はあなたに敗れ、あなたの伝説を築く礎となっちゃいましたが……、」
扇桜子の語る言葉は、実に穏やかなものである。
「あなたが伝説になることは二度とない。そうでしょう、マツナガさん」
「……えぇ、そうですね」
言葉を向けられて、マツナガはようやく頷くことができた。彼はアイテムインベントリから一本のナイフを取り出し、逆手に構えながら、老騎士の真横に並ぶ。
「先輩、しばらくの間ですが、俺も暇つぶしにお付き合いしましょう」
撤退戦は進行した。一同は密林の間を駆け抜け、追いすがるウラギリヒト達を引き離し、遺跡群の入口付近にまで到達する。彼らはワープフェザーを使おうとしたが、その数には限りがあった。先日から引き続き発生している、ワープフェザー市場流通数の激減。ここでも足かせとなったそれは、実際のところウラギリヒト達の密かな買い占めに端を発していたのだが、もちろん彼らの知ることではない。
アイリスの指揮により、レベルの低いフェリシアとネム、そして彼女たちの護衛として、あめしょーやティラミス、ユーリやアイナに優先してワープフェザーが手渡された。フェリシアは、自分の一言が巡り巡ってとんでもない事態を引き起こしていることにショックを受けていて、ワープフェザーを受け取ろうとはしなかったが、アイリスはそれを一喝して強引に握らせた。女性陣はワープフェザーによって一気にグラスゴバラまで飛び、アイリスとヨザクラ、そして残りの男性陣は徒歩で遺跡群を脱出した。
後方から追いすがるウラギリヒト達は、すべてストロガノフとガスパチョが退けていた。ようやく彼らが諦めたところでこの二名も合流し、一同は機怪渓谷を一気に駆け抜け武闘都市デルヴェを目指したのである。
で、その後であるが、
グラスゴバラまでの撤退に成功した女性チームは、なんとか一息をついた。仮にワープフェザーを持ったウラギリヒト達が一斉に転移し追いかけてきたとしても、基本的に戦闘が禁止されているこの街ならばさほど危険はない。アイリスブランドのギルドハウスになだれ込み、念の為にネムが鍵をかける。
「お、恐ろしいことになりましたわね……」
息を切らせながら、ネムが言った。
「まぁ、そうですね」
ユーリは何とも言えない微妙な表情をしている。
「ダークキリヒト……よくも、リーダーを……っ」
アイナはロールプレイなのか本気なのか、未だに怒りを顕にしている。
「ごめんなさい。あたし……、なんか……」
フェリシアが消え入りそうな声でつぶやいた。
そこでようやく一同は冷静になり、顔を見合わせた。別に、フェリシアのせいだとも思わないが、確かに彼女の言動はまずかったのかもしれない。正体の暴露大会が始まったあの場であるからして、あれも自然の流れだったといえばそうである。ただし、タイミングと言い方に関しては、まぁ想像しうる限り最悪のパターンを踏んでいたと言えるだろう。
「まー、この際なので何がいけなかったのかを、ハッキリさせておこう」
あめしょーは、ツワブキ・イチローが愛用していたロッキングチェアに腰掛けて、呑気な声をあげた。
「人には触れちゃあならない心の傷みがあるのだよ」
「うん……」
「そこに触れたら最後、あとは命のやり取りしか残らないんだにゃ」
「い、命の……!?」
「いや、ゴメン。後半は蛇足」
あめしょーはコホンと咳払いをして、びしりと人差し指をフェリシアにつきつける。指先はまず、フェリシアの頭のてっぺんを指して、そこからつつつー、っと遠影をなぞるように、つま先まで移動した。
「フェリシアだってさー、現実世界ではこんなに背ぇ高くないにゃん?」
「うっ……」
どうやら図星らしい。
「人は多かれ少なかれ、理想の姿を思い描くのだよ。まー、たまーにきみのハトコみたいなすんごい例外がいるんだけど、アレは人類としておかしいからノーカンとしてもね? ネタに走る人だってそうだにゃあ。こうだったらカッコいい、とか、こうだったら面白い、とか。ゲームの中ではそれは簡単に作れるけど、指摘されたらイヤでしょ?」
「う、うん……」
「だからまぁ、キングにはちゃんと謝っておこうね。あめしょー先生からは以上かにゃ」
この場において、年齢は下から数えたほうが早いあめしょー先生ではあるが、その言葉の重みは大層なものであった。ネムもユーリもアイナも、頷かざるを得ない部分がある。同時に彼女たちは、オトナとしてまっさきにフォローすべきところを先行されてしまい、ほんのちょっぴり恥ずかしかった。
「ゲーム内のロールプレイに口を出すのは、まーちょっとマナー違反だったにゃー。ねー、アイナ」
「そこでなんで私に振るのかなぁ……」
女性チームの中でもひときわ女性らしい笑顔を浮かべ、アイナがぼやいた。