(7)
「え、ちょ。ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってもらっていいですかね。えっ、いやあの、えっ?」
マツナガがここまで如実に狼狽した姿を、果たして見たことのある者がいただろうか。闖入者軍団にざわめきが伝播する中、この策謀家はいつものニヤケ笑いすら忘れて、混乱する己の脳内を治めることに精一杯となっていた。キングキリヒトも、マツナガさんもこんな狼狽えることあるんだ、と、何やら感慨深い気持ちに浸っていた。
そんなキングキリヒトと瓜二つの顔をしているのが〝皇帝〟ワイアール・カイザーである。マツナガは、ひとしきり視線を泳がせた後、ようやく皇帝を正視することができるようになった、様子であった。
「あ、あの……。マナー違反を承知で、念の為に聞いておきますがね。あの……本堂先輩ですよね……?」
「私だよまっちゃん。ちなみにあそこで待機してる従者も電脳研のかつてのメンバーだ。懐かしいね」
「キングが……お子さん……?」
「いかにも。下の名前は世良という」
「お母さんやめて」
マツナガは口をパクパクと動かしていた。月並みな比喩表現を用いるならば、酸欠の金魚である。アイリスが珍しく、心の底から心配そうな表情をして、彼のコートの裾をくいくいと引っ張った。
「マツナガさん、大丈夫……?」
「ダメかもしれませんね」
神妙な表情で頷くマツナガである。
キングキリヒトとしては、どうもマツナガと母親が旧知の仲であったらしいということはそれなりに衝撃であったが、それ以上のダメージは特にはなかった。強いて言えば、母親の恥ずかしい振る舞いが子供心にはかなり悪影響があるくらいであって、それも休日に母子でゲームセンターを荒らしまわったあの日々に比べれば、やはり大したことはない。
マツナガは皇帝に精神的ダメージを与えようとして、自らが心に深い傷を負うことになってしまったようだ。自分があの皇帝の子供であるということが、そうとうショックであったらしい。幽鬼のように立ち尽くす様には目も当てられない。
「あの、マツナガ殿」
キルシュヴァッサーが背後からおずおずと声をかける。
「今までの話を聞いて、まさかとは思ったんですがな。もしかして、あなた14年前、名古屋のゲームセンター〝アルカディア〟で……」
「キルシュヴァッサー卿! 申し訳ないんですが、これ以上俺の脳内に新しいダメージ要因を刻み込むのはやめてもらっていいですかね!?」
どうやら因縁の鎖は一本や二本ではないらしい。
だが、その鎖はキングキリヒトにとっても決して無縁ではない。地中深くに埋め込まれた鎖をずるりと引きずり出そうとする魔の手は、既に彼にも迫っていたのだ。
「き、キリヒト……」
「ん、ああ。フェリシアさん」
キングはすっかり戦意を削がれ、直剣を背中のウェポンキャリアーに収める。
「探してる人って見つかったの?」
「あの、それがなんか、君……っぽいんだけど……」
「は?」
聞き返すキングキリヒトに、フェリシアは意を決した表情で尋ねんとした。
「君、桐生なの?」
その言葉は、まさしく桐生世良の息の根を止めんとして放たれた致命の矢じりとなり得るものだった。世良の時間が完全に停止し、その瞬間、キングキリヒトはリアルからもバーチャルからも完全に断絶される。それでいて、周囲の全てのプレイヤーが、実に間の悪いことに無言のまま、すなわちフェリシアの言葉をすべて聞かれたということが、明確な事実として雪崩のように襲いかかった。
キングキリヒトの声は、かすれていた。自分を桐生と呼び捨てにし、それなりに親しくしてくれる人間など、桐生世良のそう広くない世界では数えるほどしかいないのだ。
「つ、わぶき、さん……?」
「あ、やっぱり桐生なんだ」
フェリシアの言葉はあっさりしたものだったが、それがかえってキングの心に深い爪痕を残す。
果たして少女の手によって引き摺り出された一本の鎖は、そこから更に途方もない連鎖を生むのだった。
「ツワブキ。と言いますと、あの、ひょっとして一朗さんの御親戚でいらっしゃいますの?」
「えっ、イチ兄ぃの知り合いなんですか?」
「む、イチ兄ぃ、ということは、一朗さまのハトコの明日葉ちゃんですかな?」
「あーっ! ひょっとしてイチ兄ぃの家のメイドさんだ! そっちの女の人の顔どっかで見たことあるもん!」
「そのメイドはお父様の方ですが」
「待て、整理させろ。何がどうなってるんだ? 誰と誰が知り合いで誰と誰が親戚だ?」
「まず皇帝がマツナガ先輩と俺と同じ大学なんですよ」
「いきなり新しい情報を出すんじゃない!」
「キングが皇帝の子供だろ?」
「キングとそのフェリシアって子がクラスメイトなんだろ?」
「わかった! わかったわ、みんな一回静かにして!」
アイリスが、いつの間にか背後に用意していたホワイトボードをバンと叩く。トラウマを刺激されたストロガノフが少したじろいだ。
「図に起こして整理するわよ!」
「えーっと、おさらいするわね」
アイリスはマジックのキャップをきゅぽんと閉めて、改めてホワイトボードを確認した。
「キングのお母さんがカイザー。マツナガさんはカイザーの大学時代の後輩で、更にマツナガさんの後輩にダークキリヒト。キングとフェリシアは小学校のクラスメイトで、フェリシアは御曹司のハトコ。御曹司の家で働いてるメイドさんがキルシュさんだけど、キルシュさんは14年前にカイザーやマツナガさんと会ったことがある」
「人の縁って不思議なものですのね」
「それは良いんだが」
ネムがお茶を飲みながら言い、ストロガノフは頭を掻く。
「そのホワイトボードの左下に描いてある謎の生き物はなんだ」
「あれは私がデザインしたサクラッコというゆるキャラです」
「そしてその隣にある小さいものが私のデザインしたヨザクラッコです」
「そうか」
ともあれ、発覚した人間関係はとうていこのオンラインゲームの中で偶然集ったとは思えないほど、よくできたものだった。なんだかんだ言って、狭いファンタジー・オンラインということなのかもしれない。キルシュヴァッサーなどはお茶を入れて人数分配るだけの余裕があったが、ダメージが深刻なのはやはりマツナガとキングキリヒトだ。瓦礫の上に腰掛けて虚空を見る瞳には生気がない。
どちらも無理からぬ話ではあろうか、と、アイリスは思った。ネット文化にそこまでどっぷり浸かっているわけではない彼女だが、リアルバレの恐ろしさと気まずさはなんとなく理解できるし、マツナガにしても、まさか自分の執着していた最強プレイヤーが大学時代の先輩の実子であったともなれば、その気まずさは相当なものである。
この場合、カイザーとフェリシアは大してダメージを受けていないというのが実に不公平ではある。二人はキルシュヴァッサーのいれたお茶を受け取り、気楽な世間話に花を咲かせているところだった。いつも世良がお世話になっています。いえいえ。てなもんだ。カイザーの隣にはマシンナーの従者もいた。
「カイザー、お茶のおかわりは?」
「ありがとう。だが十分だ」
「お気に召しましたかな?」
「ああ、美味しかったよ」
「……何よりです」
キルシュヴァッサーはなぜか意味ありげに目を細め、ワイアール・カイザーに対して軽い会釈をした。
「懐かしいな。俺も昔やっていたMMOで……」
「リーダー、その話は誰も幸せにならないからやめよう?」
「そ、そうだな……」
少し離れた場所では、キリヒト(リーダー)が神妙な面持ちで何かを語ろうとして、アイナに諫められたりもしていた。
「しかし、大変なことになっちゃったなァ」
オトギリもティーカップを片手に、ニヤニヤと笑っている。もう片手を封じられている理由については、もはや読者諸兄の聡明な頭脳をもってすれば説明するまでもないだろう。
「まぁ、大変なことといえば大変なことよね」
「キングキリヒトのダメージは深刻じゃないか。これは、彼は勝てないねぇ」
「やっぱそうなのかしら」
アイリスもお茶をすする。
「この後、キングを下したカイザーが何をしようとするかという話だなァ。彼も悪役ごっこが好きそうだから、ロクなことにはならなさそうだ」
「そんなもん? 所詮はロールプレイでしょ?」
「そうだよ。所詮はロールプレイ。所詮はゲームだ。生きるも死ぬも活かすも殺すもロールプレイだよ。君がいつだったかコキ下ろしたダークキリヒトだってそうだったんだろ」
そう言ってオトギリは、やはり少し離れた場所で周囲のキリヒト達と談笑する仮面の男を顎で示した。
ダークキリヒトはかつて、アンチクロスというPKギルドを組織し、そのリーダーとしてアイリスを迎えようとしていた。結局のところ、彼らはPKという〝悪行〟に酔おうとしつつ、自らの手と意思で悪に染まる覚悟がないと看破したアイリスによって赤っ恥をかかされ、アンチクロスは解散となったのであるが。
オトギリの言わんとしていることは、カイザーがキングに勝利すれば、その勢いで如何なる〝悪〟が行われるだろうか、ということである。少なくともカイザーは、ダークキリヒトのような〝偽物〟ではないだろう。ロールプレイの上で、PKに手を染めることを厭うとは思えない。
と、なると、それは確かに大変なことだ。
「覚悟はしておいた方がいいんじゃないかなァ。アイリスくん」
そう言われて、アイリスは呑気にお茶を飲み交わす他のプレイヤーに視線を向けた。彼らの大半は、オトギリの指摘にした内容には気づいていない様子だ。それでも、何人か緊張した面持ちのプレイヤーは見受けられる。ガスパチョやエドワードあたりは、気づいていてもおかしくはないかもしれない。苫小牧やあめしょーなども、人心には敏い。表情は笑顔だが、カイザーがなにをしでかすタイプのプレイヤーか、察しをつけている可能性はあった。
「さて、」
しばらく後である。カイザーはそう言って立ち上がった。
「剣を持ちたまえ、世良」
まるで死体のように天を仰いでいたキングキリヒトが、ぴくりとする。その場にいる全員の視線が、彼に集まった。
ゲーム内最強のソロプレイヤーである。剣を持て、と言われて断ることなど、できはしない。ゆっくりと立ち上がり、何かを払うようにかぶりを振った。ウェポンキャリアーに収められた愛剣XANの柄に、手を伸ばしていく。
「キング、無茶だ」
マツナガがぼそりと声を漏らす。
だが、キングは口角を上げた。フッ、と息が漏れる。
「心配いらないよ、マツナガさん」
傍目には、キングキリヒトには徐々に精彩が戻りつつある。それでもアイリスが『大丈夫なのかしら』と呟くと、オトギリはティーカップをかじりながら『ダメなんじゃないかなァ』と返した。
果たして、キングとカイザーは再び対峙する。野次馬と化したプレイヤー達は一斉に逆扇状に広がって二人の戦いの行く末を見守らんとした。だが、多くのプレイヤーの表情は楽観的だ。しかしその楽観視というのは、〝多くのプレイヤー〟がほぼキリヒトによって構成されているという事実に起因するものであったかもしれない。
皇帝ワイアール・カイザーは笑った。
「やはりまだ未熟だな、キング。リアルバレ程度で心を揺らすとは」
「あんたのメンタルがどうかしてると思うんだけど……」
両者、武器を構えて睨み合えば、あとは隙の探り合いとなる。じりじりと足を動かしながら、互いの出方を伺っていく。
瞬間、殺気が弾け、黒い突風となった。キングキリヒトの身体が急加速し、愛剣を振りかざしながらカイザーに迫る。カイザーの《ウェポンガード》は、その突撃を軽くいなしたが、反撃をとられるよりも早く、キングはその制空圏より離脱した。そこからカイザーがキングに有効打を打ち込むには、一歩半以上の踏み込みを要する。
一同はごくりと唾を飲んだ。
カイザーの選択は追撃である。まさしく一歩踏み込み、さらに二歩目を踏み込みながら逆袈裟の一斬を狙う。キングキリヒトは、そのアタリ判定の持続を正確に見極めた。判定を失った瞬間、その刃を片手で押さえ、カイザーの首筋を狙う。カイザーは上体を逸らし、得物の柄を両手で握る。直後、キングは飛び退き、新たな攻撃判定を宿したカイザーの剣が虚空を引き裂いた。
それは見る限りにおいて、いい勝負であった。キングキリヒトは善戦していたのである。すべての視線が両者の剣戟に向かう中、アイリスはマツナガを見た。彼もまた、ぼうっとした瞳でキングとカイザーの戦いを眺めている。
「しかし、やはりキングの動きは精細を欠きますな」
キルシュヴァッサーが深刻な面持ちで言う。アイリスは思わず聞き返していた。
「え、ホントに?」
「いえ、すいません。適当です」
「そうよね」
実力は伯仲。両者の戦いは危うい均衡の上に成り立っていた。見ごたえのある戦いである。
だがしかし、均衡というのはちょっとしたひと押しで容易に崩れ去ってしまうものだということを、忘れている人間は多い。
戦いが長引くにつれ、両者の一撃がわずかに表面を掠めることが多くなっていった。互いに少しずつ、ダメージを蓄積させていく。ここまでくれば、ほんの一瞬の油断が、致命打を招き入れる隙となるだろう。キングもカイザーも、その攻めをより堅実なものへと推移させていく。
「なかなかやるじゃないか、キングキリヒト!」
「全部あんたが教えてくれたんだよ」
キングは小さな笑みを浮かべて言った。不敵で小生意気な少年の姿を見るにつけ、首をかしげる少女が一人、群衆の中にいる。
「ねー、桐生」
その少女は、何の悪意すらにじませない、単なる純粋な好奇心で、このように尋ねた。
「ゲームの中ではそういうキャラで通してるの?」
凍りついたのは、空気である。亀裂が入ったのは、均衡である。誰もが思った。すなわち、『それはまずいだろ』と。
少女の純粋な疑問は、薄氷の上に成り立っていた桐生世良の自尊心を、粉々に打ち砕かんとする鉄槌だ。その瞬間、キングは戦士ではいられなくなった。素に戻った、とも言う。戻らざるを得なかったのだ。冷水をぶちまけられて、それでなおキングキリヒトでいられるほど、桐生世良は強くはなかったのである。
皇帝ワイアール・カイザーは笑った。
「だから君は未熟なんだ。キングキリヒト」
見ていて哀れになるほどの動揺を顕にしたキングに、皇帝は追いすがる。キングは迎撃に転じようとするが、くじけた心に手足はついてきてくれなかった。一同が息を呑むさなか、カイザーはキングの頭上に剣を掲げ、そして無慈悲にも振り下ろし、叩きつける。4ケタに及ぶダメージエフェクトが、クリティカルヒットを示していた。
少年の姿が、光の粒子となって霧散する。それは、ナローファンタジー・オンラインのサービス開始以来、一度として〝死んだ〟ことのない〝王〟の、決定的な敗北を意味していた。
ヴァルイヴュイッシュ遺跡群の湿った土の上に、黒い剣とコートが、虚しい音を立てて転がった。




