(1)
結局、あれだけの事件があったにも関わらず、石蕗一朗の家に目立った変化はない。変わったことと言えば、一朗がナロファンへログインしなくなった代わりに、在宅のままポニーやシスル、MiZUNOなどの関係会社に指示を出すようになったことくらいで、あとはせいぜい、住人が一人増えて賑やかになったという程度のものだ。
あっという間に過ぎ去った夏の後には、当然のように秋がやってくる。残暑を忘れかけるころに、この三軒茶屋にも赤茶けた秋風が吹き始めていた。もちろん冬支度にはまだまだ早い。だが食卓には松茸や赤ムツが並び始めたし、片付けられた風鈴の代わりに、一朗は室内音楽として鈴虫の鳴き声CDを楽しむようになっていた。
そして、この石蕗邸の住人が、そうした季節情緒ばかりを慈しんで常にしんみりしているかと言うと、そんなこともない。
桜子と一朗はその時、二人で頭を突き合わせるようにして、満天堂発売の3D携帯ゲーム機に没頭していた。挿入されているゲームソフトは、この秋、満を持して発売された有名ハンティングゲームのナンバリングタイトルである。今年の夏までは、とんとゲームソフトに縁のなかった一朗ではあるが、今となっては国内コンピューターゲーム最大手企業(ただし上場廃止)の最高経営責任者だ。だったらこれは買うべきですよという使用人の言葉と、ナロファンを引退してちょっと持て余していた退屈感から購入を決意した。期待していたようなゲームではなかったとは言っていたが、これはこれでなかなか楽しんでいる様子である。
ちなみに購入したゲームソフトは全部で三人分だった。
「くっ……私、このゲームシリーズのプレイ歴はこの中で一番長いはずなのに……」
桜子には、忸怩たる思いがあった。
ベテランゲーマーたる彼女は、当然新人プレイヤーを牽引する立場にあるべきだ。絶妙なタイミングでの回復アイテムやらモンスター妨害アイテムやらを駆使することにより、戦況を有利に導きつつ、愛用武器から放たれる斬撃と砲撃の華麗なる連携によって尻尾切ったり頭ぶっ壊したりするべきなのである。
だが現実はどうか。
この新人プレイヤー二人は、ゲームを購入してからわずか数時間でおおよそのシステムを把握し、プレイスタイルを確立し、いつの間にやら桜子と比べてまったく遜色のない動きで大型モンスター相手に立ち回っていた。牽引の必要などまるでない。
この二人というのは、一朗と、ローズマリーである。
「モーションが固定されているというのは、最初は退屈だったけど、慣れてくると面白い。リアルタイムで駒を動かし合うチェスみたいなものだね」
あくまでも涼しげに言う一朗の言葉が、何やら非常に憎たらしい。
『はい。適切なタイミングで適切なコマンドを入力する。これはパズルゲームの一種であると認識します』
これはローズマリーだ。この時点で、二人はが直感で闇雲に武器を振り回しているわけではないとわかる。一朗は近接武器、ローズマリーは遠距離武器だが、両者とも距離感を的確に掴み、攻撃を打ち込むべきポイントに寸分違わず切り込んでいく。ときおり、深追いしすぎではないかと思う場面もあったが、そうしたたびにモンスターが悲鳴を上げて怯むので、桜子は『ああ、もう二人は怯み値計算までやっているんだな』と、なかば諦観じみた思いで彼らの活躍を眺めるに至った。
プレイ開始からたった数時間で廃人並の動きを見せるようになった二人を前に、桜子ができることと言えば、モンスターの腹下でチクチクガード突きを入れながら、一朗が乗りダウンやスタンをとった直後に必殺の一撃をぶち込んだりするくらいであって、何やらすっかり隠居気分である。
『あと少しで倒せます』
画面の中ではまだまだ元気な素振りを見せるモンスターであったが、ローズマリーはそう言った。
「うん、そうだね。ローズマリーが通常弾で頭を3発撃てば終わりだ」
『私の計算では5発です』
「クリティカル距離から正確に撃てば3発だ。賭けるかい」
『賭けます。私が勝った場合、イチローは、』
「おっとナンセンス。僕が勝つからその仮定には意味がない」
どのみち、ここで桜子が溜め砲撃なりなんなりをぶちかませばそれで終了な気はするのだが、妨害アイテムやら設置トラップなどでモンスターの動きを拘束しておくあたり、彼女も相変わらずの忠臣であった。ひとまずのお膳立てが整うと、やや離れた距離でローズマリーが銃をリロードし照準を合わせる。正確なエイミングからの、発砲。
1発、2発、3発、
【メインターゲットを達成しました】
終了である。小さな携帯ゲーム画面の中で、モンスターが断末魔のうめき声を上げ、ゆっくりと大地に倒れ伏す。ローズマリーは、彼女の本体と接続されたカメラを通して、一朗の浮かべる満面の笑顔を眺めていることだろう。ローズマリーも悔しがったりするのだろうか。ここでたっぷり沈黙しているところを見るに、そうなのかもしれない。
『私の負けです。イチローの言うことをひとつ聞きます』
「じゃあ、また何か考えておこう。……やぁ、剥ぎ取りで逆鱗が3つだ」
「アルバトリオンじゃないんですから……」
さすがに数時間ぶっ続けでのプレイは目と指に優しくない。一休みを入れよう、ということになった。桜子もため息をつく。
「はぁっ」
『お父様、ため息をつくと幸せが逃げるそうです』
「もともと幸せなんで多少逃げたところで構わないんですけど、ただ……なんか、こう、非常に! 悔しいですね!?」
桜子は、ぐっと拳を握って叫んだ。言うまでもなく、一朗とローズマリーの上達っぷりに関してである。
「同じくらいのレベルで遊べるし、良いじゃない」
「別に良いんですけどね。なんか、最初に会った頃を思い出しますねー。知ってますか、ローズマリー。一朗さま、ガンプラの塗装もすごくお上手なんですよ」
『ガンプラが何かは存じませんが、その話には非常に興味があります』
「長くなるからまた今度ね」
なんか、今日の自分に既視感があるなーと思い記憶を掘り起こしていた桜子だが、不意に思い当たるものがあった。7月の頭、一朗がナローファンタジー・オンラインを始めた直後のことだ。あの時も、先輩プレイヤー面して一朗を牽引するつもりであったものが、たった一週間でキャラクターのレベルもプレイヤースキルもかなり水を開けられてしまった。あれも、なかなか寂しい思いをしたものである。
「でも、桜子さんは、自分より上手なプレイヤーが出てきても、嫉妬したりはしないよね。悔しがったりはするけど」
携帯ゲーム機を閉じた一朗が、不意にそんなことを言った。
「まぁ人間ができてますからね。そんなに変ですか?」
「周囲に妙な気遣いを強いないから、素敵なことだとは思うけど。珍しいなとは、思うかな。キングキリヒトにしても、ストロガノフにしても、マツナガにしても、あとは、エドもそうか。ナロファンで出会ったベテランプレイヤーっていうのは、みんなどこかしら、競争心のようなものがあった気がする」
「んー」
確かにそうだ。趣味とは言え、いや、趣味だからこそ、自分より上手に立ち回る人間の存在は認めがたいものだ。腕前に自信と誇りを持っていればなおさらのことである。桜子は、ぱたんと閉じた携帯ゲーム機を口元にあて考え込んだ。正確には、考え込む素振りをした。
正直に言えば、彼女にもわかっている。
桜子とて人間である。悔しいと思えば、見返してやろうと努力をする。だが、決して譲れないと考えるある一点以外においては、常に『上には上がいる』という現実を受け入れる謙虚さを備えていた。それはおそらく、彼女自身が幼少期に経験した、ある出来事に起因する。
「……まー、どこにでもいますからねー。怪物って……」
ぽつりと漏らす桜子に対して、一朗が目を細める。
「へぇ」
あるいは、一朗もそうした〝怪物〟のひとりであるという自覚があるのだろうか。
遠い目をする桜子に、ローズマリーが声をかける。
『回想ですか、お父様』
「えっ?」
「語るのかい」
「えっ、あっ……はい」
どうやら話の続きを求められているらしいと気づき、桜子は首を縦に振った。
ちょっと思い返してみれば、あまり自分の過去について語る機会はなかった気がする。別に語りたかったわけでもないのだが、まぁ、暇つぶしの小話をするに困らない程度は、ネタのある人生を送ってきたつもりだ。主人が語れと言うのならば、語りもしよう。
「あぁ、ちょっと待って。せっかくだから飲み物を入れよう。何がいい?」
「あ、ありがとうございます。では紅茶を」
「ローズマリーは?」
『同じものを』
一朗が台所に引っ込み、しばらくしてからティーポットと三人分のカップをトレーに載せて出てくる。カップに紅茶を注ぎ、ローズマリーの味覚センサーを浸して、桜子と一朗は一口つけてからほうっと息をついた。
「ではまぁ、何か期待されているようなのでお話しましょう。私は、ことゲームという分野に関してはあまり躍起にならないようにしているんです。子供の頃に、あるひとりのゲーマーと会いましてね?」
「でも、見返したいとは思うんでしょ?」
「もちろんですよ。もう一度手合わせをする機会があるなら、是非にとは思いますけれど。でもまー……うん、あの人は、怪物でしたね」
桜子はもう一度、ウェッジウッドのティーカップに口をつけてから、滔々と語り始める。
「もう14年前の話ですよ」
◆ ◆ ◆
「桃太郎! 桜子! ジェットストリームアタックを仕掛けるぞ!」
「おう!」
「うん!」
卓の三方を囲みながら、眼鏡の青年の言葉に、少年と少女が頷く。顔面蒼白となった中年サラリーマンを前にして、彼らは一斉に手牌を開いた。
「大三元字一色!」
「四暗刻単騎待ち!」
「国士無双十三面待ち!」
「やってられるかッ!」
卓をひっくり返し、怒りも露に退出していくサラリーマンの姿を、周囲のギャラリー達は半ば同情を込めた視線で見送った。なにせ、完全なる3対1である。相手が子供だと思って舐めてかかったのはサラリーマンの方だし、そもそも彼の素行の悪さには周囲も眉をひそめていた。おおよそを見れば自業自得ではあるのだが、それでもやはり、この一方的な勝負を見れば、わずかばかりの道場は禁じえないだろう。
埼玉県川口市にあるフリー雀荘、ニコニコ麻雀倶楽部。ここで狼藉を働いた者に対して、この3人は決して容赦をしない。
雀荘だけではなかった。ゲームセンター、囲碁クラブ、将棋クラブ。周辺に存在する娯楽施設を練り歩き、覇を唱える三兄妹がいたのである。ゲームと名のつくものにおいて常勝無敗。彼らの威光は、埼玉はおろか関東一円において比肩するものなしと言われ、全国規模でも燦然と轟いていた。
扇梅彦。
扇桃太郎。
扇桜子。
その本名を知る者は決して多くないが、梅桃桜という洒落た名前で呼び合う彼らを、人はPPC三兄妹と呼んだ。要するにプラム、ピーチ、チェリーでPPCで、これが驚く程にセンスがないとわかるが、まぁ異名など得てしてそのようなものである。
中でも12歳となる妹、桜子の存在は強烈であった。年齢を差し引いて見ても十二分に愛らしい容姿に、あざとさを極め切ったメイドコスプレを重ね、対象的にえげつなさの極地へ到達したプレイスタイルでベテランゲーマーを狩る彼女の姿は、様々なゲームセンターで伝説を残している。ちょっかいを出そうという不埒なゲーマーもいないではなかったが、そのあたりにおいて、二人の兄のガードもまた強力だった。
才能というものに関して語るならば、桜子には間違いなくそれがあった。梅彦と桃太郎の英才教育もさることながら、齢12歳にして卓越した反射神経と、コマンド入力の素早さ。まぁ幼さ故、駆け引きの弱さが若干目立つところではあったが、致命的なミスもとっさの機転でリカバリーできる応用力もあった。
季節は夏。小学六年生となる桜子も夏休みに突入し、大学生の梅彦、高校生の桃太郎と共に、彼らの縄張りをあらす不埒ものを成敗する日々を繰り返していた。彼らは無敵であった。彼ら、特に桜子の幼さを考えるならば、天狗になるのも致し方ないことであったと言えよう。
「まったく、どいつもこいつも弱くて相手にならねーなぁ!」
大判焼きを片手に空を見上げ、桃太郎が言った。
彼らにとって、この世紀末に漂う閉塞感などあって無きようなものだ。隣の市が合併騒ぎで名前にモメようが、地獄先生ぬ~べ~が完結しようが、小渕恵三首相が著名人に電話をかけまくって〝ブッチホン〟なる流行語を生み出そうが、扇三兄妹の生活にはなんら影響がない。
「桃、声が大きい。少し抑えろ」
「でも梅兄ちゃん、私も梅兄ちゃんや桃兄ちゃんより強い人と戦ったことないよ」
彼らが欲しているのは、巽五兄弟を完膚無きまでに叩き潰した、冥界魔闘士のような強敵の出現である。〝敗北を知りたい〟などという言葉が、大海を知らぬ蛙のみが言葉にできる贅沢であることを、扇三兄妹は知る由もないのだ。
「兄貴、兄貴はなんか心当たりないのか? 俺たちといい勝負が出来そうな、凄腕のゲーマーによう」
兄妹は大判焼きに齧り付きながら帰路につく。梅彦がチーズ、桃太郎がカスタード、桜子がうぐいす餡であった。眼鏡をかけた長身痩躯の青年、梅彦は、そのレンズの奥の怜悧な瞳を細め、大判焼きの最後のひとかけらを口に放り込んでから、このように言った。
「実はある」
「あんのか、マジでか」
「梅兄ちゃんすごい」
梅彦は、懐から一枚の封筒を取り出して、言った。
「今朝、うちに投函されていたものだ」
宛先には、ご丁寧にも扇家の住所と〝PPC三兄妹様〟と書かれている。桜子と桃太郎はそれを覗き込んだあと、互いに顔を見合わせた。
「おい、兄貴。これなんか怖いぞ」
「うん。なんでこの差出人はうちの住所知ってんの?」
「それは俺が教えたからだ」
梅彦が封筒を裏返すと、そこには『名城大学 電脳研究会』という差出人の名がある。桜子と桃太郎は、更にもう一度、顔を見合わせた。
「梅兄ちゃん、知り合い?」
「知り合いではないが、俺の大学のサークルにコンタクトを取ってきた連中だ」
「こいつらもゲームやんの?」
「調べてみたが、ゲーマーの集うサークルであるらしい」
「へー」
「ふーん」
梅彦は城南大学のボードゲームサークルに入っていた。ボードとはいうが、ゲームと名のつくものならTRPGからビデオゲームまで幅広く手を出しており、全国の大学における似たようなサークルとも交流が厚い。となると、この名城大の電脳研究会とやらも、似たようなサークルであろうということは、二人にもなんとなく察しがついた。
既に封は開いていた。梅彦は中から一枚の便箋を取り出して、桜子と桃太郎に見せた。二人は覗き込んだ。商店街のド真ん中で通行の迷惑になるので、端っこの方によってからもう一度覗き込んだ。
招待状であった。
その内容とは、すなわちこうである。
『前略 PPC三兄妹様
突然のお手紙をお許し下さい。私たちは、名城大学 電脳研究会というものです。
あなたがたのお噂は、かねがね聞き及んでおります。
私たちはこのたび、地元のゲームセンター〝アルカディア〟と協力し、
最強のゲーマーを決める〝ゲーマー最大トーナメント〟を開催することとなりました。
我々電脳研究会が抱える東海エリア最強ゲーマー〝YRK〟を始め、
全国各地の名だたるゲーマーに声をかけ、名実ともに、』
「いいじゃん」
桜子がまだ読んでいる途中だというのに、桃太郎は手紙をひったくってそう言った。
「悪くないじゃん、こういうの」
「桃兄ちゃん、私まだ全部読んでない」
「要するにさ、大会があってそれに出場しろってことだろ? そういうの良いじゃん。これ、俺たち全員出ていいってこと?」
「文面からするにそうだな」
梅彦が、封筒からもう一枚の紙を取り出す。どうやら、会場までの地図らしい。
小学生の桜子でも、東海エリアというのが、この埼玉から南に下った、えぇと、関西との間くらいにあるのだということはわかる。社会科で習った中京工業地帯とか、あのあたりのことだ。当然、最寄駅からそのゲームセンターへの経路を示したであろう地図も、見覚えのない商店街を記してあるもので、よくわからない。
「桃と桜がその気なら、返事はオーケーで出そうと思う。まぁ、泊りがけにはなるだろうが」
「いいんじゃねぇの。兄貴がついてくるなら、父さんも母さんも外泊に文句は言わねぇだろ」
「私も良いよー」
扇家の両親は、アクの強い三兄妹とは似ても似つかない、おっとりした夫婦である。長男の梅彦が非常にしっかりものなので、兄妹の行動については両親も安心しきっているところがあり、梅彦が何か提案すると、まず母が『あら、それは良いわね。ねぇお父さん』と言い、父が『うむ、そうしようと思っていたところだ』と言ってたいていのことが可決してしまう。平和な家庭なのだ。
「しっかし、腕が鳴るなぁ! 桜さん!」
大判焼きの包みをクシャッと潰し、投げ捨ててから桃太郎が言った。
「桃兄ちゃん、ポイ捨て、ダメ、ゼッタイ」
「あ、すんません……」
投げ捨てた包みを広い直して、またクシャッと潰すアクションをしてから、桃太郎はゴミをポケットにしまう。
「しっかし、腕が鳴るなぁ! 桜さん!」
「そうだね! 楽しみだね!」
桜子自身、この関東一円において手応えのある敵と出会えたことは、未だにない。梅彦や桃太郎に連れられて、最新機種を揃えた東京のゲームセンターから、群馬の山奥に存在するという幻のゲームセンターにまで足を運んだことがあるが、桜子と対等に渡り合えるゲーマーはいなかった。
日本各地の最強ゲーマーが集うと言うのならば、確かにちょっとワクワクするものがある。もちろん、そこでも無様な負けを喫するつもりは毛頭ないし、強敵を求める彼女の本音も、その強敵を上回る実力でねじ伏せられるという、傲岸不遜なものである。
1999年7月。かつて、ノストラダムスとかいう与太者が、恐怖の大王が降ってくるだのなんだの宣言した月ではあるが、世間様は平和そのものであった。扇桜子も、そんな予言があることなど後から知ったクチである。
彼女にとっては小学校生活最後の夏休みだ。最高の思い出というやつを作らねばならない。そのために、日本各地の名だたるゲーマー相手に腕を試すというのは、そう悪いことではないだろう。桃太郎の言う通り、腕が鳴る。
すなわち、これが、扇桜子にとって人生で最初の〝怪物〟との出会いであり、後の人生に大きく影響を及ぼす、ひとりの女性との出会いであった。
1999年7の月。世界は滅んだりしなかったが、あるひとりの少女の価値観は、粉々に粉砕されたのである。
◆ ◆ ◆
「ふぅん」
一朗は、からになったティーカップの底を見つめながら、そんな相槌を打っていた。
「あ、つまらないですか?」
「そんなことはないよ。でも桜子さんって、そんなに凄い子供だったの?」
「いや、フツーですよフツー。そりゃあ、同年代の子に比べてゲームは得意でしたけどね。何のかんの言って、最強のゲーマーっていうのは梅兄ちゃ……おぉっと失礼、兄の梅彦の称号みたいなもんでしたよ」
「〝最強〟かぁ」
つい先日まで、仮想大陸アスガルドにおいて最強のプレイヤーとして君臨していた一朗には、馴染み深い言葉である。
目の前にいる使用人の衣装が、本人の趣味によることは承知の上ではあるが、まさか幼少期からそのような格好をしていたとは思わなかった。その〝最強のゲーマー〟による英才教育も、なかなか根深いものがあるようだ。話を聞く限りは理知的な青年のようだったが、桜子のサブカル趣味の大半は、二人の兄の影響によるものだとも聞いている。
『最強のゲーマーですか』
ローズマリーも、その単語にはいろいろと思うところがあるようだ。
『しかし、ウメヒコはナローファンタジー・オンラインをプレイしてはいませんでした』
「VRMMOは好きじゃないみたいですね。スティックとボタンでキャラを操作してこそのビデオゲームだと言ってました。根っからのアーケードゲーマーなんですよ。梅兄ちゃんは」
「そのアーケードにもVRMMOは侵犯してきてるんじゃないの。コクーンの普及で」
「忸怩たる思いはあるんでしょうねぇ。まぁ、そのことについて直接話したことはないんですが」
一朗は、ふと、壁にかけた時計を見た。時刻は既に午後6時を回っている。秋の夕暮れが、町並みを染めているのがわかった。桜子も一朗の視線に気づいたか、話すのをやめて主にたずねる。
「今日のおゆはん、なんにしましょう」
「ストロガノフからマツタケをもらったから、それ使ってよ」
「ま、マツタケ! またレパートリーの難易度の高い……ストロガノフさんからですか?」
「家が山梨じゃない? 裏山に生えてるんだって」
「それは裏山しいですね」
ストロガノフの経営するレストランでも、この時期になるとマツタケをメニューに組み込んでいるらしい。一朗もゲームを辞めて自由の身になったことであるし、オオムラサキを探しにまた山梨に行くのも悪くない。その際には、彼のレストランにちょっとおじゃましてみたいものである。
ともあれ、桜子が夕飯の支度をするため、台所へこもってしまうので、彼女の昔話は一旦お預けだ。桜子が幼少期に出会った〝怪物〟が如何なる人物であるかというのは、なかなか興味深い話だが、今は想像をふくらませておくだけにしよう。
「ローズマリー、」
『なんでしょう』
「君は、桜子さんの話をどう思って聞いていた?」
一朗は、アルモニアのソファに腰掛けて天井を見上げる。最近は、家のどこにいてもこの人工知能と会話ができるので退屈しない。ことあるごとにローズマリーから新しい情緒を引き出すのは、それはそれで楽しい行為だ。
しばらくの沈黙。思考と感情の演算を行った後、ローズマリーはこう答える。
『私もこうありたいと感じました。極めて羨望に近い概念です』
「へぇ」
と、言うことは、羨望そのものなのだろう。
『私には、イチローやお父様のように、過去、どのような人物とどのような経験をしたかといった記憶・記録がありません。その点について、私もこうありたいと感じました』
「なるほど」
ローズマリーの情緒も順調に育まれているようで何よりだ。あざみ社長に報告する内容が、また増えるな。
『それともうひとつ』
「なんだろう」
『お父様の若い姿が想像できないので、イメージの再現に非常に難航しています』
「桜子さんはまだまだ若いと思うけど、それ、本人の前で言っちゃダメだよ」
一朗はやんわりとフォローを入れながら、人工知能であるローズマリーも、イメージ再現にあたって視覚情報に頼る部分が多いのだろうかと、ナンセンスな疑問を浮かべていた。
ただし、『扇桜子12歳』の脳内イメージが、石蕗一朗の頭脳をもってしても再現に難儀することに関しては、一朗自身誰にも言うつもりはなかった。