パン工場の工場長
桐原草さんは、『パン工場の工場長』と『植物人間』が出てくる大正っぽいお話を書いてください。 #monogatari http://shindanmaker.com/6531
これは本来なら「一頁劇場すぴのべ」に入れるべきものなのですが、「夏のホラー2012応募作品」ですので、短編として投稿させていただきます。
ああ、降ってきましたねえ。お客さん、そのままでは風邪をひく。こちらへ来て止むまで雨宿りしていきなさるといい。手ぬぐいをお持ちしましょう。濡れた上着はこちらへどうぞ。
そこの床机でお休みくださいまし。お茶でもお持ちいたしましょうね。いいえ、今日は雨でお客様もいらっしゃらないだろうから店じまいしようかと思っていたところでございますよ。丁度よろしゅうございました。
おや、最近こちらに越しておいででしたか。道理でこのあたりではあまりお見かけしないと思っておりました。そうですね、近頃はどこも物騒ですからね。お客さんのようにおきれいな方は用心に越したことはありませんよ。
うちはご覧の通り、代々パンの商いをしております。奥で工場というほどのものではありませんがパンを焼けるようになっておりますので、焼きたてを店に卸すことができるんでございますよ。これからお引き立てのほどよろしくお願い致します。
ああ、代々と申しましても父がこの店を開きましてから三十年です。わたくしにパン作りのいろはをおしえてくれた父は、先の露西亜との戦に出兵したきり、還らず仕舞いとなってしまいました。母もその後しばらくして亡くなり、その日その日を父親のつくったこの店を絶やさぬようにと、そればかり考えて励んで参りました。皆様がご贔屓にしてくださるおかげで、今ではわたくし一人なら食べていくのには困りません。
わたくしですか、今、三十三歳でございます。はは、ありがとうございます。そうですね、一緒になろうと言ってくださった方も幾人かはございましたが、気楽な独り身のまま過ごしてきてしまいました。ご縁がなかったんでございましょうか。もうすぐ父親の亡くなった歳を越えてしまいそうです。
おや、お客さん、植物がお好きですか。わたくしは他の花や木のことは全く存じませんが、この鉢だけは可愛がっております。見事に育っておりますでしょう。艶々した葉がまるで今にも動き出しそうに思えることもあるんですよ。
この木の名前ですか。さて、なんというのやら。一昨年だったか、大学の偉い先生が調べておいででしたが結局わからずじまいでしたね。なんでも新種じゃないかということでしたが。わたくしは勝手にかぐやと呼んでおりますよ。
花どきになりますとね、浅葱色、いや露草色とでも言ったほうがふさわしいかもしれません、それは芳しい、大輪の薄青色の花が一輪だけ咲くのです。その美しさと言ったらまさに光り輝くようで、かぐや姫もかくや、と思うほどでございますよ。その花が見たさにわたくしなんぞは毎日世話をしているようなものでございます。ええ、それはそれは見事でございますよ。
ご覧になりたいとおっしゃいますか。はて、どうでしょうねえ。野の花ならば一年に一度、決まった季節に花を咲かせるものですが、このかぐやは決まった季節も決まった年もないようで、いつ頃というお約束ができないんですよ。咲くときも夕方につぼみができて一晩かぎりで散ってしまいますので。ええ、本当に、お目にかけることが出来たらよろしいのですが。
いや、まだ雨足が強うございますよ。もうしばらくここでおやすみくださいまし。こちらはかまいません。ああ、そうだ、試作品のパンを作りましてね、どうぞお試しくださいませ。いやいや、お代は結構です。どうせ一つきりしかできないんだ、店には出せやしませんから。ご遠慮なさらずどうぞ。
いかがですか。ああ、よかった。お口に合いましたか。申し訳ありません。本当にそれ一つきりなんですよ。薄い青色をした餡が綺麗でございましょう。その餡が他とは違っているのですが、これがなかなか手に入りませんで。
そういえば最近ここいらで起こっている不思議な話をご存じですか。
お客さんもお聞きになったことがあるやもございませんね。この界隈で時々、若くて美しい女が人知れず姿を消しているという噂を。あれはどうやら本当のことらしいですよ。ええ、もちろんさらわれたか、駆け落ちでもして身を隠しているのかも知れませんが、どこをとってもそのようなことをしそうにない女たちがある日、ぷっつりと消えてしまうということです。十を超える数の女たちが突然消えているらしくて、その女達は闇に魅入られて消えてしまった、というのがもっぱらの噂でございますよ。お客さんもくれぐれもお気をつけなさいまし。
ねえお客さん、闇のモノ、というのはどんなだと思われますか。その昔、ヒトとこの世のものでないモノたちが、まだ完全に袂を分かっていなかった頃には、そこらじゅうにあやかしのようなものがうようよと棲みついていたのではございませんかね。
人のあまり訪れることのない場所でひっそりと、でもしっかりと息を潜めて薄暗がりで蠢いているモノたち。もう滅びてしまったと信じられているモノたち。
もしも、もしもですよ、そんなモノをふと見つけちまったら、どうしたらいいんでしょうでしょうねえ。
暗がりに巣くうヤツらは、実はいつでもこちらをうかがっておりますからね、ほんの少しの隙を見せたが最後、障子の孔を人差し指で少しずつ大きくしてゆくように、ゆっくりと確実にこちらの喉笛まで近づいてくるものです。
わたくしがあの夜に見つけたのはそのようなモノだったのかもしれません。
今日のような冷たい雨がやっと上がった、変に明るい夜更けでした。女が道端にうずくまっておりました。ちょうどお客さんくらいの背格好で、濡れた露草のような色をした、体にまとわりつくような一風変わった着物を着ておりました。それまでの雨のせいで髪も着物も濡れそぼっておりましてね、髪から滴が垂れて、ぽたん、ぽたんと、女の端正な顔に落ちかかるのが、ガス灯の明かりの中でほのかにわかるんです。ゾクッといたしました。
思わず声をかけますと、女はゆっくりこちらに向きなおりました。うすぼんやりとした暗がりの中、ガス灯の光の加減でか、黒々と濡れた瞳がくっきりときらめきながら笑ったのをはっきり覚えております。その光を見たときに、ああ、もう逃げられない、となぜか確信いたしました。その眼に引き込まれてしまったようです。闇に魅入られた、とでも申しましょうか。それからはその女に笑ってもらいたくて生きてきたようなものです。
一度闇に魅入られてしまうともう逃れる術はございません。いえ、逃れたくなくなるのでございますよ。闇に囚われてしまったという女達ももしかしたら同じような心持ちでいるのかもしれませんねえ。それならよろしいのですが。
そういえば、お客さんの先程お食べになった餡パン。餡が他とは違うと申しましたでしょう。実はこの木になった実を餡にして作ってあるんです。ですから一時に一つしか作れないんですよ。
美麗なうす青色の花のあと、しばらくすると可愛らしい空色の実が出来ます。そいつを丹念にゆでてつぶすと、先程の餡の出来上がり。砂糖もほとんど要らないほど美味しくて、風味のある餡ができるというわけです。なんだか不思議な話ですねえ。
こりゃいけない。お客さん、顔色がとても悪うございますよ。どうぞこちらに。あいにくとわたくしの布団しかございませんが、お休みになってくださいまし。
ああ、そうだ。かぐやをこちらへもってきましょうね。お客さんのような綺麗な方であれば、かぐやもさぞ喜びますでしょう。
おや、もうお話しもできませんか。ではごゆっくりお休みくださいまし。
ああ、またかぐやに会える。早く、早くでてきておくれ、かぐや――私にだけ微笑んでおくれ。