第7話:【聖域】小会議室という名の修練場
今日、僕たちがこの狭い小会議室を丸一日押さえたのは、溜まりに溜まった「宿題(プロジェクト資料)」を一気に片付けるためだった。
……はずだった。
(うーん。面倒だなぁ……)
ノートPCの画面を睨みながら、僕は内心で溜息をつく。
この「オフィスカジュアルデー」のせいで、三人の空気は朝から最悪だ。
特に、一張羅のポロシャツを無理やりインした榎木さんは、自分の格好が気になって仕事が手についていない。
これでは効率もへったくれもない。
「榎木さん!」
「は、はひ!?」
急に声をかけると、榎木さんがビクッと肩を揺らした。
「三階の書庫に、過去の資料を取りに行ってもらっていいですか?」
「お? おおぅ、分かった! 行ってくる!」
逃げるように小会議室を出ていく榎木さんの背中を見送る。
朝、3階に寄った時、そこにはゴルフコンペのチームが3組くらい作れそうなくらい、同じような格好をしたおじさんたちが溢れていた。
全員、絶望的な「カジュアル難民」だ。
今の榎木さんに必要なのは、難民キャンプの仲間たちと傷を舐め合い、自尊心を取り戻す時間だろう。
さて、問題は、残ったこっちだ。
いつもなら「五月雨式に失礼します」と食いついてきて、僕の隣に座るはずの凛が、今日は明らかに避けている。
物理的に、椅子二個分くらい離れて座っているのだ。
(……写真を見せたのが、まずかったかな)
時折感じる、彼女の激しい都会アレルギー。
(僕からすれば、今日のセットアップだって別におかしいとは思わない。本社の女性のような『こなれ感』とは対極にあるけど、懸命に『正解』を探した結果のその姿は、むしろ彼女らしくて可愛らしいとすら思っているのだが)
ふと、出向者向けの事前研修で配られた分厚い資料を思い出す。
……ハラスメントの項目だ。
不用意な発言は身を滅ぼす。
「……佐倉さん。さっきから一言も喋ってないけど」
思い切って声をかけると、凛はスマホを睨みつけたまま、地を這うような声で応えた。
「……別に。佐藤先輩に教えていただいた魔法を、実践しているだけですから」
「魔法?」
「ええ。『やってる感』と『大義名分』。……ようやく、鳴凪支店が目指すべき『正解』に辿り着きましたよ」
「正解……? 何それ」
「でも今、内緒です!!」
凛が画面から顔を上げ、挑戦的に……いや、どこか楽しそうに口角を上げた。
その瞳の奥には、邪悪とも言えるほどの強い意志が宿っている。
(……こわい)
佐藤が思わず背筋を凍らせたその時、会議室のドアが威勢よく開いた。
「佐藤くん! 佐倉さん! 管理部と経理部のみんなと、就業後に打ちっぱなしに行く約束をしてきたぞ!」
榎木が、先ほどまでの卑屈さが嘘のようなニコニコ笑顔で戻ってきた。
その手には資料どころか、ゴルフのグローブが握られている気がする。
(うん、そうだろう。着替えずにそのまま行けるからね、その格好なら……。しかも、ゴルフウェアとしてはいいブランドのポロシャツだ。難民キャンプで褒め合って盛り上がったんだろう。)
カジュアルの「本来の用途」を見つけた榎木は、完全に息を吹き返していた。
だが、その喜びの報告と世間話だけで、すでに貴重な作業時間は30分ロスしている。
(……いい加減、やらねば)
僕は改めてノートPCに向き直り、キーボードを叩き始めた。
カジュアルデーという嵐に翻弄される鳴凪支店。
だが、凛の瞳に宿ったあの「不穏な光」を見る限り、本当の嵐はまだこれからなのかもしれない。




