第48話:【同期処理】頭痛と、混線するマルチタスク
三日目。
熱は平熱域まで下がったものの、後遺症のようにしつこい頭痛がこめかみを叩いていた。
僕は自宅で、ノートPCを広げ「在宅勤務」という名の、孤独なリハビリテーションをしていた。
画面に並ぶのは滞っていた通常業務の進捗確認。
PCのメールには、凛からの「正式な」業務メールが届く。
> 『お疲れ様です。昨日分の定例報告書、添付にて送付いたします。五月雨式に申し訳ありませんが、一点ご確認をお願いします……』
>
(……ふ。業務上の彼女は、驚くほど「通常営業」だ)
PCの画面上では、彼女は真面目な後輩を装っている。
だが、そのPCのすぐ隣に置いたスマホの画面は、全く別の次元に接続されていた。
――ピコン。
『先輩! 榎木さんが「佐藤くんがいないと、僕の乳酸菌の定着率が悪い」から早く元気になってね!だそうです!(写真添付)』
(……乳酸菌の定着率ってなんだ?便秘ってことかな?)
――ピコン。ピコン。
『追加です! 太郎が散歩中に、隣の家の猫と「示談交渉」をしている現場を押さえました。今日のベストショット・コレクション(猫に負けてる太郎・白目Ver.)です!』
スマホに次々と届く、鳴凪の、いや、佐倉凛の日常。
今まで立ち入ることのなかった、彼女のプライベートが僕の端末を埋め尽くしていく。
PCのメール(オフィシャル)と、スマホの通知。
この「マルチタスク」な攻勢に、僕の頭痛はさらに加速するけれど、不思議と不快ではない。
僕は、PCで冷徹に真面目なメールを返しながら、スマホに届く「熊のような太郎」の画像をせっせと保存していく。
(……はぁ。僕はもう、彼女のペースから逃げ出すリソースを持ち合わせていない)
僕はPCのキーボードを叩き、『確認しました。報告書に不備はありません』と、極めて事務的な返信を送信した。
そしてその一秒後。
スマホを手に取り、チワワのアイコンで、凛へメッセージを飛ばした。
『太郎の交渉力は、明らかにDランクですね。……それより、佐倉さん。体調はどうですか? 潜伏期間を考慮すると、今日あたりが「バースト」の分岐点です』
入力した文字を見つめる。
本部や僕が使う言葉を意訳してノートにまとめ、彼女が独自の解釈でアレンジした『凛語』。それを、今度は僕が彼女に向けて発信している。
(……ああ。会えないせいか、完全に同期させられているな。僕の思考回路は、もう彼女の「支配下」のようだな)
口元には、自分でも制御不能な、かすかな笑みが浮かんでいた。
*
週明け、月曜日。
病み上がりの体調を完璧に整えて、僕はいつもより三十分早く出社した。
カバンの中には、週末に東京から取り寄せた『クッキーの小箱』がある。
真っ白な粉糖に包まれたくるみのクッキー。
箱には、どこか太郎に通じるような、愛嬌のある犬がリンゴを持ったイラストと「お世話になりました」の文字。
「かわいい! これ、リスのやつですよね? 犬もいるんだ! 先輩、これ食べたら指も口の中も真っ白になります!」
そんなふうに、粉糖を飛ばしながらはしゃぐ彼女の反応を予想して、僕の口元はわずかに緩んでいた。
だが。
始業時間を過ぎても、隣のデスクに彼女は現れなかった。
「…………」
コップの輪じみが残るデスクが、まるでさっきまでいたかのようで今はひどく冷たく見える。
ふと背後から、「ふぅ……」という、重く湿った溜息が聞こえた。
「……次は、佐倉さんだねぇ」
振り返ると、榎木さんが自分のスマホを力なくこちらに向けていた。
画面には、震える手で撮ったのであろう、ピントのぼけた「41.6度」の体温計の写真。
(……え?死ぬんじゃ……?それ)
『えのきさん……すみません……。佐藤先輩が出社するのに……完全に、バーストしました……。五月雨式に、お休みをいただきます……。太郎が、枕元で笑っています……』
「……あぁ。やっぱり」
榎木さんが、慣れきった様子で呟く。
僕の予測通りだ。
潜伏期間の分岐点は昨日だった。
彼女の防衛システムは、僕の持ち込んだウイルスによって、見事にオーバーロードしたらしい。
(……バースト、したか。それも、よりによって今日)
僕は、デスクの引き出しにそっと太郎みたいな犬の絵の箱を隠した。
主のいない隣の席からは、理屈っぽさを嫌がる声も、突拍子もない「凛語」も聞こえてこない。
「佐倉さん、PC持たずにバーストしちゃったみたいだねぇ」
昼下がり、榎木さんが困ったように頭を掻きながら、凛のデスクに残された支給PCを指差した。
「……佐藤くん、佐倉さんちにPC持っていってくれる? ここにあるんだけど。さっき連絡が来て、SNSの配信予約だけしときたいって言ってるんだよ」
「……彼女、実家ですよね?」
僕は思わず聞き返した。
(実家――。それは、僕のような同僚がそう気軽に足を踏み入れていい場所なのだろうか。ご家族だって当然いるわけだし。もし玄関で鉢合わせたら、流石に……。それに、あの太郎もいるはずだ。……いや、太郎は犬だ。交渉力Dランクならまだいい。問題なのは。……あ、っ!)
脳裏に、あの日、空港のゲートで僕を般若のような形相で睨み殺そうとした少年、蓮くんの瞳がリブートされる。
僕がマッスル猫を献上したことで、自分のお土産を出す機会を永遠に失った、あの不遇の騎士。
(リスクだ。極めて高いリスクだ。今の僕がクッキーとPCを抱えて彼女の聖域(実家)に現れるのは、彼からすれば宣戦布告以外の何物でもない)
榎木さんに行かせるのが、最も論理的で低リスクな選択だ。
だが、引き出しの中に隠したクッキーの箱が、僕の理性に問いかける。
――僕が倒れた時、彼女は来てくれた。
ならば、今度は僕がその借りを返すべきではないのか。
「佐藤くん? どうしたんだい、顔色が真っ赤だよ。やっぱり病み上がりだし、僕が行こうか?」
「……いえ」
僕は榎木さんの言葉を遮り、デスクに置かれたPCをひったくるように掴んだ。
「……僕の時には、彼女が来てくれたので」
声がわずかに震えたのは、武者震いか、それとも蓮くんへの恐怖か。
「僕が行きます。……これは、僕が完遂すべき事項です」
「お、おう……。なんだか商談前みたいな殺気だねぇ。あ、太郎くん(犬)に噛まれないように気をつけてね。アイツ、人を見るから」
(あのDランク犬、噛むのか……!?)
太郎(Dランク/物理攻撃持ち)に、蓮くん(Sランク/精神攻撃持ち)。
鳴凪の要塞は、かつての海外出張の交渉相手よりもよっぽど手強い布陣を敷いている。
僕は、退勤後かつてない緊張感を胸に、彼女の家へと車を走らせる事になる。




