第47話:【バックアップ参照】アーカイブの中の王子様と、チワワのカノン
佐藤先輩がいないオフィスは、まるで主電源の切れたサーバー室のように静かだった。
三階の支店フロアからは、相変わらず高橋さんたちの騒がしい声が聞こえてくるけれど、私の隣のデスクには、埃ひとつない完璧な静寂が鎮座している。
(……あー、足りない。理屈っぽい成分が、全然足りない!)
昨日の「ひえひえシート姿の王子様」のインパクトが強すぎて、仕事に全く身が入らない。
私は、誰に言い訳するでもなく、社内イントラネットの検索窓に「佐藤 巧」と打ち込んだ。
そこで見つけたのが、四年前の親会社社内報アーカイブ。
『2020年度・新入社員紹介:エネルギーの未来を担う若き獅子たち』。
「……いた。……っていうか、カオログより更に王子様度が高い!!」
画面の中で、まばゆいばかりの陽光を反射させて笑っている男。
昨日の「死んだ魚のような、あるいは死神のような瞳」の佐藤とは、解像度からして違う。
> 佐藤 巧
> 出身: 東京大学 経済学部(外交官の父の赴任先、カナダ・オタワ生まれ)
> 趣味: ゴルフ、愛犬チワワのカノンと過ごす時間
> 抱負: 「将来は海外事業部で、グローバルなエネルギー供給の最適化モデルを構築したいです。卒業旅行はハワイで10ラウンド回ってきました!」
>
「…………カナダ生まれの、東大卒。趣味はゴルフで、卒業旅行はハワイ……」
情報量が多すぎる。特に、「チワワのカノン」。
あの、PFCバランスがどうとか、リソースの投入がどうとか言っている男が、家では「カノンちゃん、おいでー」なんて言いながらチワワを撫で回しているのか。
(……ドラマの世界からきたのかな、このお坊ちゃまは。私は鳴凪生まれ、鳴凪育ちだよ)
「……どうしたの、佐倉さん。鼻血出そうな顔して」
背後から声をかけてきたのは、乳酸菌飲料を片手に、のんびりと現れた榎木さんだ。
「あ、榎木さん。……佐藤先輩がキラキラ異次元のキラッキラ具合で、今、鳴凪にいるのが不思議です」
(一番の不思議は、そのキラッキラの横に私がいることだ)
「ははは。彼らは根無し草のような会社員人生だからねぇ。私たちとは住む世界が別物だよ。私ももう勤続30年になるけど、佐藤くんみたいなタイプが鳴凪に来るのは、彗星が落ちてくるような確率だろうね。そもそも子会社化されなかったら、会うこともなかった人だよね……」
榎木さんはしみじみとヨーグルトの蓋を開けた。
(あんなに理不尽に思っていた子会社化。結果、私は佐藤先輩に会えたのか)
画面の中の佐藤先輩は、真っ直ぐに「海外」を見据えている。
写真の中の彼の瞳には、鳴凪のどんよりした空も、カニカマの山も、そして「五月雨式にすいません!」と突進してくる後輩の姿も、微塵も映っていない。
「…………」
なんだろう。
この、高い高い壁を見上げてしまったような、少しだけ胸が焼けるような感覚。
彼にとって、私は「最適化」の邪魔をするノイズに過ぎないんじゃないか。
その時、机の上のスマホが震えた。
『佐倉さん。……熱、下がりました。昨日はありがとう』
「…………っ!」
届いたのは、「チワワ」のアイコンからのメッセージだった。
連絡先を交換したあの日。
意識しすぎてパニックになり、マッスル猫が咆哮し、土下座し、プロテインをシェイクするスタンプを五月雨式に送りつけ、最後には『私は、なかったことにしたくないです』なんていう、顔から火が出るようなメッセージを送信して終わっていた、あのトーク画面。
その「猛攻のログ」の最後に、ポツンと置かれた、佐藤先輩からの感謝の言葉。
(……チワワのアイコンで、『ありがとう』。……ずるい。ずるすぎる。あざとさマックスじゃないですか……!)
切なさと、それ以上の愛おしさが混ざり合って、私の指はすでにキーボードではなく、スマホの画面へと吸い寄せられていた。
「……受けて立ちますよ、佐藤先輩。エリートチワワが何ですか。こっちには、鳴凪の荒波に揉まれた最終兵器がいるんですから!」
私が撮影した、「今日のベストショット」を、迷わずトーク画面に叩きつけた。
『先輩、病み上がりに効く画像です。うちの太郎(雑種)です。元気出してください!』
直後に送信したのは
――柴犬なのか、レトリバーなのか、はたまたタヌキなのか判別不能な毛色。
――カメラ目線で盛大に白目を剥き、仰向けでヘソを天に晒している、あまりにも「最適化」から程遠いフォルムの雑種犬・太郎の写真。
送信ボタンを押した瞬間、既読がついた。
『………………。』
『……佐倉さん。』
『これ、犬……ですか? 熊ではなく?』
佐藤先輩からの、食い気味なレスポンス。
画面越しの彼が、眉間にシワを寄せながら「この生物の骨格構造はどうなっているんだ」と論理的に解析しようとしている姿が、手に取るようにわかる。
(ふふっ。勝った……!)
東大卒の王子様を、鳴凪の雑種犬でバグらせる。
私はアーカイブの「海外事業部を目指す佐藤巧」に心の中で別れを告げ、今この瞬間、私の送った変な犬の写真に頭を抱えているであろう「今の先輩」に向かって、思い切り満足げな笑みを浮かべメッセージを返した。
「早く良くなってくださいね」




