第46話:【確定申告】夢の配当と、ぬるくなったシート
インフルエンザの熱がもたらす「五月雨式な夢」の中に、僕は再び引きずり込まれていく。
それは、常に「予測」と「リスクヘッジ」を立ててきた僕が初めて見る、利回り計算不能な未来の断片だった。
視界が、白く濁る。
それが熱のせいか、北の大地の雪のせいかは分からない。
目の前には、驚くほど立派なカニの脚が山積みになっている。
(……なんだ、これは。新種の商談か?)
分析を始めようとした僕の袖を、誰かがぐいと引っ張った。
「パパ、これむいて! ママよりパパの方がじょうずだもん」
見上げれば、僕によく似た、けれど瞳の輝きだけが異様に「天然」な光を放つ小さな女の子。
予測モデルにない単語が、僕の論理回路をショートさせる。
「こら、凪紗。パパは今、カニを分析しているんだから邪魔しちゃダメだよ」
(パパ……。結婚も、なんなら交際アナウンスすら送ってない)
隣から聞こえてきたのは、聞き慣れた、けれど少しだけ落ち着いたトーンの女性の声。
そこには、十年分の月日を重ねたような、少しだけ大人びた――けれど、カニの身を掻き出すのに必死で口元に殻をつけている、凛がいた。
「……佐倉、さん?」
「もう、何言ってるんですか巧ちゃま。今日は私の『五千円投資』の満期記念旅行ですよ? ほら、十年前に言った通り。私の五千円、ちゃんとこんなに立派なカニに化けましたよ!」
凛が誇らしげに微笑みながら、カニスプーンを指揮棒のように振る。
(十年……)
その言葉が、熱に浮かされた僕の脳裏で、あの鳴凪支店の納豆臭い昼休みとリンクした。
二年の任期で終わるはずだった。
僕はここに、十年後はいないはずだった。
それなのに、夢の中の僕は、当然のように彼女の隣でカニを剥き、当然のように「パパ」と呼ばれ、当然のように、この騒がしい幸せを「想定外の爆益だ」と定義している。
(……ああ。そうか。僕は、解約できなかったんだ)
本社への切符も、海外への野心も、すべてはこの「愛おしい存在」のために書き換えたのか。
「巧ちゃま、何ボーッとしてるんですか? ほら、あーん!」
凛が、剥き身のカニを僕の口元に突き出す。「ちゃま」なんて、昔のふざけた呼び方に反論しようとしたその時――。
「……っ!」
ハッと目を開けた。
視界に入ってきたのは、誰もいない、暗い天井だ。
時刻は夜の九時。
(すっかり寝入っていた……)
先ほどまで、確かに聞こえていた笑い声が、幻聴のように耳に残っている。
傍らのゴミ箱には、彼女と食べたアイスクリームの空カップ。
……彼女は、もう帰ってしまった。
サイドテーブルに手を伸ばし、眼鏡をかけ直す。
視界がクリアになるにつれ、夢の中の「十年後」
が、単なる幻覚ではなく「確定した未来」であってほしいと願っている自分に気づき、愕然とする。
ぬるくなったひえひえシートを額から剥がし、ふらつく足取りでキッチンへ向かった。
シンクには、彼女が丁寧に洗ってくれた卵スープの小鍋が伏せられていた。
けれど、その横。
水切り籠の隅に洗い忘れの、ドロドロになった「何か」がこびりついたお玉が置かれている。
コンロの脇には、僕のストックであるオートミールの袋が開けっ放しになっていて、その周りに数粒、平たい粒がこぼれていた。
(……ああ。僕にこれを、食べさせようとしたのか)
キッチンに残された凄惨な格闘の痕跡。
僕をリカバリーさせるために、彼女がその拙い料理スキルで、僕の「ストイックすぎる備蓄」をどうにかお粥に変えようと四苦八苦した証。
結局、病人には不向きだと判断して、あのスープに切り替えたのか。
その、報われなかった努力の残滓を見つめていると、胸の奥がチリチリと焼けるように痛んだ。
(……寂しい)
独白が、殺風景な部屋に虚しく響く。
広すぎる中央区の一等地。
「仮住まい」のようなこの空間が、今は耐え難いほど、ひどく、寂しかった。
夢の中で見た、賑やかなカニ旅行の風景。
現実に残された、無機質なキッチンのオートミールの残骸。
僕は初めて、自分の「定住できない未来」と「上昇志向の塊」が呪わしく、虚しいと思った。
この「呪い」を解くための、人生で最も困難な『損切り』の正解を、まだぼんやりとする頭で、けれど必死に手繰り寄せていた。




