第45話:【視界不良】ぼやけた世界の、確かな体温
意識が熱のなかに溶けていく。
暗闇のなかで、聞き慣れた、でも今はひどく場違いに明るい声がした。
「……っ、そんなの今気にしなくていいですって! 先輩をリカバリーするためなら、二千四百四十ポイントくらい安いもんです!」
二千、四百四十……ポイント。
なんという中途半端で、彼女らしい数字だろう。
「…………二千、……ポイント……。……ふふ……現金じゃなくて、ゲホッ、ポイントなんだ」
思わず笑みが漏れた。
本社の誰かが語る何億円の話より、彼女が頑張って貯めたらしいその数字の方が、今の僕にはずっと重たい。
「だから安心してください! 身銭はきってません!」
……身銭は、きっていない、か。
ポイントなら、僕が負い目を感じないとでも思っているんだろうか。
それとも自分に言い聞かせているのか。
その真っ直ぐすぎる、不器用な気遣いが、弱り切った僕の胸を静かに叩く。
彼女の手が伸びてきて、僕の顔から眼鏡が外された。
サイドテーブルに置かれる、小さな音。
(ああ、彼女がぼやける……)
いつもは嫌というほど見える「余計な情報」が、一瞬で消えた。
視界はひどく悪くなったはずなのに、ぼんやりとした光の塊のような彼女の存在だけが、今は何よりも鮮明に感じられる。
帰る、と言ったくせに。
僕が力なく袖を掴むと、彼女は一瞬戸惑った気配を見せたあと、結局そのまま動かなくなった。
広くて、何もなくて、いつか出ていくためだけのこの部屋。
別に一人で平気と思っていたけれど。
(……温かいな……)
眼鏡を外した、ぼやけた世界。
彼女の体温だけを頼りに、僕は深い眠りへと落ちていった。
*
目が覚めると、カーテンの隙間から昼過ぎの穏やかな光が差し込んでいた。
熱が、薬に抑え込まれたように少しだけ引いているのがわかる。
意識がクリアになるにつれ、右手に妙な違和感を覚えた。
重くて、温かくて、何か……「生き物」を掴んでいるような感覚。
「う、うわぁ、……っ!?」
一瞬、ホラーかと思った。
自分の城、誰もいないはずの寝室で、僕の手が「誰かの手」をがっしりとホールドしている。
心臓が跳ね上がる。
だが、ぼんやりした頭で必死に記憶を辿った。
ポカリ。
卵スープ。
二千四百四十ポイント……。
(……そうだ。佐倉さんだ)
この手の主を探すべく、ゆっくりと上体を起こした。
眼鏡のない、ぼやけた視界で床に目を落とす。
「……佐倉、さん?」
そこに、彼女はいた。
椅子に座り続けるのに限界が来たのか、それとも寝ぼけて滑り落ちたのか。
凛はベッドの脇のフローリングに、丸まった状態でそのままスヤスヤと眠りこけていた。
(……床に、落ちてる)
眼鏡がないせいで、彼女の表情まではよく見えない。
けれど、床に転がって、身体を痛めてまで僕の手を離さないまま眠るその姿は、一年分のポイントを僕のポカリとスープに変えてしまう、彼女の「度を超えたお節介」そのもののようで。
「……ふっ、……はは」
喉の奥から笑いが漏れた。
床に落ちてまで側にいようとするこの後輩に、僕はどう報いればいいんだろう。
サイドテーブルに手を伸ばし、眼鏡をかける。
視界がクリアになった瞬間、床で「ふごっ」と鼻を鳴らした凛と目が合った。
「……佐倉さん。床の硬さを確認するのは、僕への看病のリソースに含まれていますか?」
「ひゃっ!? あ、あーっ! 先輩! 起きてる! 熱、熱どうですか?!」
凛が勢いよく立ち上がり、両手で僕の頬を包み込んだ。
彼女の手は、驚くほど冷たかった。
二時間近く、暖房の効いていない床で眠っていた証拠だ。
「……あ、まだちょっと熱いかも。先輩、これ、ぶり返してませんか?」
「…………佐倉、さん」
「はい!? あ、すみません! 手、冷たかったですか?」
慌てて手を離そうとする凛の手首を、僕は無意識に掴んでいた。
この数ヶ月、僕は彼女のことを「理解不能な事を言う危なっかしくて、放っておけないちょっと面白い後輩」という珍獣フォルダに分類していた。
けれど、今、至近距離で僕の体温を案じる真っ直ぐな瞳を見て、理解した。
(……ああ、違う)
心臓が、インフルエンザの動悸とは明らかに違うリズムを刻み始める。
「やっぱりしんどいですか? ひえひえシート、取り替えて……」
「……いや。もう、いい」
僕は彼女の手首を掴んだまま、静かに目を閉じた。
任期が終われば本社に帰る。
この街も、この部屋も、すべては仮初めの場所。
そう定義して、感情を残さないように、ガチガチに固められた論理の中で生きてきたはずなのに。
床に転がっている、この「お節介」が、今は愛おしくてたまらない。
(……自覚した。認めざるを得ない)
僕は、この「天真爛漫・注意力散漫」な後輩に。
自分の人生の管理者権限を奪われてしまったのだと。
「……先輩? あの、手、離してくれないと……。キッチンに行きたいです……アイスクリーム食べませんか?」
少し困ったように笑う凛の声。
僕はゆっくりと目を開け、掴んでいたその細い手首を、名残惜しさを押し殺して解放した。
「……ふふ。そうだね。食べたい」
「バニラとチョコどっちがいいですか!?」
ドタバタと部屋を出ていく彼女の背中を見つめながら、僕は小さく溜息をついた。
熱が下がれば、いつもの自分に戻れると思っていた。
だが、あいにく、この感情は、もう「元に戻す(ロールバック)」ことができない仕様らしい。




