第44話:【食物繊維の暴力】オートミールという名の禁忌
肩を貸して部屋に入った瞬間、凛はあまりの殺風景さに息を呑んだ。
(……え。何、ここ……?)
部屋は、驚くほど広い。
中央区の一等地にふさわしい、贅沢な空間だ。
けれど、そこには「生活感」というものが一切なかった。
必要最小限の、無機質なテーブルと椅子とソファー。
飾り気のない真っ白な壁。
まるで、明日には荷物をまとめてすぐに出ていける「仮住まい」のホテルのようだった。
(二年の任期が終われば、本社に帰ってしまう人……)
榎木の言葉が、この冷え切った空間と重なって胸をかすめる。
彼は最初から、この街に馴染むつもりなんてなかったのかもしれない。
胸の奥がチリッと痛んだが、凛はすぐに首を振った。
「いけない、今はそんなこと考えてる場合じゃない! 先輩、とにかく横になってください!」
凛は、よろよろとベッドに倒れ込んだ佐藤の体を、丁寧に布団の中へ押し込んだ。
「…………ごめん、佐倉さん。……マスク、して」
掠れた声で、佐藤が途切れ途切れに言った。
いつもなら「感染症対策の観点から言えば」なんて理屈が飛んでくるところなのに、今の彼は、眼鏡の奥の瞳を潤ませて、本当に申し訳なさそうに凛を見上げている。
「僕、しんどくて……ちょっと、自分でできないから……。代わりに、そこに……」
佐藤が力なく指差したのは、サイドテーブルに置かれた使い捨てマスクの箱だった。
「……っ、そんなの、言われなくてもします! 先輩こそ、喋らないでください」
凛は急いでマスクを装着し、それから袋から出した「ひえひえシート」のフィルムをぺりっと剥がした。
高熱で赤らんだ佐藤の額に、迷わずそれを貼り付ける。
「…………っ、……冷たい……」
「冷たくて正解なんですよ。これ、ずっと冷たいですからね。あ、あとポカリも開けますね」
シートを貼られたことで、寝癖まじりの「王子様」のような顔が、さらに弱々しく見えて凛の心臓が跳ねる。
いつもはあんなに隙のない男が、今はひえひえシートを貼ったまま、苦しそうに呼吸を繰り返している。
「…………すまない……。……ありがとう……」
「お礼なんていいです! 黙って寝るのも、今は大事な仕事なんですから!」
佐藤が眠りについたのを見届け、凛は「何か食べさせなきゃ」とキッチンへ向かった。
広いシステムキッチンは、指一本触れていないかのようにピカピカに磨き上げられている。
(これだけ広ければ、美味しいお粥が作れるはず……!)
凛は鼻息荒く棚を開けた。
お粥には、消化にいい白米が必須だ。
ところが、そこに鎮座していたのは、一袋の厳格そうなパッケージ。
「……玄米? ……え、お米は? 白米は?」
隣の棚、その下の引き出し、隅から隅までひっくり返したが、出てくるのは栄養価の高そうな玄米と、プロテインのシェイカー、それから数種類のサプリメントだけ。
「あれ……? 先輩、まさか主食はこれだけですか!?」
今の佐藤は高熱で胃腸も弱っているはずだ。そんな時に、食物繊維たっぷりで「噛み応え抜群」な玄米を出すわけにはいかない。
健康な時には最高の食材でも、今の体には、もはや消化器への攻撃でしかない。
「どうしよう……。白米が一粒もない。あ、そうだ! 冷蔵庫に冷凍ごはんが……!」
微かな希望を抱いて冷蔵庫を開ける。
だが、そこにあったのは、ブロッコリーと鶏胸肉、炭酸水、そして数本の栄養ドリンクだけ。
「…………嘘でしょ。……あ、卵発見。良かったぁ……」
広い部屋。
高い天井。
高級なパジャマ。
なのに、この冷蔵庫の中身は、あまりにも寂しすぎた。
「卵と玄米……。これでどうやって、あの王子様をリカバリーさせればいいの……っ」
凛は、先ほど一年分のポイントを注ぎ込んだビニール袋を抱きしめた。「補給ゼリー」を買い足しておいた自分を、これほど褒め称えたい瞬間はない。
「こうなったら……玄米を、跡形もなくドロドロに煮るしかない……!」
凛は、普段の三倍は時間がかかるであろう「玄米粥」の長期戦を覚悟して、鍋に火をつけた。
あの、寝癖だらけの王子様が、少しでも楽になりますように。
凛は、玄米の隣に置いてあったもう一つの袋を手に取り、絶望に打ち震えていた。
「……オートミール……」
それは、佐藤が毎朝「食物繊維とGI値の管理」のために食べているであろう、味のしない平たい粒。
健康な時には最高のエネルギー源だが、今の状況で見れば、どう見ても「鳥の餌」にしか見えない。
オートミールを入れ、コトコトと煮え立つ鍋を覗き込み、凛は戦慄した。
「……これ、ダメなやつだ」
どれだけ出汁を足し、どれだけ卵で誤魔化しても、漂ってくるのは「圧倒的な食物繊維」の気配。
健康な時の佐藤先輩なら「完璧なPFCバランスだ」と喜ぶだろうが、今の彼にこれを出したら、胃腸がインフルエンザと食物繊維のダブルパンチでKOされてしまう。
(こんなの、病人に豚骨ラーメン食べさせるようなものじゃない! 凛、しっかりして! 殺す気か!)
凛は、一時間近く格闘した「ドロドロの鳥の餌」を出すのを、土壇場で思いとどまった。
広いキッチンで、凛は一人、自分を責めた。
一年分のポイントを注ぎ込んだのに、結局出せるのは補給ゼリーだけなのか……。
「……あ」
冷蔵庫の隅にあった卵。
「……卵酒……じゃなくて、卵スープ! それに、ブロッコリーを細かくきざんで入れれば……彩りもいい!出汁は胸肉!」
お粥という固定概念を捨てた凛は、光の速さで鍋を洗った。
玄米もオートミールも、今はただの凶器だ。
とにかく喉越しが良くて、温かくて、少しでも栄養になるものを。
「……先輩、お待たせしました。お粥は……その、先輩の家のストックがストイックすぎて断念しました」
韻を踏んだみたいで半笑いになる凛。
凛が寝室へ運んだのは、ブロッコリーの緑が少しだけ鮮やかな、ふわふわの卵スープだった。
寝癖だらけの「王子様」が、重たい瞼をゆっくりと開ける。
「…………卵、……スープ……?」
「先輩の胃腸を守るための、私の英断です! ほら、これなら飲めますよね?」
凛がスプーンでスープを運ぶと、佐藤はひえひえシートの下から、どこか安心したような、それでいて少し残念そうな目をした。
「…………そうか。……残念だ。……佐倉、格闘している音が……聞こえていたから……何かもっといいものが……」
「聞こえてたんですか!? ……白米が無いのが全ての元凶です!ふるさと納税は白米にしてください!いいから黙って飲んでください!」
凛が顔を真っ赤にしてスープを差し出すと、佐藤は素直に口を開けた。
鶏肉の出汁と卵の、優しい味。
「…………美味しい。……胃に、……負荷がかからない……」
「当たり前です! 私、こう見えても実家では看病のプロなんですから(母のお手伝い限定ですが)!」
佐藤はスープを飲み干すと、熱に浮かされた手で、そっと凛の袖を掴んだ。
「…………佐倉さん。……ありがとう、お金無いのに色々、買ってきてくれて」
熱に浮かれながらも凛の資産管理を気にする佐藤に、凛はもう、笑うしかなかった。




