第41話:【想定外】十年後の約束と赤い顔
――僕はここに、十年後はいない。
急に、胸の奥がざわついた。
海外事業部を希望している僕は十年後、日本にいるかも分からない。
それなのに自分から持ちかけてしまった、不確定な長期投資。
「……あの、佐藤先輩。よく考えたら十年後、先輩は三十六歳、私は三十四歳ですよ。ふふふ。」
給湯室から自席へ戻った凛は、追い打ちをかけるようにカラカラと笑う。
「あっ!そうなると、榎木さんと、森さんは定年でいない!?」
「再雇用か、定年年齢の引き上げがあれば、ギリギリいるんじゃないですか。……もっとも、あの二人が労働へのモチベーションを維持していればの話だけど」
「榎木さんはお小遣いのためなら80歳まで働きそうですよね!奥さんがお金に厳しいらしいので……。あの毎日のヨーグルトもお小遣いから買ってるんですよ。だから辞めたら榎木さんの腸内細菌が全滅です!……あ!」
(……八十歳まで。この鳴凪支店の『ぬるま湯』のような居心地の良さは、案外、人生の終着駅としては最適解なのかもしれないな)
一瞬だけそんな思考がよぎったが、凛の次の言葉が、僕の脳内回路に予期せぬ過熱を引き起こした。
「佐藤先輩、その頃にはもう結婚してるかもしれないですね! 奥さんにちゃんと許可取ってくださいね? 『昔のちょっとおバカな後輩に、カニ奢ってきます』って!」
「……ん?」
まるで他人事のように僕の結婚を推奨し、自分は「カニを食べる権利」だけを主張する。その能天気な配当への期待が、僕の苛立ちに油を注いだ。
(((……だから。そういう所が、無性にムカつくんだよ)))
「……僕が結婚しているとは限りません。それに、誰と結婚するかは僕が決めることだから。他人の許可など必要ありません」
僕は努めて冷徹に言い返し、飲みかけのペットボトルをデスクに置いた。
「……佐倉さん。あなたの方こそ、その時は旦那さんに許可を取ってください。十年後、あなたに夫がいる可能性は十分にあります。」
「……え? 私の、旦那さん?」
凛は、まるで「宇宙人の襲来」でも予言されたかのような顔で、きょとんとして僕を見つめる。
「そうです。見ず知らずの男……つまり僕と、二人きりで北海道へカニを食べに行くなんて、普通の夫なら反対するのが当たり前です。揉めないよう、事前に『かつての教育係と密会してきます』と話を通しておいてくださいね」
自分が結婚している未来を他人事のように笑った彼女への、ささやかな報復だった。
だが、凛はしばらく凍りついたあと。
「……あ、あはは! そっか、私にも、旦那さんとか……」
凛の顔が、みるみるうちに耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。
彼女は、自分が誰かの「奥さん」になっている姿を、今の今まで一秒も考えていなかったのだろうか。
あるいは――その「旦那」という存在に、無意識に誰かを重ねたのか。
「や、やだなぁ、佐藤先輩! 変なこと言わないでくださいよ! 私に旦那さんなんて……想像できないですっ! そもそも、私を貰ってくれる人なんて、世界中のどこを探しても……っ!」
凛は激しく首を振って、真っ赤な顔のまま、慌てて淹れてきたお茶を「熱っ!」と悶絶しながら煽る。
(((…………)))
動揺しているのは、僕も同じだった。
彼女の隣に、僕ではない誰かがいる未来。
その光景を自ら口にしておきながら、猛烈な不快感が込み上げてくる。
「……服に米粒が付いています。」
「ふぇ!? あっ、ほ、ほんとだ……っ!ティッシュ、ティッシュ」
パニックで引き出しをひっくり返す凛を横目に、僕はペットボトルの水を一気に飲み干した。
二年の任期。
僕はここに十年後はいないという事実。
この苛立ちの原因は、自分の立てた未来予測が「未来の配偶者の存在に」揺らがされ、かき回されているからだ。
僕は自分の任期の短さを、初めて苦く感じていた。




