第36話:【上書き】独占的なソリューション
どれくらい、そうしていただろう。
ハザードランプの点滅が、暗い車内を規則的に赤く染める。
先輩の腕の力が、少しだけ緩んだ。
けれど、完全に離してくれるわけじゃない。先輩は私の頭を包んでいた手を下ろし、熱を帯びた指先で、私の頬に残った涙をゆっくりと拭った。
「……泣き止みましたか」
「……はい……すみません、取り乱して」
至近距離で見つめられる。
午前中のような冷徹な鋭さはなく、どこか諦めたような穏やかな瞳。
「佐倉さん。君が『わからない』と言うなら、僕が決めていいですか?」
「え……?」
「僕は、ずっと君が理解不能です。おそらくこれからも一生、理解できないと思います」
それは、エリート街道を歩んできた彼にとっての「敗北宣言」のようにも聞こえた。
先輩はポケットから自分のスマホを取り出し、私の目の前に掲げた。
「……スマホ出して」
その声は低く、逃げ場を塞ぐように響いた。
「は、はい」
促されるまま震える手でスマホを差し出すと、先輩は私の画面をじっと見つめた。
「中山君の連絡先、消していいですか?」
「えっ……でも、中山さんは本部の人で、仕事の連絡も……」
「仕事なら、僕を通せばいい。……いいですか、佐倉さん。これは命令ではなく、僕という個人の『わがまま』です」
有無を言わさぬ口調。
けれど、その指先がわずかに震えているのに気づいて、私は何も言えなくなった。
目の前で「中山」という名前が削除され、代わりに先輩のQRコードが読み取られる。
『佐藤 巧』
登録された瞬間に表示されたのは――ウルウルした瞳で見つめてくる、あまりにもあざとい「チワワ」のアイコン。
『佐倉 凛』
そして対する私のアイコンは、以前、佐藤先輩が東京土産にくれた「マッスル猫」のキーホルダーの写真だった。
「…………」
「…………」
車内の重苦しい空気が、一瞬でフリーズした。
「……ふふ。はは、はははは!」
先に壊れたのは、佐藤先輩だった。
眉間に皺を寄せて私を追い詰めていたはずのハイスペック男子が、ハンドルに突っ伏して肩を揺らしている。
「え? ええ? 先輩!?」
「何ですか、このアイコン……。ふふ、マッスル猫って……。僕があげたお土産のじゃないですか。僕、あんなに必死に格好つけて、中山君の削除まで迫ったのに……。一気に台無しだ」
顔を上げた先輩の目には、笑いすぎて滲んだ涙が浮かんでいた。
チワワとマッスル猫。
画面の中で並んだあまりにシュールな二つのアイコンが、私たちの「理解不能」な関係を象徴しているようで、私もつられて小さく吹き出した。
(……あ。先輩、やっと笑った)
削除された中山さんのログ。
新しくインストールされた、プライベートの佐藤巧の名。
私たちが「通常運転」に戻るには、どうやら論理よりも、一匹の筋肉質な猫が必要だったらしい。
「……ふふっ、ウケますね!」
私が笑いながらそう言うと、また優しい目で私を真っ直ぐに見つめた。
「……本当だね。その一言で、全部どうでもよくなった」
走り出した車の中。
窓の外に流れる夜景を眺めながら、高級そうなチワワのアイコンを指で撫でた。




